第三章 賢者

「ただ、飽きてしまって」 -1-

 青く澄み渡る空の下。暖かく、それでいて爽やかな風が吹き抜ける。風は草原のみずみずしい草と、そこに咲く様々な花の香りを運んでいた。

 今日は夏節五一日。

 夏真っ盛りであるが、ユレイト領は今、一年の中で最も心地よく過ごしやすい時期を迎えている。気温は昼間でも二五度を越えることはなく、朝から晩まで二三度あたりの気温が続く。様々な作物が実りを迎え、森や草原に咲き乱れる花が美しく、天候的にも晴天の日が多い。ユレイトの民はこの時期になると、散歩や日光浴などをしに、特に用もなく外出する者が増える。

 エヴァンも今日は馬に乗って、草原の中に敷かれた道を進んでいた。しかし、エヴァンは用もなく散歩に出たわけではない。

 美しい草原の中にある道の先に、丸太の木を組み合わせて作られた、小さく素朴な門が見えてきた。その門には扉が付いているわけではなく、ただ、ここからユレイト領が始まるということを示しているだけの目印にすぎない。

 ここはエヴァンの邸宅から馬を走らせて三〇分ほどの距離にある、ユレイト領の南端。門の先はリオン領である。

 エヴァンは門の手前で馬を止めると、その背から降りた。彼に従ってついてきたロウもまた下馬すると、馬の手綱を引いてエヴァンの側に寄った。

「予定の時間に遅れてるのか?」

「いや、お迎えができるように、俺たちが早めに出てきたからな。しばし草原で休憩しながら待とう」

 ロウの問いかけに答え、エヴァンは手綱を放す。そして道の横にある草原に入り、躊躇なく腰を下ろした。

「敷物はなくていいのか?」

「草は夜露に濡れてもいないし、構わないさ。気持ちいいよ、ロウもおいで」

 エヴァンはそう呼びかけてから、草原の上に無造作に寝転がる。ロウはそんなエヴァンの様子に目を細めてから、同じように横に寝転がった。背中を優しく受け止めてくれる草は適度に温かく、草原の上をわたる風が頬を撫でていくのが、実に心地よい。

「このまま寝てしまいそうだ」

 エヴァンは早くも寝ぼけたような声音で呟く。彼は日差しの眩しさを遮るために、すでに瞼を閉じていた。

「寝てもいいぜ? 馬の足音がしたら起こしてやる」

「少しでも寝たら、そのまま熟睡したくなるから遠慮しておこう。何か話してくれ」

 ロウからの優しい提案に心惹かれながらも、エヴァンは目を閉じたまま、意識を保つように努める。

「何かって言われてもな……昨日もあまり寝れてねぇのか?」

「学舎の構想を練っていたら、ついつい夢中になってしまって」

「本当に作るつもりなんだな、その、学舎? 勝手なことして、法王から怒られたりしねぇの」

「荘園のことは領主に一任されている。自分のところの農民を、土地の制約から解放する権限も領主のものだ。特に問題になることはない」

 二人が話している「学舎」とはその名の通り、学ぶための場所のこと。つまり、学校だ。テディの事件以降、エヴァンは荘園に学校を作ることを計画し始めていた。その学舎では様々な分野の様々な知識を教え、子供たちに、自分の将来についての選択肢を与えることが盛り込まれている。

 しかしこの世界は、農民の子は農民となり、商人の子は商人となる世界だ。知識や技術は親から子へと伝えられるもの。裕福な家庭であれば家庭教師を呼び、子供の教育をすることはあれ、公的な学校というものは存在しない。

 エヴァンは前代未聞かつ、掟破りなことを始めようとしていた。

「なぁ、主人。聞いてもいいか」

「なんだ?」

「もしその学舎でいろんなことを勉強した農民の子たちが、全員農民じゃなくて別のものになりたいって言ったらどうするんだ? 農民がいなくなったら、皆食うものがなくなって餓えるぞ。それに、土地の制約から解放されれば、皆ユレイト領から出て行っちまうかもしれない。そうなれば、荘園全体が傾く」

 ロウからの質問にエヴァンは目を開くと、腕枕をするように体を横にして、ロウの方を向いた。

「俺はそうはならないと思っているが……そうだな。もしそうなったら困るよな」

「困るよな、でいいのか?」

「良くないから、そのあたりのことも考えねばならない。だが、意外だな。ロウは学舎の設立には否定的か?」

 エヴァンが逆に問い返すと、ロウは視線を青空に浮かぶ雲へと向ける。

「否定的ってわけじゃねぇが、主人のことが心配なんだ」

 エヴァンはふふっと笑う息を漏らした。

「ギルバートと同じようなことを言うのだな」

「何も言わない奴らもだいたい皆、同じ気持ちだと思うぜ。無理矢理自我を通してメイドになった俺が言うのも何だが。皆が皆、なりたいものになれる世の中になったとして、その世の中がまともに機能するとは思えない」

 ロウの言葉に、エヴァンはうーんと小さく、唸り声のようなものをあげる。

「俺が何をしたところで、皆が皆、なりたいものになれる世の中にはならないだろう。例えそういう荘園を目指そうとしても、な」

「そういうものなのか?」

「商人が一番わかりやすいが、商人が飽和している状態では、商品を仕入れること自体難しくなる。そうなると職人や農民に、周囲の商人より高い値段を提示して物を仕入れる必要がある。それを売るとなると、今度は客に、他の商人でなく、自分のところから物を買ってもらわなきゃならない。となると、より安く売るしかない。高値で仕入れて安値で売るのだから、利益は上がりにくい。生計の立てられない職業では生きていくことはできないから、より仕事のできない者から、商人をやめざるを得ない。

 土地の制約がなくなれば、農民は全員好きな場所で、好きな職を名乗ること自体はできるようになる。だが、その名乗った職で生計が立てられるかどうかというのは、また別の話だ。ロウがメイドになりたくて、メイドとして雇ってくれる場所を探し続けたように」

 次に唸ったのはロウの番だった。

「なるほどな。選択肢を持たせるが、結局、実際にやっていけるかどうかは本人次第ってことか。なんだか、それはそれで残酷な気がするな。であれば、生まれた時から、自分は農民の子だから農民になるのだとか、商人になるのだとか思っている方が、穏やかな人生が送れる者も多いんじゃねぇか。良い意味で諦めがつく」

「そうだな。なので、俺は何も、元あるこの国の制度を崩壊させるつもりはない。ただ、ロウやテディのように、どうしてもなりたいものがあると熱意を燃やす者に、生まれに関係なく、平等に機会を与えてやりたいのだよ」

 エヴァンがそう話し終えた時、ロウは何かに気づいたように、上体を起き上がらせた。

「主人、馬の足音だ」

 エヴァンの耳に音は届いていなかったが、ロウが言うのであれば間違いはない。エヴァンも続けて体を起こし、自由にさせていた馬の手綱を握って引き寄せた。

 門の先にも続く道を見ていると、間も無くして二頭の馬と、それに騎乗する者の姿が見えてくる。

 二人は今日この場所に、ユレイト領に新たに赴任してくる聖職者を迎えに来ていた。春先に上がってきていた陳情を叶えるため、ミレーニュ村に新しい教会が完成したのだ。

 この世界の聖職者は、法王によって特別に任命される領主同様、他の職業とは一線を画している。

 聖職者は王都生まれの者に限定され、かつ国の長でもある法王を頂点とした、厳密なピラミッド状の階級で管理、統制される。

 法王の近くで国全体の政治をおこなっているのは、僅か一二人の大賢者と呼ばれる者たち。その下に定員一〇〇人と決まっている賢者がいるが、彼らは王都を離れることはない。領主からの要請で各領地に派遣されるのは司祭か、そのさらに下の階級のブラザーとシスターである。彼らは望んだ場所に自ら赴くのではなく、あくまで法王の命の元、赴任先へとやってくる。

 身分としては聖職者よりも領主の方が上だ。しかし、領主も聖職者も、法王に任じられているという立場は同等である。そのため、例え相手がブラザーやシスターであっても、聖職者に対しては領主が最大限の礼を尽くすのが慣例である。

 だからこそ、エヴァン自ら領地の端まで迎えにやってきたのだ。

 馬二頭が近づき、その姿が鮮明に見えるようになると、エヴァンの表情が徐々に驚きに包まれていく。

 先頭を行く馬に跨った男が着ている祭服が、今日の青空のような、美しい水色をしているからである。それは、彼の身分がブラザーや司祭ではなく、賢者であることの証であった。

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