第4話 築地梁山泊
「武ちゃん、ここはしばらく暇だから外に出てきたら」
「綾ちゃん、ありがとう。書生さんをお供にしてもよろしいかしら。浅草辺りでお芝居でも見てこようと思うの」
「それよろしいわね。気分転換にはもってこいでしょう」
外出用の着物に着替えて、書生さんを連れて浅草に向かった。外に出るとここは海の香がする。上州は海から遠い。この空気を吸うことすら別世界に来た感じだった。
浅草に着くと芝居小屋に向かった。特に贔屓の小屋とか役者がいるわけでもないので、人が多そうなところにした。子供の幸せのため、親子が名乗ることもできず、別離を選ぶという演目だった。多少違うとは言っても、身につまされるセリフが多くて、話が入ってこない。ここは失敗だったなと思ってしまった。
隣から鼻をすする音が聞こえて、チラと見たら、顔に大きな傷痕のある書生風な殿方が、座っていた。かなり泣いているようで、そちらのほうが気になってしょうがなかった。そんなこんな考え事をしている内にお芝居が終わってしまった。
「どこかでお茶でもしてから帰りませんか」
書生さんに声をかけた。
「すいません、やり残しも待っているので、帰らないと」
「あらぁそれはこちらこそ、すいませんでした。それでは舟で帰りましょうか」
「それはいいですね」
ちょうど舟がついていて、先客が何人かいた。真ん中が空いていたので座った。舟は風が気持ちいい。天気がいいときは本当に楽しい。土手の景色も、木の緑が映えてこれが一番の気分転換になる。でもこの区間はすぐに着いてしまうのが残念。船から降りて、家に向かう。築地に着くとこの辺りが少し緊張する。近くに
ずっと後ろを歩く人がいることが、気になってきた。いくつ角を曲がっても、音がついてくる。
「何かご用ですか。ずっとあとをついてくるなんて」
思わず振り向いて、威圧する様に言った。
「はぁ、わしは自分の家に帰るところじゃ」
予想しない答えに動揺してしまった。しかも相手は、芝居小屋で隣りにいた殿方だ。
「あれぇ、井上様」
お供の書生さんも驚いて、振り向いてから言った。
「おぬし、大隈んところの書生じゃな。ちょうどええ、お供に加えてもらおう。そこのお姫さまもええじゃろ」
井上と呼ばれた人は、にっこり笑いかけて言った。その後書生さんと何やら話しだした。
「お姫様、それではお供仕ります」
芝居じみた物言いで井上が言った。少し癪にさわるが仕方がない。
「わかりました。共に参りましょう」
芝居のセリフのマネをして言い返した。
井上という人は大笑いをしていた。本当になんていう人だ。
家の前についた。何度見ても凄い門。ここは佐賀出身の大蔵大輔で大隈重信様のお屋敷なのだ。
門まで一緒にくぐると井上は「わしはこっちなんじゃ」と言って長屋の方に行った。
別れると書生さんが井上というひとの説明をはじめた。今まで見たことがなかったのは、大阪の造幣寮にお勤めだからと言う。東京に用事がある時に、この長屋を使われるのだと。長州出身で、お隣にお住みの伊藤様とお友達でもある等。
「あのお顔の傷はどうされたのです」
ずっと気になっていたことを聞いた。
「あの傷は、維新回天の時に対立していた、反対派に切られたときのものと聞きました。全身ずたずたにされて、奇跡的に回復したらしいですよ。伊藤様に言わせると不死身の
「
「井上様は今、井上馨って名乗られてますが、ご維新前は聞多とされていました。藩公からいただいたとか」
「毛利公から」
「はい、御小姓だったそうです」
見かけによらずご立派な方だったのか。
「井上様のこと教えてもらってよかった。今日は、ありがとうございました」
お供をしてくれた書生さんと別れて、綾子が忙しくやっているだろう奥に行った。
「綾ちゃん、帰りました。浅草楽しかったですよ。今度はご一緒しましょう」
「それは良かった。そうね今度はね」
「そういえば、井上様とお会いしましたよ。長屋にお入りに」
「あら、それは大変。全くあの人そんな事、仰ってなかったのに」
「大変なんですか。井上様」
「井上様が大変ではないのよ。まぁ大変な方ですけど。伊藤様が必ずお越しになるし、長州の方々も大勢お越しになるので、準備も多めにしておかないと」
「私は何をやりましょうか。この里芋とかで煮物でも」
「そうね。それいいわ。おねがいしていいかしら」
色々なおかずや酒のあてになるものを用意して、お女中さんにお風呂の準備ができているのも確認しているうちに、役所が終了したのか人が増えてきた。
御主人の大隈様がお戻りになって、宴会なのか討論会なのかわからない状態になってきた。段々と床とか椅子に寝転ぶ人が増えてきた。片付けは書生さんもするので、今日は休んでいいと言われた。寝支度をして自分の部屋に戻ると、一日の疲れがどっと来てすぐに寝てしまった。
朝も早い。泊まっている客人の朝食を用意する。ご飯と味噌汁、お漬物で済ましてもらう。台所のテーブルにお盆を置いて、一人分ごと乗せて持っていきやすくするのだ。武子はその一人分を持って、台所の隅で食することにしていた。すると女中たちが騒がしくなった。何事かと周りを見ていると、目があったお女中が声をかけてきた。
「武子様、あちらが井上様ですよ。何でもご自分でなさろうと、ここまでおいでになるので、押し留める人達とこうなるんです」
「井上様、そちらにお持ちしますので、お待ちくだださい」
女中頭がきっぱりと言った。
「わしは客人ではないんじゃ。己のことは己でやるほうがええじゃろ」
「いいえ、これは私どもの仕事です」
そう言い切られると、諦めたらしくテーブルに向かって行った。武子はお茶も載せて、届ける様子を影から見ていた。
なぜ綾子が大変ではないけれど、大変と言っていた意味がわかる気がしていた。
「井上様、主人から言伝を頼まれております。一緒に馬車で登庁したいのでお待ち下さいとのことです」
「わかった。それは助かる」
食べ終わった井上は、盆を持って台所にやってきた。
「馳走になった。茶をもういっぱい頼む」と湯呑を差し出してきた。湯呑に茶を入れ渡すと、「ありがとう」と言って席に戻っていった。
しばらくすると、大隈がやってきた。
「馨、準備はできとるか。少し話もしておきたいのでな。それじゃ行こうか」
「おう、助かる。実は心の準備が・・・」
にぎやかに二人で出ていった。こうして朝の嵐も過ぎ去っていった。
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