第3話 初恋の行き先

 東山道鎮撫総督の岩倉具定が岩松家にやってきた。岩倉は大政奉還後の世の中の説明を行おうとしていた。その供の中に鮫島がいた。先日のドキドキの正体を、武子はどうしても確かめたかった。そうだ、声をかけてみよう。

「鮫島様、お久しぶりでございます」

「これは、岩松の姫様。お久しぶりでございます」

「武子と申します。以後そのようにお呼びください」

「武子さんですか。まさにすっとした姫様で御座いますな」

「そのようなこと、恥ずかしゅうございます」

「私になにか用でございますか」

「実は新しい時代の話に興味がございます。女子にも変化が起きると」

「そうですね。立ち話もなんですから、お座りください」

 そう言って、東屋の椅子に二人で座った。

「我らは、公儀を倒し、帝を中心にした世を作ろうとしております。そして、皆の意見を聞く公儀公論を、起こしたいと考えています。さまざまな新しいことに、西洋の仕組みを取り入れようとすることになりましょう。学問を誰もが受けられるようになると、世の中は確実に変わります。それは、女子であってもそこから抜けることはできないでしょう」

「本当ですか。私にも学問が。嫁に行くだけが生き方でないと」

 武子はキラキラと目を輝かして、鮫島の話を聞いていた。鮫島の方も、この話に興味を持つ武子が、一層麗しく見えていた。

「武子さん、おいは、本当は中井弘と申す。鮫島は身の危険からそらすための変名じゃ。この戦が終わったら迎えに来る。絶対じゃ。江戸で共に暮らすというのはどうじゃ」

「えっ、そのようなことができるのですか。江戸で…」

「そうじゃ。江戸で暮らすとじゃ」

「わかりました。お待ちしております」

 武子の方は、これが求婚のようなものだったと、理解していたかどうか。とりあえず、中井は受け入れられたと考えて、中山道の状況の収集に努めながら江戸に向かって行った。

 新田勤王党は岩倉の指示により、新田官軍となり、公儀に反旗を翻した諸藩とともに、会津の上州への攻撃を阻止した。そして、江戸に着くと、東京の鎮守府に編入されて、市中警備を行っていた。


 相変わらずの日々を、新田の領地に暮らしていた武子は、いつの間にか中井と約束していたことも忘れていた。元号も明治と変わり、世も新しくなるかと思っていたが、身の回りまで変化は及んでこなかった。そこに、洋装をした男がやってきた。

「岩松の姫様、お迎えに上がりました。中井です」

「えっまことに、中井様ですか。洋装なので、見違えました」

「はい、中井弘です。お変わりなく」

「変わったのか、変わらなかったのか、よくわかりません」

「はい、本当です。殿様はいかがされましたか」

「父は始め江戸に行きましたが、今は越後におります。たしか新潟の知事を拝命しております」

「そうですか、それでは江戸には無理ですか」

「本当にですか。本当に江戸にお連れいただけるのですか」

 武子にはあのときのドキドキが蘇り、もう居ても立っても居られない気持ちだった。この機会を逃したら、何も変わらないこの田舎暮らしが続くのだ。親の言うなりに縁談も受けなくてはならない。そんな未来にうんざりしていた自分に気がついた。


 武子の心の中を見透かしていたのか、中井は笑っていた。

「おいは、そのつもりで来もした」

「父のことは大丈夫でございます。屋敷にいるものに説明をしておきます。ただ急なので少し支度の時間をいただきたい」

「わかりました。武子さんの準備ができ次第、参りましょう」

 急いで、旅の準備と新生活に役に立ちそうなものを少し持った。当然金も少し。そして、置き手紙を残して、中井とともに江戸に向かった。その途中で、これが恋なのかわからないけれど、中井に求められるまま抱かれたりしていた。別に嫌だとは思わなかった。だんだんと、妻と呼ばれることも多くなり、抵抗も感じなくなっていた。


 江戸に着くと、新政府に出仕した中井を夫として、武子は妻として生活をしていた。これも、自分らしいかと思っていた頃、突然の出来事が訪れた。

「武子さん、困ったことになった」

「どうかなさいましたか」

「薩摩に帰らんにゃならんくなった。新政府はやめて藩政府の役人につけと申し渡された。だが武子さんを連れて行くのは無理だ。もしかすっと命をも狙わるっかもしれん。そん覚悟もしちょいて欲しか」

「私は岩松家に帰れと。そんな今更」

 武子は困惑していた。ほとんど駆け落ちのような状態で、始めた暮らしだった。実家に帰るのか、父に謝れとしかも一人で。

「それは、無理だとおいもわかっている。大隈さんの屋敷で、おいてもらえるように話をしてみた。そうしたら、大隈さんの奥方は元は三枝という旗本の姫で、綾子さんというのだ。武子さんとは昔からの友人で、気にしていたと」

「それは本当ですか。綾子さんが大隈という人の妻になっているというのは」

「本当じゃ。大隈さんは肥前の人で、いまや大蔵大輔という政府の有力者じゃ。大隈さんの屋敷は幸い広いから、武子さんが暮らすには問題はない。すまないが、そうしてくれんか」

「わかりました。綾子さんがいらっしゃるのなら、私はこんなに楽しみなことはないです」

 武子には以前感じていたあのドキドキは、この生活にない。中井にもドキドキを感じていない事を、抑えてきたのだった。

「安心して、薩摩にお帰りください」

 武子はこんな時、本当は涙を流して言うのだろうが、すごく冷静に言えてしまったと驚いていた。しかし、中井は武子を流石に聡明な、武家の女性だと感心していた。

「もう一つ言っておくことがある。おいは武子さんを妻とも妾とも権妻とも届けてはおらん。これからは、ご自分の思いのままお生きなさい。それがおいができるただ一つのことじゃ」

「えっ。そんな。私は貴方の何だったのですか。私は妻だと…」

「おいの宝物じゃ。そいは変わらん」

 そう言って、中井は武子の額にくちづけをした。そして、武子を大隈の屋敷に届けると、そのまま去っていった。

「中井さんとこんなに簡単にお別れを。あのドキドキは恋い慕うものではない?」

 武子には恋い慕うということは、よくわからないということだけが、わかったのだった。


「綾ちゃん、こんな形でお会いするとは。自分でも嘆かわしい」

「武ちゃん、私だって、大隈様の妻になるなんて思いもよらなかったの。だって、三枝の家は兄上が彰義隊に参加してお亡くなりなって、政府に弓を引いたと処分を受けて生活が苦しくなってしまったの。それで、芸者になったのだけれど。初めてのお座敷でお会いした時、とても気に入っていただけたようなの。でも、大隈様は肥前に奥方様をおいていらしたの。それでもお会いするたびに親密になって。そして、私をとても大切に思っていると、おっしゃってくださって、奥方様と離縁された。そういう事なの」

 綾子はまず自分の事情を説明して、武子の負担を軽くしようとしていた。そして、今後のことを伝えていた。

「大隈は、ここで好きに暮らしていいと、言ってくれているの。だから、武ちゃんは肩身の狭い思いなんてする必要ないの。新しい暮らしが待っているのよ」

「ありがとう。何か、ここはいろいろな人が出入りしているとか、そのお手伝いをさせてもらえないかしら。ただでおいてもらうのも気が引けるし」

「そうしてもらえるととても助かります。是非ともお願いします」

 そう綾子が答えると、武子もホッとした顔をしていた。そして、二人で笑いあった。

「でもね、ここに来る人達、とても面倒で、面白いの。しかも、新しい人で、政府の開明派と言われる人が多いの。美人には目がないから、武ちゃんもそのへんは気をつけてね。中井さんの妻なんだから」

「綾ちゃん、私のこと説明して良いかしら」

「あら、何、改まって」

「これは、中井さんから聞いたことなのだけれど。私は正式には妻になっていないというの。妾でもなく権妻でもないと。只の想い人だったということらしい。だから、もう自分のことは自分で決めなさいと言われたの」

「そうだったの。中井さんはずるい人だ。でも、武ちゃんにはそれで良かったのかも。でも、本当に気をつけてね」

 そうして、綾子とともにこの家の食事などのことをするようになっていた。昼の自由な時間には、本を読み、時にはでかけ、武子は自分の好奇心のおもむくまま、様々なことを学んでいった。

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