結実 その二十一

 この言葉が妙に引っかかる。


 神経に神の姿を映す。それは、例えば視た化け物の姿が視神経を通じて脳に伝達される過程のことを言っているのだろうか。いや、もしそうだとしたら逆だ。まず、この世に神が現れ、そしてその次に人間は神の姿を認識するのである。神経伝達が先ということは決してあり得ない。しかし、この男が言っているのは逆だ。まるで、人間の認識が先にあり、そして神の顕現という事実が後から形作られる、そんな言い方だ。


 私の中に産まれた小さな違和感。それが徐々に肥大化していく。


 そもそも何故陸軍はクチナシ様を産みだそうと考えていたのだろうか。クチナシ様は確かに恐ろしい存在だ。私もこの目で見たから分かる。しかし、たった一体の化け物の存在が戦局を左右することなどあるのだろうか。いや、あの村で見つけた報告書の記述を読む限り、クチナシ様は人間の精神を崩壊させる、または操ることができるようだ。あの実験の被験者だった使用人の猿渡は、クチナシ様を見たことによって発狂し、自身の孫娘を殺害している。陸軍が目を付けた力はこちらの方か。


 津田の調べでは第一の実験の目的はクチナシ様を人の胎児へと憑依させ、そして制御できるかの実験だったらしい。なお猿渡はその胎児を手にかけ、クチナシ様を殺す役割だったらしい。少なくとも猿渡自身はそう認識している。


 何かがおかしい。


 陸軍の目的がクチナシ様の人間の精神への攻撃能力を制御するためだとするならばクチナシ様を殺そうなどしないはずだ。もちろん制御できない場合に備えて対策を用意していたと考えられる。しかし、猿渡は自身の聴取の冒頭語っていたとおり、村に災いをもたらすクチナシ様を祓うために儀式を行ったと認識している。すべてこれが仕組まれていたことなのだとしたら、最初から陸軍はクチナシ様を殺すつもりだったということだ。


 明らかに矛盾している。


 クチナシ様の力を行使したいのであれば、殺してしまってはいけない。従え、制御しなくてはいけないのだ。


「己が神経に神の姿を映すことでこの世に顕現させる」


 私は敷島の手記の一文を反芻する。


 そのとき脳裏に津田の声が響く。


 ――人間は、信じたいものしか信じない

 

 そして、津田はこうも言った。


「真実なんて存在しない……どんなに馬鹿げた虚構にまみれていても、それを信じる人間からすれば真実になる……」


 その瞬間、脳の中でパズルのピースが一つはまる音がした。


 陸軍の目的はクチナシ様を召喚すること。これは間違いない。しかし、その召喚方法が問題なのだ。敷島桜という男は、クチナシ様という存在を召喚させたのだ。


 つまり、すべては虚構。しかし虚構だとしても、人間の脳がそれを真実だと認識すればそれは真実となる。事実、猿渡を含むあの村の人間のほとんどは本気でクチナシ様の存在を信じていたし、そしてその姿もはっきりと視認している。


 洗脳を超えた洗脳。人間の五感すら支配しうるほどの精神支配の技術。これこそが敷島桜の真の研究目的なのだ。当時の軍部が興味を持つはずである。


 だとすれば、私もこの一連の事件を経験することでいつしかクチナシ様の存在を信じるようになり、そしてついに幻視までするようになっていったということなのか。


 いや、だとしたら姉は何処へ消えたのだ。私が目を覚ました時、彼女は確かにあの部屋にはいなかった。連れ去られたと思い込んだから姉の姿を認識できなくなっていたのか? しかし人間の姿まで視認できなくなるのだろうか。


 嫌な感覚、予感とでもいうのだろうか、とにかくとてつもなく気味の悪い感覚がざわざわと全身を駆け巡る。


 その時再び津田の言葉が頭の中で響いた。


 ――まるで、君たちのために語られた怪談のようじゃないか。


 確か、津田とあの岬に凛子の弔いに訪れたときに出会った地元男性が怖かったと話をしたときだ。茜ちゃんからあの岬の怖い噂を聞いていた私は、地元の男性が私達を危険な心霊スポットに案内しようとしていると勘違いして恐怖を感じたのだった。それを聞いた津田は、そんな噂など聞いたことがないと不思議がっていた。そして、そのことに対して、先の発言をしたわけである。『君たちのために語られた怪談のようじゃないか』と。


 そうだ。まるで私達のために用意されていたようじゃないか。だって私達はその噂話をきっかけにその岬に向かったのだ。


 髪の毛が逆立ち、胸の辺りに冷たい靄のようなものが広がっていく。心臓も早鐘のようだ。


 凛子の死、それから死体につけられていたという無数の歯形、凛子が言った「クチナシ様」という言葉、津田と見つけたあの村と報告書、郁人さんの死、津田の死、それらすべてが私の意識にクチナシ様という存在を強く刻み付けている。そして私はついにクチナシ様の姿を見た。


 この一連の事件は、敷島桜が行った過去の実験と同じなのだとしたら? つまり、クチナシ様を召喚する儀式なのだとしたら?


「そんな……」


 いや、思えばおかしなことが沢山ある。


 いつの間にか手に入れていた心霊写真、その写真を小学校時代の親友だと思い込んでいた私、マタニティブルーであった姉に勧めたという精神科、いくつもの知らない私が私の中にある。これらにはすべてある共通項があるのだ。


「私の記憶が操作されている……」


 先ほどから感じていた気味の悪さの原因が何なのかやっと分かった。


 悪意だ。


 この仮説が正しいのだとすれば……。


「この事件の黒幕はクチナシ様なんかじゃ……ない?」


 しかし、凛子は私の目の前で飛び降りた。いくら精神を操ることができたとして、自殺に追い込むことなどできるのだろうか?


 私は、あの日の凛子を思い出してみる。


 満月に照らされ青白く照らされた凛子の顔。歯をむき出し、三日月型に歪んだ目は恍惚とし、彼女は嗤っていた。


その顔をみて私はあることを考えた。


 ――と。


 なぜあの時、そう考えたのだろうか。


 その時、頭蓋が割れるかと思うほどの頭痛に襲われた。


 激しい痛みで遠くなる意識のなか、そういえば凛子と初めてあの岬を訪れたときにも頭痛に襲われ、気絶してしまったことを思い出す。


 あの時の光景がフラッシュバックする。


 断崖に立つ凛子。その後ろに広がる群青色の世界と満点の星々。凛子は軽やかに振り向くと、私に微笑みかける。『瑠璃もおいでよ』という楽し気な声。


 ――あれ? そう言えば、凛子が飛び降りたときって星、出てたっけ? だめだ。思い出せない。


 海に浮かぶ咬ヶ島の濃紺のシルエット。そして葉擦れ音と鈴の音。


 ――そういえば二人で島を眺めていたとき、背後で物音がしたんだった。それから私は、音の方を振り返った。それからどうなった? ああ、そうだ。それで頭痛だ。痛かったんだ。今と同じように。


 それから、誰かの悲鳴。


 ――悲鳴? 誰の?


 目線の先、芝の上に凛子が横たわっている。凛子は倒れている私の方を向いている。その目は恐怖と苦しみが浮かんでいた。涙をその目に溜めながら苦しそうにもがく凛子の唇が微かに動く。その形は凛子の最期の言葉を語る。


「にげて」


 ――逃げて? いったい誰から?


 私の視線は彼女の瞳から首の方へと移る。凛子のその細く美しい首は、手袋をつけた何者かの手によって絞められていた。私の視線はゆっくりとその何者かの腕を上へ上へと這う。そしてついに、その人間の顔を私は見た。


 その顔を私は知っていた。


 さらに混濁していく意識の中、私は納得した。だからあの時、凛子が飛び降りたとき、私は『もう死んでいる』と思ったのだ。私は、この目で凛子が絞殺されるのを見ていたのだ。忘れていただけだ。たぶん、凛子が目の前で飛び降りたという記憶は、何者かによって植え付けられた虚構の記憶なのだろう。


 頬に感じる冷たい感触で私は深層記憶の海から浮上する。


 後頭部がひどく痛んだ。


 どうやら私はうつ伏せに地面に伏しているらしい。


 私の焦点の定まらない視線の先に、敷島の手記があった。倒れた拍子に取り落としたらしい。


 私の頭のすぐ脇で靴音が聞こえる。


 次の瞬間、私の視界の中に人間の足が現れた。


 その足は手記のすぐそばまで進むと折りたたまれた。どうやら屈んでいるらしい。


 視界の端からにゅっと手袋をつけた手が伸びてくる。その手は手記を拾い上げた。


 手記が開かれる。


 私は何とか立ち上がろうと四肢に力を入れてみるが、痺れて指一本ピクリとも動かせなかった。


 しばらくすると、手記を読んでいた人間が立ち上がったのか、二本の足が伸びる。そして、その足は靴音を響かせながら近づいてきた。


 私の顔の目の前で二つの靴が止まった。


 その靴を私はやっぱり知っていた。


 後頭部にもう一度衝撃が走り、私はそのまま気を失った。

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