結実 その二十

 これは敷島桜の日記なのだ。


 日付を確認すると、昭和十六年七月十五日とあった。昭和十六年と言えば太平洋戦争が勃発したその年である。確か、真珠湾攻撃は昭和十六年十二月八日だったはずだ。


 この日の日記の書き出しから想像するに、おそらくクチナシ様を召喚する儀式の前日なのだろう。だとすれば、この悍ましい実験は本当に開戦の直前に実施していたということである。


 彼の文字は少し震えていた。彼の静かな興奮が、文字を通じて伝わってくるようだった。


 彼の日記は雄弁に語る。


 明日は私にとってもこの国にとっても重要な一日となる。クチナシ様が産まれたこの島で、私は偉大なる禍をもう一度顕現させるのだ。私がこの伝承を知った二十年前のあの日から、私の心はクチナシ様という存在に魅せられている。若狭国の落人が流れ着いたこの土地で、彼らの怨嗟の炎は燃え上がった。その炎の中から生まれた存在がクチナシ様である。その炎に己を焼かれながら、怨敵を呪った彼らの気持ちが私には痛いほど分かるのだ。私自身が何者を憎んで、恨んで、呪っているのかもはや分からなくても。ただ、重要なことは、人間は真の意味で神と交信できるということだ。そしてこの研究の最大の成果は、それを真摯に、そして誠実に証明してきたということであろう。神経とはよく言ったものだ。人間には神気を感ずる経絡が産まれたときから備わっている。それは、つまり人間は生まれたときから神と交信できる能力を有しているということである。己が神経に神の姿を映すことでこの世に顕現させる、それがどれだけ価値のあることか。我々はこの力を手にしたとき、真に生命として次の段階へと歩を進めるのである。それは、生命の進化とすら呼べるものなのだ。もう一度言おう。明日は人類にとって重要な一日となる。神との邂逅という人類の果てなき夢がかなう日なのだから。


「狂ってる……」


 全身に虫唾が走る。


 この男は本気でクチナシ様という恐ろしい化け物の存在を信じ、そしてそれをこの世に生み出すことができると信じている。そしてそれが、正しいこと、価値あることであると本気で信じているのである。そして実際にクチナシ様を呼びだした。そのせいで私は大切な人を沢山失ったのだ。到底許せるわけがなかった。


 私は鉄格子の先にある鉄扉を振り向く。


 その扉はあの夢の中で敷島桜が必死に押さえていたものだ。


 この扉の先に姉とあの化け物がいる。


 私は決着をつけるための最初の一歩踏み出す。背後のトンネルに私の靴音がこだまする。


 扉の前に立つ。その鉄扉には『帝国陸軍 第十一陸軍研究所』という文字が書かれており、小さな錠前がぶら下がっていた。当然鍵は閉まっている。しかし、相当年期が入っており、完全に錆びついている。何か硬いもので叩けば壊すことが出来そうだった。


 手頃な石などがないかあたりの地面を懐中電灯で照らしてみる。すると、鉄扉の近くにレンガ材が一つ落ちていた。懐中電灯を上向きに地面に置いてから、そのレンガを持ち上げてみる。十分すぎるほど重量感があった。もしかしたら鉄扉を開いておくためのストッパーに使っていたのかもしれない。


 レンガを両手で掲げ、思い切り振り下ろす。レンガは狙ったとおり錠前に当たる。大きな音がトンネル内に反響する。まだ錠前は壊れていない。しかし、少し歪んでいた。もう一度掲げ、今度は錠前の上部に力が伝わるように狙って振り下ろす。狙いどおりレンガは錠前の上部に激突する。その衝撃で錠前の細いU字をした金具部には大きな引っ張り力がかかり、大きく歪んだ。何度も同じ個所にレンガを打ち付けているとついに、大きな音とともに金具が千切れた。


 私はレンガを乱雑に地面に放り投げる。レンガは地面で三つに砕けた。


 錠前を外してから鉄扉の取っ手をつかむ。取っ手に少し力を込めて引いてみると、意外なほど滑らかに扉は開いた。少しだけ開いた隙間から、饐えた匂いが染み出してきた。


 ふと、あの夢の中で、この扉の向こうに助けを求める無数の人間達がいたことを思い出す。もしかしたらこの扉の向こうには多くの死体が転がっているかもしれない。そんな恐ろしい想像が脳裏をよぎる。


 しかし、ためらっているような時間はない。


 覚悟を決めて、扉を勢いよく開ける。


 さっと懐中電灯で中を照らすが、死体などはなく、冷たいコンクリート造りの廊下が続いているだけだった。二十メートルほど言った先は丁字になっているようだ。


 ゆっくりと室内に侵入し、後ろ手で静かに扉を閉めた。その音を最期に何の音もしなくなった。耳が痛くなるような静けさだった。


 息を殺し、一歩踏み出す。


 細心の注意を払って、なるべく音が立たないように歩いたつもりだったが、その小さな靴音ですら、この廊下に響き渡る。


 あの化け物に気づかれやしないかと、緊張で背筋が強張っていく。


 そろそろとコソ泥のように腰を落として進み、やっとのことで突当りまで来る。やはり丁字になっており、左右に道が続いていた。


 どちらに進むべきか、何かヒントはないかと懐中電灯で目の前の壁を照らす。行き先を示す表示のようなものは特になかった。しかし、何か黒いシミのようなものがいくつかついていることに気が付いた。目を凝らして見るとそれは人間の手形だった。おそらく血でぬれた手で壁を触ったのだろう。


 それに気が付いた瞬間、私は恐怖に慄き尻餅をついた。声だけは必死に両手で押さえた。


 何とか落ち着きを取り戻し、立ち上がると私のすぐ背後で物音がした。今度は我慢できずに小さな悲鳴を上げてしまった。咄嗟に振り返るが、誰もいなかった。


 心臓が痛いほど大きく脈打つ。


 懐中電灯で今来た道を照らす。すると、足元に先ほど拾った敷島の手記が落ちていた。どうやらパンツの後ろのポケットに入れていたものが立ち上がる際に落ちたらしい。


 拾い上げようとその場にしゃがみこむ。

 

 手記は先ほど栞が挟まっていたページが開いていた。

 

 そしてある一文が目に飛び込んできた。


「己が神経に神の姿を映すことでこの世に顕現させる……」


 私は思わず口に出し、その記述を読み上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る