結実 その十九

 どれだけ下ったのだろう。永遠にも思えたその急峻な階段がついに終わりをつげる。目の前にはどこまでの続くトンネルの入り口が大きく口を開けていた。それは今下りて来た階段の大きさからは想像できないほど大きかった。高さは三メートルほど、横幅は四メートルと言ったところか。車も一台であれば悠々と通行できる大きさである。トンネルの内部はしっかりとコンクリートで固められており、現代のトンネルとそう違いはない。トンネルの天井部には、等間隔で網がかかった電灯が吊り下げられており、それらは太い電線で繋がれている。もちろん、あたりにスイッチなどはなく、それらは、しんと押し黙ったままで、灯りと言えば手に持つ懐中電灯の明かりだけである。


 ざっとトンネルの内壁に懐中電灯の光を這わせる。


 コンクリートの内壁はじっとりと濡れていた。その濡れた内壁は、生き物の粘膜のようにぬるりと気味の悪い色彩で光る。


「口……いや膣か……」


 痛いほどの静けさに耐えられなくなった私は、そう呟いてみた。


 私の声がトンネル内に反響する。幾重にも折り重なった私の声は、まったく知らない誰かの声のようだった。


 しかし、膣とは言い得て妙である。


 このトンネルが通じる咬ヶ島はあの化け物が産まれた場所であり、いわばはらだ。そして、このトンネルは外界へと通じる産道に当たるわけである。


 懐中電灯の明かりの届かぬ闇の先に、耳を澄ます。ぽつりと雫が水面に当たる音以外、何の音もしなかった。


 深く息をする。


 その息は、懐中電灯の光に照らされて幽霊のように白く、儚げに光る。まるで、一呼吸する毎に私から私という存在が少しずつ離脱していくようだった。私が私でなくなっていく感覚。そんな不吉な感覚を必死に頭から追い出す。


「お姉ちゃん、待ってて。今行くからね」


 そう呟いてから、トンネルの内部へと足を踏み出した。


 ばしゃり、と踏みしめた地面から大きな水音が響く。その次の瞬間、ブーツの隙間から氷のような冷たさの水が浸入してきた。あまりの冷たさに全身に鳥肌が立つ。


 ここで足を止めれば余計に凍えることになる。


 拳を握り、手のひらに爪が食い込むほど強く力を込め、必死の思いで二歩目を踏み出す。 左足の靴の内部にも水が浸入してきた。三歩目を踏み出すころには、右足の指先が鈍らで切り裂かれたように痛んだ。


 歩く度に水深は増していく。十メートルも進むと、ハイカットのブーツは完全に水没した。歩を進める度、パンツとブーツの隙間から恐ろしいほど冷たい水が侵入してきて、その水の重みでまともに歩けなかった。


 もう、いっそのこと脱いでやるか。


 そのとき、あの村で発見した館の探索前に津田が言った言葉が思い出される。


 ――まさか、靴を脱いで上がるつもりか?


 水底に何が落ちているか分からない。もし裸足で鋭利なものを踏み抜けば、行動不能になる可能性がある。


「くそっ」


 めったにしない悪態を付いてから歩を進める。


 悪態でもつかなければ、何かに対して怒りの感情を抱いていなければ、この過酷な状況に、この恐怖に、心が折れてしまいそうだった。


 その後も、悪態を付きながら何とか自我を保ちながら歩を進めていった。


 もう、どれだけ歩いただろうか。咬ヶ島までは直線距離で一キロ程度である。歩行時の平均時速と言われる時速四キロメートルで歩けていれば十五分ほどの距離のはずだ。もう、体感で一時間は歩いている気がする。水に足を取られいつもどおりに歩けてはいないものの、いい加減到着しても良いころだ。


 今や、水の深さは膝下くらいまであった。寒さで全身の震えが止まらず、奥歯が小刻みに音を鳴らす。


 意識が朦朧としてきたとき、懐中電灯の光の中で何かゆらりと動いた、気がした。一瞬だったが何本もの細い棒状の陰のように見えた。


 ほとんど停止していた心臓が活動を開始する。


 歩を止め、懐中電灯の光の先を凝視する。


 それは、格子状の影だった。寒さで震える手で揺れる懐中電灯の光のなか、その影はゆらり、ゆらりと動いている。その影を作り出していたのは黒塗りの鉄格子、あの夢で見たものと全く同じものだった。


「やっと、ついた……」


 私は、たまらずに駆け出した。水の中だったため思うように足は運べなかったが、必死に出口に向かって足を動かした。あんなにも寒かったのに背中に汗が滲むほど、指先に、足先に体温が戻ってくる。


 やっとの思いで鉄格子までたどり着き、懐中電灯の持っていない方の手でそれをつかむ。そのまま鉄格子にもたれかかり、額を格子に押し付けた。そうでもしないと、立っていられないほど疲弊していたのだ。


 格子の氷のような冷たさがかえって心地良いくらいだ。


 しばらくそうしていると、呼吸が落ち着いてきた。すると、今度は濡れた足元から寒気が這い上がってきて、全身が震え始めた。


 こうしてはいられない。この先に進まなくては。


 鉄格子から額を離して一歩下がり、懐中電灯の光をそれに向ける。


 鉄格子はトンネル全体を覆っていた。そしてその格子の一部が開くようになっている。閂はあるが、鍵のようなものはついていない。


 ここで、鍵がかかっている可能性があったことに思い当たる。もし、鍵がかかっていたら、私は今来た道を戻る必要があったわけだ。ぞっとして思わず身震いした。


 閂は扉の向こう側についている。その閂はすでに抜けていた。まあ、抜けていなかったとしても、格子の隙間から手を伸ばせば簡単に外せただろう。


 しかし、この抜かれたままになっている閂というものが、今は少し恐ろしかった。


 あの白昼夢での出来事が本当に起きたことなのであれば、敷島とあの女はこの閂を抜き、この扉から島を脱出したはずだ。つまり、この閂はあの日抜かれたままになっているということなのだ。それは、あの悪夢のような恐ろしい出来事が、あの化け物から必死に逃げ惑っていた人々の恐怖や怨嗟の念が、約八十年間ものあいだ、静かに封をされ、今日ようやく私の手によって解き放たれるということを意味する。


 一呼吸おいてから扉に触れ、扉をゆっくり引く。甲高い軋み音を響かせながら扉は開いていった。


 その軋み音は悠久の時に囚われた、哀れな被害者たちの悲痛な叫びに聞こえた。


 扉をくぐり、一歩踏み出した時だった。足元から鈴の音が聞こえた。


 声に鳴らない悲鳴を上げ、私は反射的に身体をひねって音のした場所から飛び退んだ。


「な、なに……」


 音のした地面を照らす。


 そこには黒皮の手帳が落ちていた。その手帳には栞のようなものが挟まっており、その詩織には小さな鈴が括り付けられていた。


「驚かさないでよ……」


 誰に対するものなのか分からない文句を垂れてから、その手帳を拾いあげてみた。


 相当年代ものであることは間違いない。長年湿度の高い場所に放置されていたためか、皮はごわごわに固まり、カビが生えていた。中の紙も膨らみ、歪んでいる。


 とりあえず、栞の挟んでいるページを開いてみる。


 ばりばりと音が鳴る。


 そこには細かく、神経質そうな文字が並んでいた。多少滲んではいるが、読めないこともない。


 ――明日は、私にとってもこの国にとっても重要な一日となる。


 その書き出しを読んだ瞬間、この手帳の持ち主が何者であるか、この手帳が何であるか私は理解した。

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