結実 その二十二
後頭部に残る鈍い痛みと寒さで私は目を覚ました。
ゆっくりと首をもたげ、目を開く。
目の前には淡いオレンジ色の無数の光が見えた。その光が蝋燭の光だということに気が付くのに十秒はかかった。
ぼんやりとした意識の中、蝋燭の光を見つめる。蝋燭は階段状の構造物の上に所せましと並べられていた。階段といってもおおよそ人間の歩幅では登ることができないほどの大きさだ。一段の高さは一メートル弱あり、幅は十メートルほど、まるで巨大な長机だ。それが二段、階段状に設えられている。そしてその上に大量の巨大な蝋燭が立てられているのである。まるで、祭壇のようだった。
その蝋燭の炎が照らす先へと目線を送る。
そこには見上げるほど巨大な像があった。
痩せた長い胴体。そして四対八本の腕。扇形に開かれたその腕の先、掌には歯をむき出しにして嗤う歪んだ口が付いていた。
ここは紛れもなく祭壇なのだ。クチナシ様を祀るための。
祭壇の向こう、クチナシ様の虚像の足元にあるものが見えた。それは、大きく膨らんだ人間の腹だった。瞬間的に姉のものだと理解する。
「お姉ちゃん!」
私は叫び、立ち上がろうとした。が、立ち上がれない。
そこでようやく私は椅子に縛り付けられていることに気が付いた。
必死にほどこうと藻掻くが無駄だった。藻掻けば藻掻くほど後ろ手に巻き付いた縄は手首に食い込み、激しく痛んだ。
その時、私のすぐ背後で足音がした。
それだけ。たったそれだけの音で私は全身は恐怖に支配され、息もうまくできなくなってしまう。私は思わず目をつぶった。
背後の靴音は私のすぐ右脇を横切り目の前まで回る。
私は薄目を開けて目の前に立つ人間の足元を見る。やはりその靴には見覚えがあった。それはかつて私が買ってあげたものだ。
ゆっくりと目線を上げる。
ついに目の前に立つ人間と目が合った。
私はこの男を知っていた。見間違うわけがない。
その男は私の元恋人の
丸眼鏡の奥の瞳が細くなる。それは、かつて私が好きだった微笑みそのものだ。
「おはよう」
私は目の前の槙島を睨みつける。
槙島はそんな私の目をじっと見つめてから「なるほどね」と呟いた。
「何が『なるほど』なわけ?」
「君は僕の姿が槙島に見えているんだろう? 君に暗示をかけて僕のことは忘れてもらっていたはずなんだけどな」
槙島との出会いは大学だった。
出会った当時、槙島は心理学研究室の准教授で、研究の賜物なのか、それとも生まれ持った素養によるものなのか、彼は人心を掌握するすべを心得ていた。そんな彼に私は
「暗示……」
「そうだよ。君と僕が分かれることになった原因だよ。覚えているかな?」
一つ思い当たることがある。いや、たった今思い出したことがある。
私はある日凛子に呼び出された。そこで凛子に彼と、つまり槙島と別れるべきだと説得されたのだ。凛子が冗談を言っていないことは彼女の目を見ればすぐに分かった。当時の私には別れるべき理由というものに心当たりがなかった。だから当然彼女にその理由を聞いたのだ。その時彼女はとても言いづらそうにこう切り出した。『あんた、変な薬とかやってないよね?』と。当然、そんな自覚はなかったため詳しく事情を聴いた。曰く、ある日職場での飲み会でひどく酔い、終電を逃した凛子は私のアパートに転がりこむことにしたらしい。これまでも何度か泊めたことがあったから別にそれ自体は珍しいことではない。彼女は私に連絡したようだが通じず、仕方なくアパートまで来たのだという。酔っていた凛子は呼び鈴を鳴らすことなく玄関の扉を開けた。その時なぜか鍵がかかっていなかったようで、凛子はそのまま部屋に入って来てしまった。丁度その時、私と槙島が『良い雰囲気』だったらしい。凛子は気が付かれないうちに退散しようとしたが、ふと目に入った私の様子がおかしい。目の焦点があっていないし、体は前後に揺れていた。そんな私に対して槙島は何かを語りかけていたらしい。凛子は私が麻薬の類をやっていると感じ、私達の間に割って入ると、怒鳴りつけて槙島を帰らせたのだ。そして後日、私は彼女に呼び出され、別れた方が良いと助言されたのである。当然、凛子が語る日の記憶はなかった。彼女が恋人と別れさせるためだけの悪質な嘘をつかない人間だってことは良く分かっていた。だからこそ私は自分の記憶の欠落が恐ろしくなった。私は凛子の助言どおり次の週には彼と別れた。そう、あの心霊写真を発見し、凛子を旅行へと誘う丁度一か月のことだ。
凛子が見た尋常ならざる私は、暗示をかけられているところだったのだ。つまり、もうその時にはこの恐ろしい計画はすでにスタートしていたということなのだ。
「どうやら、思い出したみたいだね。さて、もう一つ確認させてくれ。この男は誰だ?」
そう言って槙島は一枚の写真を私の目の前に掲げる。
しかし、蝋燭の明かりからは逆光になっていてよく見えなかった。
「ああ、すまない。見えないか。ほら、これでどうだい?」
そう言って、彼は上着から小さなペンライトを取り出す。ペンライトのお尻の部分をひねり灯りをつけ、写真を照らす。
写真が反射する強烈な白色の光線に一瞬目が眩む。目を細めてみるとそれは津田の写真だった。彼の死体がフラッシュバックし、瞼の裏いっぱいに広がる。
私をじっと見つめていた槙島が「なるほど」と呟く。
私は写真を見ていられず目を閉じ、写真から顔を逸らす。
彼の吸う煙草の香りが思い出され、涙が込み上がってきた。
その微かに感じていた香りはどんどん強くなる。しまいには鼻腔を強く刺激され、私はむせた。染みる目を開くと槙島が一本の煙草を私の鼻先に近づけていた。
「な、なに?」
「嗅覚っていうのは人間の最も動物的、本能的な能力の一つでね、特に記憶との結び付きが強いんだよ」
眼鏡の奥の槙島の黒い瞳が色を失う。ぽっかりと底のない穴のように見えた。その何の感情も読み取れない恐ろしい瞳に全身が震えはじめる。
「何言って……」
津田は何も言わずに煙草を地面に放り投げ、その煙草を持っていた手を私の目の前に掲げると指を二度鳴らす。
「さあ、もう一度聞こう。この写真の男は誰だ」
そう言って彼はもう一度懐から写真を取り出すと、ペンライトで照らす。
私は彼の真意を読み取ろうと、写真を掲げる彼の顔を見る。しかし、強いペンライトの光で目が眩み、槙島の顔は読み取れなかった。
掲げられた写真に目を戻す。
その写真は先ほど見せられたものと同じだ。そこに写る人間はロッカーの中の死体と同じ顔をしている。もちろん警察署で刑事に見せられた写真に写る人物と同じだった。
しかし、まったく知らない男だった。
頭がパニックになる。
しかし、同じようなことが以前もあった。
あの心霊写真だ。あの写真に写る知らない女を私は小学校時代の友人だと思い込んでいた。同じことが今目の前で起きている。
「誰なの……」
シルエットだけで槙島が頷いたのが分かった。
「じゃあ、あんたの目の前にいるのは誰だい?」
低音で少し鼻にかかるような響き。コントラバスのように柔らかに響くその不思議な声色は、懐かしい響きがした。
槙島はペンライトの光を自分に向け、かけている眼鏡を取る。
「うそ。嫌……」
「さあ、敷島さん。俺は誰だ?」
白い光の中に津田の顔が浮かびあがっていた。
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