結実 その十二

 迎えてくれた姉の目はまだ赤く腫れていた。その腫れた目元は私の胸を強く揺さぶる。


「いらっしゃい」


 そう言う姉に、動揺していた私はうまく返答することが出来ず、ただ唸ることしかできなかった。


 手ぶらの私を見て姉は「来る前に食材でも買ってきてくれればよかったのに」と口を尖らせる。しかし、そんなことをしている間に姉の身に何かあったら、そう思うととてもじゃないが寄り道をする気にはなれなかった。


「ごめん。気が利かなくて」

「まあ、いいよ。まだ冷蔵庫の中、何かしらあるし。とりあえず上がったら?」

「うん。お邪魔します」


 そう言って私は玄関に座り、ブーツの紐を緩めにかかる。


 背後から姉の声がする。


「で、あんた、本当は何しに来たの?」

「別になんでもないって。本当にお守りを渡しに来ただけ」


 ブーツを脱いで玄関にあがり、姉を見る。


 姉は廊下の壁に肩を預けて腕を組んで立っている。その顔は少し険しかった。


「うそ。あんた、電話してきたとき電車待ってたんでしょ? お守り渡すだけにしてはやけに急いでるじゃない」


 幼いころから私の面倒をみてきた姉だ。私の嘘など一瞬に看破してしまうのはあたりまえである。昔から私は姉に隠し事が出来なかった。姉の「本当のことを言いなさい」という一言で、私は大抵のことは白状してきた。


 しかし、今回ばかりは本当のことを言うわけにはいかなかった。


 本当のことを言えば姉は怒りだし、話を聞いてくれなくなるだろう。


 私はわざとらしく大きなため息をついてみせる。


「妹が姉を心配して何が悪いのよ。あんなことがあったばかりだから、様子を見に来たっていうのにさ」


 我ながらずるい言い方だと思う。しかし、こういえば姉は引き下がると分かっていた。姉という人は、人のことを気遣うくせに、自分が気遣われることが異常に苦手なのである。そして、それが純粋な良心であるとき、彼女はその向けられた気持ちをどう取り扱ってよいのか分からす、困ってしまうのである。


 私の目論見どおり、姉は面を食らったような顔をしてから俯くと「ありがとう」と小声でつぶやいた。


「ところで、お腹は空いてる?」と問いかけると姉は首を横に振る。

「そうでもないかな。最近食欲ないんだよね」

「でも、ちゃんと食べなきゃダメじゃない? 一人の身体じゃないんだし」

「……まあ、そうなんだけどね。あんたは? お腹すいてるの?」


 正直、私も食欲はほとんどなく、ここ二日ほどは水分とゼリー状のものしか口にしていなかったが、姉にこれ以上心配させるわけにはいかず、私は嘘をついた。


「うん。お腹空いた。なんか作るよ。台所貸してくれる?」

「いいよ。冷蔵庫の中身も適当に使ってくれていいから」

「分かった」


 リビングのソファーの上にとりあえずリュックサックを下ろし、全面のチャックのついたポケットから例の鈴を取り出す。取り出すとき、鳴りやしまいかと一瞬緊張するが、ポケットのチャックに引っかかってチリと小さな金属音がするのみで、やっぱり鈴の音はしなかった。


 掌の上のそれを握りこみ、どうか姉を守ってくださいと願をかけた。それがどれほどの意味を持つのかは分からなかったが、願わずにはいられなかった。


「姉さん。これ」


 振り返ると姉さんはエプロンをつけているところだった。


「ん? なに?」

「なに、じゃなくてお守り。安産祈願で有名な神社の守り鈴なんだって」


 姉はエプロンの腰ひもを後ろ手で結んでから近づいてきて、私の掌に乗ったその鈴を摘まみ上げた。


「本当にお守り渡しに来たんだ。ありがとう」


 姉は組紐の部分を摘まみ上げ、眼前まで持っていくと、しげしげと眺める。


「なんか、年季入ってるね」

「まあ、特別なお守りらしいから……」

「そうなの? なんか悪いな。お友達に良くお礼言っておいてね」


 姉はそう言いながら、鈴を軽く揺すった。


「……鳴らないけど、これ」

「そうなんだよ。珍しいでしょ? なんだ」

「……」


 姉は目を丸くすると、食い入るように掲げた鈴を見る。


「鳴らないの? 鈴なのに」

「まあね。由来とかそういうのは分からないけれど。とにかくありがたいお守りだからって。肌身離さず持ってるのが良いらしいよ」

「ふうん」


 姉は持っていた鈴をテレビ台の横に置いてある小さな棚の上へと置く。肌身離さず持った方がいいという助言をたった今したばかりなのに、こういうところが実に姉っぽいと思う。


 棚の上には家族写真、郁人さんと撮った写真が飾られていた。それ以外にも、友人たちにもらったのだろうか、安産のお守りがいくつか置かれていた。


「ところで何でエプロンしてるの?」

「え? あんたお腹空いたんでしょ?」

「だから、私が作るって言ったじゃない」

「まあ、二人でやった方が早いでしょ?」

「姉さんは休憩しててよ。これじゃあ何のために来たのか分かんないじゃない」

「でも……」とまだ納得しない姉を無理やりにソファに座らせる。

「テレビでも見てなよ。何か食べたいものある?」


 私がそう聞くと、姉は大きく膨らんだお腹の上で腕を組み、暫く唸った後「あったかいもの」と答えた。


「分かった」


 私は姉が来ていたエプロンを借り、台所に立つ。


 とりあえず、流しで手を洗う。水の冷たさが骨まで響き、鈍い痛みを感じるほどだった。


 冷蔵庫の中を確認する。思ったよりもずっと食材は充実していた。とりあえず目についた青菜に手を伸ばす。それは、萎びた水菜だった。張りを失い、だらりと私の手の中で脱力それを見て、胸が少し痛んだ。姉は決してまめな人ではなかったが、食材を腐らせたりするような人ではなかった。この萎びた水菜が姉の最近の生活と、精神状態を表しているようだった。


 水菜をもとの場所へと戻した。捨てることは出来なかった。


 ほかに使えそうな食材が無いかをざっと確認すると袋詰めの生のうどん麺があった。その口は開いていたが、二人分くらいはありそうだった。痛みかけてはいるが、使えそうな根菜もいくつかあるし、卵もあった。


「鍋焼うどんなんてどう?」


 冷蔵庫の中を覗きながらソファーに座っている姉に声をかける。しかし、返事はない。


 冷蔵庫を閉じて姉の方を振り返ると、彼女はソファに座ったまま、テレビを見るわけでもなく、ぼうっと虚空を見つめていた。


 そんな生気のない姉の目が恐ろしくなり、咄嗟にその視線の先を目で追う。


 その視線は、先ほど鳴らない鈴を置いた、あの棚の上に注がれていた。その棚の上にはいくつもの家族写真を入れた写真立てが置かれている。


「姉さん……」

「え?」


 姉が私の問いかけに気が付いたようで、こちらを振り向く。その動きはナマケモノのようにひどく緩慢だった。視線は最後まで写真をとらえたままで、首の動きに対して視線は少し遅れて振り向く。


「ごめん、話しかけて良い?」

「え? ああ、うん。どうしたの?」

「鍋焼うどんでどう?」

「うん。良いね。ありがとう」

「姉さん、大丈夫?」

「何が?」

「なんか、ぼうっとしてるから」

「ごめん。最近眠れてないんだよね。寝不足気味なだけだよ」


 姉はそう言って微笑む。しかし、無理して笑っているのは明らかだった。


 ちくりとまた胸が痛む。


 私は、そんな姉の笑顔を見ていられず「そっか」とだけ応えると、冷蔵庫へと向き直り、視線を外した。


 姉に少しでも栄養のあるものを食べさせるため、鍋焼きうどんに肉でも入れようと思ったが、冷蔵室や野菜室にはそれらしいものはなかった。しかし、冷凍室なら冷凍された肉が入っているかもしれないと、冷凍室を開けてみた。


 その瞬間、私は冷凍庫を開けたことを後悔した。


 それは、ただの大きめの骨付きの鳥もも肉だった。


 二枚あった。


 時期的にクリスマスチキンに違いない。


 その鳥肉を見た瞬間、あったかもしれない二人の幸せな時間のイメージが目の前いっぱいに広がる。あんなことが無ければ、姉と郁人さんとで食べていたはずのその鶏肉は、今でも冷凍庫の中で凍っている。


 私は、涙をこらえることが出来なかった。とめどなくあふれる涙を手のひらでぬぐう。こらえきれず、喉の奥が小さく鳴る。


 その音に気が付いたのか、姉が声をかけてきた。


「瑠璃?」


 私は咄嗟に「なんでもない」と答える。しかし、誤魔化しきれないほど、その声は震えていた。


「あんた、何泣いて……」


 姉が立ち上がり、こちらに近づいてくる気配がする。


 咄嗟に冷凍庫を閉めるが、一瞬遅かったらしい。「あ……」と小さく姉が声を漏らした。


「そうか。もうクリスマスだね。それ、安かったから買って冷凍しといたんだよね……忘れてた。ちょうど二枚あるし、食べちゃおうか」


 できるわけなかった。


 私は、嗚咽が漏れないように口元を押さえながら、首を振る。


 姉はしゃがみ込む私に覆いかぶさるように肩を抱く。


 その腕は温かかった。


 姉が私の耳元でささやく。


「大丈夫。ただの、鶏肉だよ。瑠璃が泣くようなことじゃないよ」


 私は何も応えられなかった。ただ、泣きながら首を振る。そうじゃない、と。


 姉は私をもう一度強く抱きしめる。


「ありがとうね。瑠璃は優しいね……いっちゃんも私も鶏肉あんまり好きじゃあないのにさあ……浮かれて、馬鹿だよねえ……」


 姉の声も震えていた。


 私はたまらず、姉の腕を振りほどいてしゃがんだまま振り返ると、姉に抱きついた。


 ありとあらゆる感情が津波のように押し寄せる。


「お姉ちゃん、ごめん……ごめんなさい……」


 きっかけは私だ。


 私があいつの呼び声に反応してしまったから。だから瑠璃も、郁人さんも死んでしまった。


 私があの人と調査なんかしたから、津田さんだって死んでしまった。そして、今は姉の身が危険にさらされている。


「ごめんなさい……」

「どうして瑠璃が謝るのよ……私の……せいなのに」


 そこで姉の感情の堰も切れた。


 二人で抱き合って、嗚咽を漏らしながら気が済むまで泣いた。


 泣いたってなんの解決にもならない。でも、少なくとも胸に居座っていた罪悪感は多少涙で流れて、軽くなった。

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