結実 その十三

 ひとしきり泣いた後、先に落ち着きを取り戻した姉が「なんか、泣いたらお腹空いちゃった。ごはん、作ろっか」と言った。私は、姉の胸に顔をうずめたまま頷いた。


 それから、姉と二人で料理をした。


 吹っ切れたように少しだけ元気を取り戻した姉は、あのクリスマスチキンを私が止める間もなく、調理し始めてしまった。


 私がおろおろしていると、姉は「だって食べなきゃもったいないじゃん。いくら安いって言っても、千五百円もしたんだよ?」と笑ってくれた。


 そのあとは、私の作った鍋焼きうどんと、チキンソテーという何とも不思議な献立の夕食を二人で食べた。


 人間不思議なもので、食べると元気が出るものだ。


 どっしりと、冷たく胃の中に居座っていた恐怖心は、少しだけ和らいでいた。


「姉さん、今日泊っていい?」

「まあいいけどあんた学校は?」


 姉は私が淹れたコーン茶を一口飲んでからそう答えた。


「今年は修論もないし。卒業に必要な単位もほぼ取り切っちゃったし、結構暇なんだよね」

「ふうん。大学院生ってもっと忙しいのかと思ってた」


 姉は高校卒業とともに就職した。だから、大学生活というものに明るくない。


「まあ、大学院は教育機関というより研究機関だから。授業もそんなにないんだよ」

「じゃあ、研究しなきゃじゃん」

「それは、そうなんだけどね。でも地質学って現地に行って調査しないといけないんだよ。冬だと雪が降るから山歩きは危険だし、そもそも雪に埋もれて地層の観察も出来ないしね。だから、オフシーズンってわけ」

「なるほどねえ」


 姉はコーン茶をまた一口飲んでから軽く頷いた。


「来客用の布団あるけど、ずいぶん使ってないから、しけってるかもよ?」

「ああ、いいよ。私ソファで寝るから」


 正直、あまり寝られるとは思っていない。寝ずの番、というわけにはいかないと思うが、何が起きてもすぐに動けるように可能な限り起きていようと思っていた。


「ちゃんと寝なさいよ。体に良くないでしょ」

「今日だけだって、明日布団干せばそれで解決でしょ」


 姉は怪訝な顔をする。


「あんた、明日も泊まるつもりなの?」

「しばらくご厄介になろうかと」


 姉の顔がさらに険しくなる。口を真一文字に結ぶと、腕を組み始めた。これは、姉が怒りだしているサインだ。


「どういうつもり?」

「どうも何も、姉さんは妊娠中でいろいろ大変だろうから、手伝おうかと思って。いっそのこと、私が今住んでいるところを引き払って、一緒に住むってのはどう?」


 私は、努めて冗談っぽく聞こえるよう、明るく軽やかにそう打診してみる。ただ、ほとんど本気だった。


「……あんたねえ、大学どうすんのよ。こっからじゃ遠いでしょ?」

「通えない距離じゃないよ。それに、もう臨月でしょ? 何かあったとき人がいた方がいいじゃない。姉さんが出産して落ち着くまでは私が面倒みるって」


 そう、あいつの目的が産まれてくることなら、出産さえ無事に終わってしまえば、危険はない、と思う。


 姉は私を小突いてから「面倒見るって、ずいぶん偉くなったものね」と言った。


「まあ、でも正直ありがたいかな」

「そうでしょ?」

「うん。でも、あんたに悪いし、実家に帰ろうと思ってるんだ」

「実家に? じゃあ私も帰ろうかな。父さんは日中仕事でしょ。その点私は、さっきも言ったとおり暇だからさ。それにやっぱり女の私がいた方が何かといいでしょう? 男の父さんには分かんないこともたくさんあるでしょ」


 姉はまた私を小突く。


「あんただって子供産んだことないでしょうが。それに、父さんはあんたと違って子育ての経験もあるんだからね。子育てに関して言えば大先輩よ。あんたはオムツも換えたことないでしょうに」


 父親に育てられたという記憶はほとんどない。幼いころは母がいたし、母が亡くなってからは姉がいた。しかし、思い返してみれば、学校行事には必ず父がいたような気がする。当時はそれが当たり前だと思っていたが、よくよく考えてみれば、そうでもないのかもしれない。それに先ほどの口ぶりからすると、姉は父を信頼しているらしい。


「おっしゃるとおりです。でも、人では多いにこしたことないでしょ?」

「まあ、そうね」

「じゃ、決まり。で、いつから帰るの?」

「……決まりって、あんた。まあいいか。まだそんなの決めてないよ。いろいろ準備もあるし」

「そう。じゃあ、実家に帰るまで私はここでご厄介になるということで」


 姉は大きなため息をつく。


「はいはい。でも、働くもの食うべからずだからね。早速明日から働いてもらうからね」

「分かってるよ。で、何をしたら? 肩でももみましょうか?」

「……馬鹿。そうだなあ、まずはお風呂掃除かな」

「ふうん。そんなのでいいの? もっとすごいことお願いされるかと思ってた」

「あんた分かってないわね。お腹が大きいときのお風呂掃除のつらさを」

「そうなの?」

「長時間屈むの、ほんとつらいのよ。腰が爆発しそう。だから最近はシャワーだけにしてた。ああ、これでやっとゆっくりお湯に浸かれる!」

「妊娠中ってお風呂浸かって大丈夫なの?」


 入浴は軽いジョギング並みに心肺に負荷がかかると聞いたことがあった。だから妊娠中の禁忌だと思っていた。


「全然大丈夫。むしろ推奨されているくらい」

「そうなんだ。じゃあ、今からお風呂掃除してくるよ」


 私がそう言うと、姉は満足そうに「よしよし」と頷いた。


「じゃあ、私は洗い物でもしようかな」


 そう言って姉は立ち上がる。その所作はとてもゆっくりで、重そうだった。


「良いって。流しにつけといてくれればそれも私があとで洗うから」

「あ、そう? じゃあ頼める?」

「うん。とりあえず、お風呂洗ってくる」


 私はダイニングテーブルに置かれた食器をできるだけ持って、台所に向かう。流しにそれらを放り込んで、上から適当に水をかける。


 それを後ろから見ていた姉は今日何度目か分からない溜息をつく。


「あんたさあ、そこに洗い桶があるの見えないわけ?」


 姉が指さす方を見ると、冷蔵庫の隣に小さな棚があり、その上に植物を育てるプランターを少し大きくしたくらいのプラスチック製の白い桶が置いてあった。


 私がそれを手に取ると姉は「それに水張って、そこに食器入れて」と指示をする。


 確かに、実家にいたころはこんなものを使っていたな、と思い出す。


「あんた、ほんとに一人暮らしできてる?」

「出来てるよ。たぶん」


 嘘だった。


 実家を出てからは、本当に最低限の家事しかしていない。食事は外食かコンビニで済ますことがほとんど。毎日掃除、洗濯なんてもってのほかで、溜めに溜め、一気にやっている。


 一人暮らしを始めた当初、風呂場の排水溝に溜まった自分の髪の毛を見て「ああ、排水溝って掃除しないといけないのか」と思った。実家にいたころは排水溝なんて一度も掃除をしたことがなかった。その時になって初めて、姉の有難みが骨身に染みた。


 洗い桶いっぱいに水をため、流しに置いておいた食器を入れると、ざあと音を立てて大量の水がシンクに流れていく。


 姉がまたため息をつく。それが何に対するため息なのか、私には分からなかった。


「お風呂掃除、本当に任せて大丈夫? お風呂の桶とか椅子も洗ってよ」


 そう言われて初めて、それらも掃除の対象であることを認識する。私の家には風呂桶も椅子もない。


「分かってるって。大丈夫だから。じゃあ、行ってくる」


 これ以上ぼろが出ないうちに退散した方がいい、そう思って逃げるように風呂場へと向かった。


 風呂場に入って、まず排水溝を見てみる。やはり、そこには髪の毛は一本も落ちていなかった。適当に風呂掃除を済まして、お湯張りのボタンを押してから風呂場を後にする。


 脱衣所の扉を開けてリビングに戻る。洗い物をしようと、シンクに目を向けると、そこには水切りかごが置いてあり、その中に洗われた食器が整然と並んでいた。


「姉さん、私が洗うって言ったのに……」そう言いながら、リビングに視線を戻す。


 姉はダイニングテーブルとソファの間に立ち、テレビ脇に置かれた棚の上、写真立てを眺めていた。


 姉は横から見ても分かるほど、大きく目を見開いている。そして、その唇は少し震えていた。

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