結実 その三

 通話ボタンをタップしてから耳に当てると、彼の少し鼻にかかったような低い声が響いた。その声を聴いた瞬間、彼の煙草の香りがふわりと香る。


「もしもし」

『敷島さん?』

「そうです。どうしました?」

『報告書は読んだか?』

「ええ。たった今」

『そうか。で、あっちの方はどうだった?』


 あっちの方、とは敷島桜と私の血縁関係についてである。私は、東京へと向かう新幹線の中で、調べてみると彼に伝えてあったのだ。


「ええ、調べてみました。やっぱり私の親戚のようです。曾祖父の弟にあたる人物に桜という名の男がいるようですね」


 私がそう答えるが、電話口の津田は『そうか』と言ったっきりしばらく何も言わない。


「津田さん?」

『ああ、いやすまない。その……大丈夫か?』

「何がですか?」


 大丈夫とは何の事であろうか? 本気で分からなかった。


『いや、まあ、その、なんだ……いや、何でもない』


 津田は至極歯切れの悪い返答をする。相当口にするのをためらっているようだ。


 そこで、私は彼の『大丈夫か』の意味を悟る。


 つまり、私の親戚筋に、このような恐ろしい実験を指揮した人間がいるということに対して、私がショックを受けていないか? という気づかいなのだろう。


 確かに、報告書の内容がもし真実なのだとしたら、この実験はまごうことなき人体実験であり、そして虐殺である。現代であればこのような実験を指揮した曾祖叔父は大犯罪者である。そんな男の血が少なからず私にも混じっているのである。普通の人間であれば、多少なりともショックを受けるのであろう。しかし、私はそれについては特に何の感慨もなかった。犯罪傾向が遺伝するなどという話を私はまるで信じていなかった。人間の性質は遺伝ではなく、環境によって形成されるのである。


 敷島桜という男が私の親戚であったこと自体については特に何も思うところはなかったが、しかし、ある種の怒りに似た感情を抱いていた。


 私や凛子がクチナシ様という恐ろしい伝承に巻き込まれているのは、明らかにこの男のせいなのである。自分のしでかしたことの帰結として危険な目に合うのはまだいい。例えば、心霊スポットなんかに出かけて行って、そこで良くないモノに憑かれるのは、自業自得なのだ。しかし、これはあんまりではないか。約百年前の祖先が行った業の報いをなぜ私が受けなければならないのか……。それを思うととてもやりきれなかった。


 そんな素直な心情が自然と口を突いて出た。


「大丈夫ですよ……大丈夫ですが、むかつきますよ」

『……むかつく?』

「ええ。だって、私は……私達は関係ない!」


 そう、関係ない。関係ないのだ。なのに、凛子は……。


 私達の間にしばらく沈黙が続く。彼もなんと声を掛けたらよいのか分からないのだろう。


 怒りで一時的に上がっていた心拍数が落ち着いてきて、彼にあたってしまったことを後悔し始めたころ、彼が絞り出すかのように言った。


 それは、怒りとも、憐憫ともとれる不思議な声色だった。


『確かに関係ねえよな……。あんたも、俺も。でもなあ、あんたの先祖が、あんな糞ったれな実験なんかして、クチナシ様を産ませたりしなかったら、朋絵は……』


 その声は震えていた。


『……関係ないんじゃない、関係なかったんだ。俺も、あんたも。でも、もうちげえだろ……! 俺たちはもう、巻き込まれて、そんで大切な人を殺されてんだよ! 俺は許せねえ。敷島桜って男も、クチナシとかいう化け物も。あんたは違うってのかよ!』


 その涙で震えた声は私の心の真芯を打つ。


 彼の言うとおりだ。


 もう、関係なくなんてない。


 私は大切な友人を殺された。それは決して許せることではない。


 あの断崖で凛子は私に言ったのだ『好きだった』と。私だってそうだ。


 ああ、そうか。私はこの津田と同じなのだ。


 私は自分の凛子への好きという気持ちが何なのか、今気が付いた。


 馬鹿だなあ、私は。今更こんなことに気が付くなんて。


 私の目から、もはや枯れていたと思っていた涙が溢れた。


 電話の向こうの津田が動揺するように息を飲むのが聞こえる。


『し、敷島さん?』

「ごめんなさい。ちょっと、いろいろ溢れちゃって……」

『いや、こちらこそすまない。その、言い過ぎた』

「良いんです。津田さんの言うとおりですよ。私達はもう、関係者なんです。そして、私達は……大切な人を殺されたんです」


 大切な人。恋人とは言えなかった。


「私も、やっぱり許せないです。でも、どうしたらいいか分からないんですよ……」


 そう、分からないのだ。何をするべきかが。


 そんな私に津田が力強く答える。


『そんなもん、祓うしかねえだろ』

「祓う? クチナシ様をですか?」

『そうだ。あの日生まれたクチナシ様はまだどこかに居るんだ。そいつを見つけて殺す』


 本気なのだろうか? そもそも、本当にクチナシ様などという非現実的な存在は実在しているのだろうか。確かに、説明のつかないおかしなことは起こっている。それに、あの村と報告書の存在が、クチナシ様の伝承に確かな現実感を与えている。しかし、どうしても非科学的な存在を信じきれない私がいた。

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