開花 その八

 どれくらい、そうしていただろうか、五分か、十分か。あるいはもっと長かったかもしれない。そんな故人を想う時間は、一粒の雨粒によって唐突に中断させられた。


 私たちは岬のすぐ近くに取っていた民宿へと向かうことにした。


 民宿は筆舌つくせぬほどの襤褸ぼろであったが、さすがは北陸に在るだけに、断熱はしっかりしており中は頭がぼうっとするほど暖房が効いて暖かかった。


 私は部屋に備え付けてある粗末な洗面台で手を洗う。手が切れそうなほど冷たい水だ。暖房で緩慢になっていた脳が少しだけ覚醒した。


 それぞれ部屋に荷物を置いてから、津田の部屋に集合し今後の予定を立てる算段となっていた。


 津田の部屋を訊ねると、彼は粗末なちゃぶ台の上に紙の資料を広げて難しい顔をしていた。


 私は彼の前に座布団を敷いてから座る。


「これが俺の調べたクチナシ様と呼ばれる伝承の資料だ」


 そう言って、クリップで留めた資料を差し出した。それはA4用紙で十枚ほどしかない。


「少ないですね」


 私は正直な感想を述べた。


「そうだな。文献なんかは一切ない。口伝の類、まあ怪談に近い」


 パラパラと資料をめくっていると、一枚の手書きの絵が目に留まる。それは、サインペンで何かメモ用紙のようなものに書かれたものをスキャンした画像だった。


 それは、千手観音像のようなかたちをしていた。


 痩せた長い胴体。そこからは胴体のサイズ感とはまるであっていない小さく短い脚が二本。それはまるで子供か赤ん坊の足のようである。そして、胴体からは枯れ木のような腕が四対伸びている。そして、小さな顔と思しき部分には、無数の目玉が描かれていた。


 そのメモの下には震え、かすれた文字でクチナシ様とある。


 本能的な恐怖が体を這いまわり、ぞわりと髪の毛が逆立つ。


「やっぱり、口は無いんですね」


 口に当たる部分にはひと際大きな三対の目玉が数珠状に並ぶのみで、口は無かった。


「そうだな」

「凛子達の身体の歯形と何か関係があるんですかね? 口も歯もないのに」

「俺もそれは思った。だがな、この絵を描いた爺さんはクチナシ様を見たことがあると言っていた。子供の頃に住んでいた村にこのクチナシ様が現れたんそうだ。なんでも、一晩にして村人のほとんどがクチナシ様に喰い殺されたんだそうだ。その死体には全身びっしりと歯形がついていたんだとよ」


 その話には聞き覚えがある。


 いや、ちがう。


 


 あの宿で見た白昼夢。


 あれは小さな村での出来事だった。


 村人たちは何かに怯え、そして逃げ惑っていた。


 そして、私の背後にもきっとクチナシ様がいたのだ。


 その時私は確かに歯と歯を打ち鳴らすような音を聞いている。


「大丈夫か?」


 津田が私の顔をじっと覗き込む。


 あの日見た白昼夢のことを話そうかとも一瞬思った。しかし、私にはそんな記憶に思い当たる節が一切ない。何かを問われたところで何も答えられない。


「ええ、大丈夫です」


 津田はしばらく真意を確かめるように私を見つめていたが、それ以上何も聞くことなく言葉をつづける。


「まあ、九十歳を余裕で超えていそうな爺さんだったし、多少ボケてもいたからその信憑性は推して知るべしだがなあ。それに、敷島さんの友達も身投げする前、その名を口にしていたんだろ?」


 確かに言っていた。


「ところで、その村っていうのは、その伝承に在る咬ヶ島にあるんですかね?」

「いや、どうも違うらしい」

「違う?」


 クチナシ様は咬ヶ島に出る悪神なのだと伝わっている、そう津田は言っていた。だとすればその虐殺の舞台も咬ヶ島であるはずだ。


「その爺さんに聞いたんだが、咬ヶ島には生まれてこの方、行ったことがないそうだ。そもそも、伝承には人が住んでいたかのようなことが伝わっているが、長いこと無人島だそうで爺さんが生まれてこの方人が住んでいたことはないらしい。今も島に渡る手段すらないということだ」

「でも、クチナシ様の伝承はその島が舞台なんですよね?」


 津田は大きく頷く。


「そうだ。爺さんもなぜあの島が舞台となっているか不思議がってた。村にクチナシ様が現れる前にもその話は聞いたことがあったらしいが、その時に咬ヶ島なんて地名は聞いた覚えがないってよ。まあ、その爺さんがクチナシ様に会ったというその村の場所も、名前も覚えてないらしいがな」

「そうなんですか。でも、じゃあ、クチナシ様が咬ヶ島の悪神と呼ばれるようになったのはここ九十年の間ってことですか?」

「そういうことになるな」


 伝承の類というものに詳しくはないが、九十年という年月はいささか伝承にしては短い気がする。


「その九十年の間に咬ヶ島で同じような事件があったんでしょうか」

「いや、爺さんの記憶ではないそうだ。さっきも言ったが人が住んでいたことすらないらしい。俺もいろいろと過去の事件、事故を調べてみたがそれらしいものは一つもなかった」


 これは明らかにおかしい。


 クチナシ様の伝承は変化している。


 話に尾ひれはひれが付くのは世の常だが、『火のない所に煙は立たぬ』である。まったく関係のない咬ヶ島が突然伝承に現れるのは不自然である。


 もし、本当に咬ヶ島が無関係なのだとしたら、意図的に誰かが伝承を捻じ曲げたとしか考えられない。


 でも、それこそ何のために? である。


 頭の中に疑問符を浮かべながら、残りの資料を斜め読みしていく。


 最終ページにこの土地の地図のようなものが添付されていた。そこには、多くのバツ印が記されていて、それぞれの印の下には人名が小さく書かれていた。


「これ、何ですか?」と津田にそのページを見せながら問いかける。

「ああ、これか? これはクチナシ様の伝承を聞いた人の家や、話を聞いた場所を記したものだ。あとでもう一度話を聞きたくなった時のためにな」


 資料を頭から見直すと、段落の最後に人名が書かれている。つまり、どの話を、どこの誰から聞いたのかをまとめているのだ。


 津田は意外とまめな性格のようである。


 しかし、改めてその地図を見てみると相当数のバツ印が記されている。先ほどは少ないと思った資料だったが、改めて見ると七、八枚はびっしりと文字で埋め尽くされている。


 これだけの人数に聞き取り調査を実施した津田の執念というものが感じられる。


「資料が少ない、なんて言ってすいませんでした」

「いや、いいんだ。これだけの人間に聞いたところで、十ページにも満たないくらいの情報しかないんだ。確かに少ないさ」


 私は改めて資料を最初から読んでみた。

しかし、どの話も似たような内容で、先ほどのクチナシ様にあったという老人の話以上に興味を惹かれる話はなかった。


 ここまで調査して何も分からないのであれば、これ以上調べても仕方がない気がしてきた。


 津田もそう思っているのか、次にどうすべきか分からないようである。私が資料を読み終えても特に何も言ってこなかった。

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