開花 その七

 その岬はあの日とはずいぶん違って見えた。


 海は黒々とうねり、空には重たい雲が低く垂れこめている。崖から吹き上がる潮風は身を切るように冷たい。


 そこには想像どおりの日本海が広がっていた。


「ひと雨きそうだな」


 津田が空を見上げて呟く。


 たしかに、灰色の雲からは今にも雨が落ちてきそうだった。


 私は断崖の近くまで行ってからしゃがみこむ。そして、地面の上にそっと薔薇の花束を置いた。


 心の中で凛子の名を呼ぶ。


 私はここに、決意を語るために来たはずだった。しかし、出てくるのは謝罪の言葉だけだった。


 膝の上で硬く握った拳にぽつり雨が落ちる。


 思わず空を見上げる。しかし、顔に雨粒が当たることはなかった。


 私は、拳に落ちた雨粒は自身の涙であることを知る。


 一度決壊した涙腺はとどまることを知らなかった。

涙でぼやける視界の先には、荒々しくうねりを上げる日本海があった。


 この冷たく、恐ろしく、寂しい海に彼女の亡骸は犯されたのだ。

それだけではない。


 彼女は何者かによって全身を齧られていた。


 それが人間によるものなのか、超自然的な存在によるものなのか、それは分からない。


 しかし、さぞかし痛かっただろう。


 私の腹の中でざわざわと波が立ち始める。


 どんなに惨めだっただろうか。


 私の中に生まれた怒りという黒い海は荒波を上げる。


 私はようやく彼女にかけるべき言葉を見つけた。


「私は凛子をこんな目に合わせた存在を絶対に許さない。それがどんなに恐ろしい存在だったとしても、私はそいつを見つけ出して、必ず……」


 ――殺してやる。


 私の中に芽生えた確かな怒りと殺意を胸に立ち上がる。


「もう、いいのか」


 潮風の中にふわりと煙草の香りが混じる。


 私は海を見つめたまま応える。


「はい。もう、大丈夫です」

「そうか」


 津田は私の隣まで歩いてくると、ポケットから新品の煙草と百円ライターを取り出す。しかし、その口にはまだ煙草をくわえている。


 不思議に思って見ていると、彼はそれらを海へと放り投げた。


 私が驚いていると「これが俺の手向けだ」と津田は言った。


 その目には私と同じような怒りの飛沫しぶきが見えた。


「煙草はな、朋絵に教わったんだ」

「そう、なんですか」

「ああ。もともとは朋絵が吸っててな。『いかにもって顔してるんだから、吸ってみたら?』なんて言いやがったんだ。ひどい女だよ」


 確かに、津田の男性的な顔立ちには煙草が良く映える、気がする。


「それから、あいつの前だけで煙草を吸うようになった。あいつが死んじまった時にやめれば良かったのにな。なんでだろうな」

「やめたいんですか?」

「どうだろうなあ。でも、生まれてこの方、煙草を旨いって思ったことは一度もねえな」


 そう言う津田の瞳には深い郷愁の念のようなものが見て取れた。


 私達はしばらく、黙って眼下に広がる海を眺めた。

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