発芽 その九

 そこには群青色に塗りたくられた夜の海と空があった。


 十五メートルほど先は、絶壁となっている。崖上に位置するこの開けた場所は、小さめな公園くらいの広さだった。


「綺麗……」


 隣に立つ凛子が溜息をもらす。


 確かに、美しかった。空には満点の星が輝き、崖の向こうに見える海面は月光を反射し白く、細かく光る。


 凛子は懐中電灯を消すと、崖の方へと歩を進める。


「ちょっと、危ないって」

「大丈夫、大丈夫」


 凛子は崖の先端ぎりぎりまで行くとその歩みを止める。そして、私の方を振り返ると「瑠璃もおいでよ。すごいよ」と言った。


 凛子は月光に照らされて、微笑んでいた。


 私はここに来る前に想像した朋絵ちゃんの最期の姿を思い返す。想像の中の朋絵ちゃんは冷たく光る月を背に立ち、その表情はうかがい知れなかった。


 しかし、ここは日本海を望む岬である。北側に月が出るわけがないのだ。実際のこの場所は背後から月に照らされ、とても明るかった。


 私は、自分の想像力のなさ、いやこの場合は豊かさというのか、とにかく的外れな想像に苦笑いをした。


 私も懐中電灯の光を消してから、彼女の方へと向かい、隣に立つ。


「すごい。飛んでるみたい」


 海から吹く風で髪がなびく。


 目の前には夜の海と空が一面に広がっていた。


「もっと暗くて、寂しいところを想像してた」

「私も」


 私達はしばらく、ただ黙ってその美しい景色を眺めていた。


「もしかしたら瑠璃のその友達もさ、この景色を見て考え直したかもね」


 凛子が伸びをしながらそんなことを呟いた。


 確かにそうかもしれない。どのみち、これ以上彼女の足跡を追うのは無理な気がする。ならば、彼女はここで思い直したと、どこかで元気に生きていると、そう思った方がずっといい。


「そうだね」


 私達の間に再び沈黙が訪れる。


 どれだけそうしていただろうか、私は冷えてきたので「もう帰ろう」と口を開きかけたときである。


「あれ、あんなところに島がある」


 凛子が私の方を覗き込む。私もつられてその方向、岬の左側を振り向いて目を凝らす。確かに、青い海の中に何か島のようなものが浮いていた。


 その瞬間、たった今下りて来た階段の方から物音がした。それは獣が草をかき分けたような葉擦れ音、それと――


「鈴の音?」

「え?」


 音のする方を振り返った瞬間、再び頭蓋が割れるかと思うほどの頭痛に襲われ、思わず頭を押さえて目をつぶる。


 何者かの気配が近づいてくるのがはっきりと分かる。


 あいつだ! あの白昼夢で私の後ろに立っていた恐ろしいモノだ。


 逃げたい。凛子を連れて一刻も早くここから逃げなくては。


 しかし、痛みと恐怖で動くことも、目を開けることすらできない。必死で凛子に危険を知らせようとするが、吸うばかりで空気を吐き出すことができない。それでも音を絞り出そうと喉を締めるが「きゅっ」という声にならぬ悲鳴にも似た音しか出せない。強い息苦しさを感じ、自分が窒息しかけていることを唐突に理解する。パニックになって息を必死で吸うが、酸素はまったく肺に入ってこない。意識が遠のいていく。膝の力が抜け、ぐにゃりと体が縮んでいった、その刹那、誰かが私の腕を強く引いて抱きとめる感覚がした。


「ちょっと! 瑠璃!」


 誰かの声で私は目を覚ます。


 硬く閉じられた瞼の内側が熱い。知らぬ間に涙を流していたようだ。


 恐る恐る目を開けると、そこには心配そうな顔をした凛子がいた。どうやら私は倒れているらしい。凛子は私の傍らにしゃがみこみ、手を握り締めていた。


 私は首だけを動かし先ほど音のした方、足先へと目線を送る。


 そこには、鬱蒼とした松林の中に階段がぽつりとあるだけだった。恐ろしい怪物の姿も、人影すらなかった。


「ねえ。大丈夫?」


 凛子の声は少し震えていた。


 私は上半身を起こして凛子を見てから「大丈夫」と応えた。


「そろそろ帰ろう?」


 私は小さく頷いた。


 帰路、私達はほとんどしゃべらなかった。凛子はしきりに私の体調を気にかけて話しかけてくれたのだが、私はそれにほとんど頷くだけで答えられなかった。


 宿に着き、ロビーに置かれた背の高い置時計を見ると、午前零時を回ろうという時刻であった。夜も遅いためか、受付には女将さんの姿もなく、しんと静まり返っている。


 脱いだブーツを玄関先に置きっぱなしにしてよいものかと、逡巡する。しかし、あたりをもう一度見渡しても女将さんの姿はない。今夜の客は私達だけだと言っていたことを思い出し、このままにしておくことにする。茜ちゃんから借りた懐中電灯は、受付に置いておくことにした。


 部屋に戻ると、布団がすでに敷かれていた。

私は疲労困憊していた。正直、お風呂に入る気力も、顔を洗う体力すらなかった。着替えすらせずに、そのまま倒れこむように布団に身を沈める。旅館の布団特有の湿っぽい匂いが鼻腔を満たす。


 お風呂に入らないまま寝るようなことがあれば、必ず小言を言ってくる綺麗好きの凛子も今日ばかりは私の体調を気遣っているのか、何も言ってこなかった。

私はそのまま湿っぽい布団に体を預け、意識を手放した。

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