第30話

 十二月九日、金曜日。

 月初でもない微妙な時期に生産会議があったため、私は午後から工場の方に出向いていた。

 直帰するはずだったが、午後七時頃、オフィスに戻った。どうしても気になることがあり、戻らざるを得なかった。美香には悪いが、今週も今日で終わりだから、許して欲しい。


「おかえりなさい、米倉課長」

「係長こそ、遅くまでご苦労さまです」


 オフィスには、もうほとんど人が居なかった。金曜なんだから、当然か。

 営業部で夏目さんだけが残っていた。帰ってくれていて、全然構わなかったのに……。

 仕方ない。この人から、留守中の出来事はなしを改めて聞こう。


「生管も現場も怒り狂ってましたけど……マジなんですか?」

「はい。間違いではないようです」


 私は立ったまま、机に置かれていた今日の売上報告書に目を通した。

 取引先別に並んだ数字の中で、ひとつだけおかしいものがある。

 そう。とある一社から、いきなり大量の注文が入った。会議中の出来事だったから、製造側は大騒ぎだ。製品によっては、在庫が切れた。


「私にはそんな予兆も前情報も、ありませんでした。係長はどうでした?」

「私も同じです。担当にも厳しく追求しましたが、本当に知らないようでした」


 担当の課員が、夏目さんから尋問されたんだろうな……。もう帰って居ないが、ご愁傷さま。

 確かに、情報共有を怠る子ではないから、知らなかったのは本当だと私も思う。

 工場で製造側から私がボロカスに怒られたのは、まあ構わない。課長の立場として部下を庇ったが、やっぱり落ち度が無かったから、安心した。立証できないにしろ、国内営業課うちとしても被害者だ。


売上すうじだけ見ると、めちゃめちゃ美味しいんですけどねぇ。いったい、何があったんでしょう」


 本来なら、課長として喜ぶところだ。だが、たとえ良い意味でも計画から大幅に反れると、何か引っかかる。

 確か、この取引先は十二月に棚卸しがあるはず。資材を買い控えるなら分かるが、どうして逆の現象になる? 事情が見えてこないだけに、気味が悪い。


「そのへん悩んでも、答えは絶対に出てきません。週明けにでも、先方に訊いてみましょう」


 夏目さんはノートパソコンの電源を落として、席を立った。

 そりゃそうか。とりあえずは、割り切らないと……。

 夏目さんの言葉は『部下』としての意見というより『元上司』としてのアドバイスに聞こえた。やっぱり、私なんかより課長に全然向いている。

 この件は土日も頭の隅に付き纏いそうだと思ったが、意外とそうでもないかもな。

 工場で怒られてきても、正直さほどダメージは無かった――全く堪えてないわけじゃないが。


 ここ最近、頭はクリスマスのことでいっぱいだった。

 美香が私の誕生日を兼ねて祝ってくれるのは、死ぬほど嬉しい。でも、私としても当然ながら美香とのクリスマスをお祝いするつもりだ。

 美香へのクリスマスプレゼント、何を用意しよう……。その幸せな悩みで、浮かれまくってた。


「課長、帰りますよ」


 今もぼんやりしていると、ロッカーからコートを取ってきた夏目さんに声をかけられた。

 売上報告を確認するためだけにオフィスに戻ってきたんだから、用件は片付いている。私も帰ろう――早く、美香の元に。

 夏目さんと、エレベーターが下りてくるのを待った。ここは三階だから階段でもいいんだが、空いている時間帯はなるべく利用している。


「すっごいどうでもいいですけど……夏目さんは、クリスマスプレゼントに何貰ったら嬉しいですか?」


 ふとそんなことを訊ねたのも、浮かれてのことだった。


「単純な嬉しさだけなら、アクセサリーかしら。まあ、相手によるんじゃない?」


 夏目さんからのタメ口で、ハッと我に返った。

 この人は、仕事外かつふたりっきりだと、タメ口になる。年上だし、元上司だし……今さらタメ口で話されても、私は別に怒らない。

 問題は、それじゃないんだ。どうして、夏目さんなんかに、そんな質問を振った? もし美香に見られてたら、殺されてるだろ。


「米倉がそんな相談するなんて……珍しいわね」


 あんたも、そこに気づくな! ニヤニヤするな!

 うう……困った。自分で撒いた種とはいえ、どうやってこの状況を切り抜けよう。


「まさか、私にくれるの?」

「残念ながら、違います。今年は友達から、クリスマス会みたいなのに誘われて……」


 適当な理由で誤魔化すが、なんだか美香を否定しているような気がして、心苦しかった。

 そんなことを話している内に、エレベーターが下りてきた。扉が開き、ふたりで乗り込んだ。

 小さな箱には、私達ふたり以外に誰も居なかった。密室でふたりっきりになるのは、なんか嫌だな……。


「米倉はさ……今、好きな人いる?」


 私は扉横にある操作盤の前に立っていると、背後から訊ねられた。

 ほら。扉が閉じて下りだした途端、これだ。

 いやいやいや……。普通、そういうこと訊くか? ハラスメントだろ。

 抗議したい。逃げ出したい。でも、エレベーターという密室だから、出来ない。


 三階から一階に下りるのなんて一瞬なのに、めっちゃ長く感じた。少なくとも私には、重すぎる空気だ。

 どう答えれば、夏目さんの気持ちを聞かずに済むのか――操作盤を眺めながら、頭をフル回転させて考えた。

 人間としては大嫌いだが、仕事に支障をきたせたくない。これからも『ただの同僚』で居て欲しい。

 そのために答えるにしても、まずはイエスかノーの二択で、さらに細分化して、それぞれ反応をシミュレートして……。

 いや、やめよう。これに関しては、もう自分に嘘をつきたくない。

 美香の顔が頭に浮かんだ。これ以上、否定したくない。

 ええい、知るか! 仕事のことなんて、二の次だ!


「私はこれから先も、一緒に歩いていきたい相手が居ます」


 振り返って、本心だけを話した。ギリギリのところで、美香の名前を出すのは思い留まった。

 睨むような強い眼差しと、重いトーンで――なにマジになってるんだと、自分でも思う。

 それでも、夏目さんはドン引きすることなく、ふっと小さく微笑んだ。

 ほぼ同時に、エレベーターが停止した。チーンという音が鳴り、扉が開いた。

 ようやく、密室から開放された。


「お疲れさま。また月曜から、頑張りましょう……課長」


 私の肩をポンと叩いて、夏目さんが先に降りた。

 私も降りるが、すぐ立ち止まった。オフィスビルを出ていく夏目さんの背中を、見送った。

 あの様子だと……自分のことを言われていると、勘違いしていないだろう。


 そもそも、夏目さんの気持ちは本当に美香の思っている通りなのか? 実際のところどうなのか、わからない。

 というか、わからなくて全然良いんだ。去り際のも何だったんだろう……。リスク覚悟で答えたが、何にせよ平和に着地したと思う。


『米倉さん、経理だよね? お金には強いよね? それじゃあ、営業で頑張ってみようか』


 思い返せば六年前、入社二年目の時――会社の偉い人から、意味不明な理由で異動を告げられた。

 そのタイミングで一度は転職を考えた。でも、頑張ってダメだったら素直に転職しようと思った。


『米倉! いきなりこれだけ在庫減らしたら、生管が怒るだろ! 先方の計画をちゃんと伝えてるのか!?』


 そして、夏目さんからしごきあげられた。転職しようと、いっそ死のうと、何度考えたかわからない。

 結果論だが、私なんかがまともな社会人になれたのは、この人のお陰だ。その点だけは感謝している。

 だが、それ以上の感情は向けられない――もしも私の勘違いだったら、すいません。


 帰ろう。大切な人の元へ。

 私はオフィスビルを出て、帰路を歩いた。心なしか、早歩きだった。今から帰ると、スマホで連絡する余裕すら無かった。

 夏目さんにだが……自分の本心を、初めて口にした。この気持は、本物だ。どんどん溢れ出てくる。

 でも、本人にはまだ伝えていない。一刻も早く、伝えたい!

 やがて自宅に到着し、玄関の扉を開けた。アミに構うことなく、明るいリビングへと向かった。


「おかえりなさい、沙緒里さん。お仕事、お疲れさまでした。夕飯の支度しますね」


 美香がソファーから立ち上がった。

 夕飯の支度といっても、スーパーの惣菜を温めて盛り付けるだけだ。それだけでも嬉しいが、ちょっと後回しにしてくれないか?

 私は美香の正面に立ち、向き合った。

 そんな私の様子に、美香は首を傾げた。


 そう。私はこの人と、ずっと一緒に居たい。これからも、ふたりで歩いていきたい。この気持ちは、きっと――


「美香、好きだ」


 一時期は、理由がわからなかったから、そう口にすることが出来なかった。

 今でも、はっきりとした理由はわからない。

 わからなくても、いいんだ。美香は、私が世界でただひとり、そのように思える相手だから……。


「はい?」


 美香はポカンとした後、少しの間を置いて理解が追いついたのか、耳の先まで顔を真っ赤にした。


「ちょっと! 帰ってくるなり、何言ってるんですか! そういうムードじゃないですよね!?」


 まあ、超嬉しいですけど……そう小声で付け足して、俯いた。

 くそっ! 可愛いな! 私は衝動のまま、美香を抱きしめた。


「ムードがなくて、すまない。居ても立っても、居られなくて……どうしても言いたくて……」


 実に自分勝手な言動を取っていると、自覚があった。

 また暴走してるのかと思ったが、あの時とは違うと、はっきり言える。何もかもを委ねて、依存してるわけじゃない。


「美香のこと、大切にしたいんだ!」


 これが私自身の意思だった。

 ずっと一緒に居るためには、何に対しても厭わない。美香がどれだけ嫌がっても、離れてやるもんか!


「ありがとうございます……」


 腕の中で、照れくさそうに顔を上げた美香が目を瞑った。私は唇を重ね、キスをした。

 柔らかくて温かい感触は、美香という存在を改めて確かめさせた。

 感情が昂った今、特別なのを通り越して、もはや誇らしい。もしも誰かに紹介するならば、一度は躊躇した呼び方を、もう堂々と言える。

 そう。美香は、私にとって自慢の――



(第10章『幸せすぎて私死ぬかもしれない』 完)


次回 第11章『わたしの彼女ちゃんを最高に喜ばせたい』

美香は沙緒里へのプレゼントを考える。

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