第08章『このままじゃ私はダメになってしまう』

第22話

 十一月十九日、土曜日。

 午後一時過ぎ、私達は新幹線を下りた。

 実費で一泊して休日に帰ってきた出張は、初めてだった。スーツ姿なのに、車内で駅弁食べて缶ビール飲んで――背徳感が凄かった。

 これだけ楽しい出張も、初めてだった。微妙な時期に、小林さんにはタイミングが悪かったが、行って良かったと思う。

 私は旅行をしない人間だ。でも、小林さんとなら、どこへ行っても楽しめそうだった。次は、ちゃんとした旅行してみたいな。


「わたし、今日は実家に帰ってきます。お土産渡したいんで」


 浮かれた気分でいたところ、駅のホームで、小林さんから告げられた。

 そういえば、会社の他に家族にも、お土産のお菓子を買ってたな。


「あと、キャリーケースも置いてきて……今日はちょっと用事あるんで明日帰りますね」


 ん? 私はなんだか、違和感を覚えた。でも、すぐにその正体がわかった。

 邪魔になるから、私の部屋にキャリーケースを置けないんだ……。

 アミの部屋に最低限の荷物だけを『置かせてあげている』状態だ。そのキャリーケースも、わざわざ実家に取りに戻っていた。置きに戻るのは当然だ。

 小林さんとは、ちゃんとした同棲というわけじゃない。実家を追い出されて、新しい部屋を探すまで一時的に住まわせているだけだと、思い出した。


「そ、そうか。わかった」


 キャリーケースなんて、私の部屋に置いておけばいいじゃないか――その台詞が言えなかった。そこまで許してしまうと、同棲を認めることになる。

 内心で戸惑いながら、小林さんと別れて電車に乗った。

 ていうか、用事って何だろう。私には言えないことなのか? はぁ……。土曜日だっていうのに、寂しくなるな。

 午後二時頃、夕飯の買い物をして、ひとりで自宅に帰宅した。


「ただいま、アミ。ひとりでお留守番させて、すまなかったな」


 すぐにアミのトイレを掃除して、留守番のご褒美に大好物の液状オヤツをあげた。

 それから、スーツを脱いでスウェットに着替えた。

 黒のストッキング越しに、黒いネイルが見えた。バカげた流れだったが、小林さんが私なんかに塗ってくれたものだ。ピアス穴ではないにしても、小林さんの痕跡が私の身体にしっかりと刻まれていた。

 お揃いのこれは、些細だが小林さんとの確かな『繋がり』だ。昨晩も、温泉という外の世界で実感した。


「いつ取れるんだろうな、これ……」


 ネイルのことはよく知らないが、時間経過でいずれは消えるだろう。

 それは嫌だ。いっそ、タトゥーのように身体に一生残ればいいのに――私はそう思った。


 着替え終えて、荷物整理も片付いた頃だった。

 ふと、インターホンが鳴った。

 土曜の昼間に誰だろう。もしかして、何かの理由で小林さんが帰ってきたのか? 鍵を失くしたのか?

 私はソワソワとしながら、キッチンにあるインターホンのカメラ映像を確かめた。

 マンションの玄関に居たのは――期待もあって、小林さんだと一瞬思った。ハロウィンの時に見た格好だった。

 だが、あの時はピンクのパーカーを羽織っていた。カメラに映っている人物は、ブレザーの学生服姿だった。

 インターホンを鳴らしたのは、小林さんの妹の美結さんだった。時間的に、おそらく学校帰りだろう。


「は、はい」

『すいません。開けて貰ってもいいですか?』


 私の声が聞こえたからだろうか。不機嫌そうだった。

 私としても、この子は苦手だから、どっちかというと会いたくない。たぶん、小林さんに会いに来たんだろうな。今は居ないことを言うべきか? いや、素っ気ない態度で追い返すのは感じが悪い。

 そのように悩んだ末、渋々オートロックを開けた。

 私はスウェット姿だが、今から着替えて待たせるのも悪いから、まあこれでいいだろう。とりあえず、お茶の準備でもするか……。


「こんにちわ」

「いらっしゃい。……こんな格好で、すいません」


 しばらくすると、美結さんが部屋までやってきた。

 小さなコンビニ袋を手渡された。中には手頃なスイーツが……やっぱり三つ入っていた。


「こ……美香さんならお昼過ぎに出張から帰ってきて、そのまま実家の方に帰ったけど……」


 危ない危ない。いつもの癖で、また『小林さん』と言いかけた。意外と、下の名前を覚えているものだな。

 出張には私も一緒だったことは、なんだか言いたくないから伏せておいた。他人事のように伝えるのは、少し気が引けた。


「え? そうだったんですか?」


 静かに驚く様子は、言葉に出さないにしろ『どうして早く言ってくれなかったんですか?』とか『来る意味ありませんでした』とか、そんな風に感じた。まったく……どうすればよかったんだ。

 わかったなら今すぐにでも帰って欲しいところだが、美結さんとしても私を気遣って退けないんだろうな――ソファーから立ち上がろうとはしなかった。居心地の悪さが、ひしひしと伝わってくる。何なんだ、この図は。

 私は、美結さんにホットコーヒーとシュークリームを差し出した。そして、以前と同じく床に座った。それ食べてちょっとだけお喋りしたら、帰りやすくなるだろう。小林さんと違って、よく出来た妹さんだよ。


「実家に帰ったって……何かあったんですか?」

「出張のお土産を渡すのと……何か用事があるみたいです」

「ふーん」


 美結さんは私の返事に、つまらなさそうに相槌を打った。

 ケンカでも期待していたのか? 残念ながら、そうじゃないんだ。


「最近、姉はどうですか? 迷惑かけてません?」


 なんか、嫌な姑みたいに見えてきたな……。どう足掻いても、そっちの流れに持っていく気か。


「いえ、特には……。仲良くしてますよ」


 嫉妬したお姉さんから文字通り束縛されてペディキュア塗られました、とは言えない。

 あれ? というか――よくよく考えたら、私は今スリッパ脱いで座ってるじゃないか。黒のストッキング履いてるから目立ちにくいかもしれないが、立ち上がると美結さんに黒いネイルが見えないか? 足の指に、そっと触れた。

 もしも、この場で見られてたとしても、趣味が悪いと思われるだけだろう。でも、帰宅後に姉とお揃いだとわかったら、この子はどう思うだろうな……。

 私は、今すぐ立ち上がって、ネイルを見せつけたかった。姉とはそのような関係なのだと、完膚なきまでに知って欲しかった。祝福でも嫉妬でも構わない。第三者からの観測と反応が欲しい。

 そのようなウズウズするする気持ちを――我慢した。私と小林さんの当事者ふたりでバカなことをするのは勝手だが、美結さんを巻き込むのは筋違いだ。私は冷静になって、わきまえた。


「そうですか……。姉が邪魔になったら、いつでも言ってください。連れて帰ります」

「あははは……。そうはならないと思いますので、大丈夫ですよ」

「へぇ。姉のワガママを受け止められるのは、あたしぐらいですけどねぇ。本当に大丈夫ですか?」


 私はイライラを抑えながら、仕事の時のように愛想笑いを浮かべていた。

 何様だよ! と思うが、美結さんの方が小林さんと付き合いが長いのは事実だ。姉妹として、私よりは小林さんを理解しているだろう。

 それがわかっているから――ただ、悔しかった。勝負に勝っているにしても、試合には負けている感じがした。


「お気遣い、ありがとうございます。……でも、小林さんは私に甘えてきますので」


 だから、ひと回りも歳の離れた少女を相手に、負け惜しみで嘘をついた。自分でも、柄にもないことをしたと思う。それだけムキになっていた。

 小林さんの優しさに甘えているのは、私の方だ。小林さんは生活と自己顕示欲のためだけに、私に構ってるんだ。

 きっと……私のことなんて、いつでも捨てることができるんだ。


「わかりました。姉は振り回すでしょうけど、頑張ってみてください」


 美結さんはコーヒーを飲み干すと、ソファーから立ち上がった。

 笑顔を浮かべているが、その『仮面』を完全に被れていない。漏れた苛立ちが私に伝わる。意図的にやってるのかもな……。


「あー! くそ!」


 美結さんが帰ってひとりになったところで、私は感情を爆発させた。

 今夜は小林さんが実家であの小娘と一緒だと思うと、嫉妬で居ても立ってもいられないぐらいだった。

 どうしよう。適当に理由をつけて、こっちに帰ってきて貰うか?

 私は瞬時に、そう考えていた。だが、冷静になって『用事』がわからない以上それは迷惑だと思った。

 そして、咄嗟にそのような考えが浮かんだことに、怖くなった。


 夜は風呂に入った後、ソファーで晩酌をした。

 土曜の夜をひとりで過ごすのは、久しぶりだった。

 ふと、スマホでSNSを見ると『みうみう』が動画配信をするとのタイムラインが流れた。

 動画サイトのアプリを立ち上げた。よくわからないゲーム画面と、隅にはマスクをした小林さんの顔が映っていた。


『なんで、どの塔踏めばいいのかわからないの!? フェーズ詐欺じゃん! DPSも低すぎるし、絶対に灰色でしょ!』


 何を言ってるのか全然わからないが、小林さんがブチギレていた。

 ていうか、豆粒みたいに小さいキャラクターが運動会の集団演技みたいな謎の動きをしている。何かの儀式か? インターフェースもゴチャゴチャしていて、遊んでいる本人の様子といい、何が面白いのか全く理解できない。

 最近のゲームって凄いんだな。私には絶対に無理だ。


『perf9www』

『ナイトさんw』

『みうみうそいつ晒して』


 コメント欄は謎の盛り上がりを見せていた。晒す? いったい、どういう民度なんだ……。なんとなく、関わりたくない連中だと思った。

 呆気に取られたが、私は安心もしていた。なんだ……用事って、動画配信のことなのか。

 私に黙って私以外の誰かとこっそり会っているかもしれない疑念が、晴れた。

 そういえば、この部屋で配信したいって言ってたっけ。私が許してないんだから、このために実家に帰るのは当然か。


 荷物といい……小林さんとはまだ、良くも悪くも一線が引かれている。

 これを超えなければ、私は元の生活に戻れる。ここが分岐点だ。

 小林さんへの独占欲が強くなっている自覚があった。昼間にしても、彼女の妹だとしても、周りの女に良くない感情を抱いた。こんなの、やっぱりソウルメイトじゃないと思う。

 まだ制御できているが、小林さんはまるで麻薬だ。深みにハマっていって、ブレーキが効かなくなって――自分自身が暴走することが怖かった。

 そう。この部屋から追い出してしまえばいい。元の、上司と部下の関係に戻ればいい。自分のことを考えるなら、そうするべきだ。

 だが、簡単には割り切れなかった。

 だから、こんなにも胸が苦しい。私はそれを紛らわせるように、アミを抱っこした。


 ――悩みがあるなら、遠慮しないで言ってください。


 昨晩、そう怒られたことを思い出した。許されたのに……もう、包み隠さず本心を話そうと決めたのに……こんな悩み、話せるわけがない。

 それでも、差し出された手に縋りたい気持ちはある。

 スリッパを脱いで足の黒いネイルを見た後、アミを放して、スマホのメッセージアプリを開いた。


『寂しい』

『会いたい』


 そして、小林さんに立て続けに二言のメッセージを送った。それらも、確かに私の本心だ。

 ……いつまで経っても既読マークはつかなかった。まだ動画配信しているんだから、当然だ。

 そうはわかっていても、腑に落ちなかった。

 動画配信なんて今すぐやめて、私のメッセージを見て欲しい。今すぐ電話して声を聞かせて欲しい。今すぐ私に会いに来て欲しい。

 今すぐ私を抱いて欲しい!


 既読マークがつかないことの焦燥に、ソファーから立ち上がった。私の様子を察したのか、アミが逃げていった。

 私はアミの部屋に入って、小林さんの荷物を漁った。

 何日か前に着ていたニットがあった。まだ洗濯をしていないものだ。それを抱きしめると、小林さんの匂いがした。

 小林さんが悪いんだ……。

 それを免罪符にして、私はニットを持ってリビングのソファーへと戻った。

 ソファーに横になると、電動マッサージ器を手に取った。

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