第06章『私の身体に穴を開けるな』

第16話

 十一月八日、火曜日。

 午後五時を回り、私はオフィスの課長席で今日の売上報告を眺めていた。

 うんうん、いい感じじゃないか。今月も序盤を終えようとしているが、なんとか日割りの計画から上振れで推移している。先月がよろしくなかったから、素直に嬉しい。

 部下の皆さん達は、時期的にボーナス査定を意識してるのか? ちゃんと褒めるから、私の胃のためにも、このまま頑張ってくれ。


「戻りました」


 せっかく、今日は朝から平和だったのに、係長の夏目さんが戻ってきた。自分の担当である遠い取引先に、朝から出張していたから、珍しくスーツ姿だ。


「お疲れさまです。直帰でもよかったんですよ?」


 私としては今日一日あんたの顔を見たくて済みそうだったから、心から直帰を望んでいた……。たまには、気持ちよく一日を終えたかった。

 夏目さんは自分の机に鞄を置くと、ファイルを取り出した。


「どうしても今日中に、これを報告しておきたかったので。大口の受注、取れましたよ!」


 私はファイルを受け取り、中身に目を通した。

 先方が新規の生産ラインを立ち上げるとは、以前から耳にしていた。それの資材調達がライバル社になりそうな雰囲気だったが、夏目さんが勝ち取ってきたようだ。

 ファイルを見る感じ、先方の生産計画は長期的なもので、受注見込みはとても嬉しい数字だった。今年のMVPになれそうなぐらいの大手柄だ。私の査定に関わらず、会社としてもボーナスを弾むだろう。そりゃ、直帰じゃなくてオフィスに戻ってイキリたくもなる。実際、夏目さんはドヤ顔だった。


「おおっ、凄いじゃないですか。やりましたね」


 流石は夏目さん、うちのエースだな。……人間としては嫌いだが、仕事では素直に尊敬する。


「製造への根回しは、任せてください」


 私は諦め気味に言った。

 会社としては喜ばしいことだが、負荷が増える製造部はキレるに決まってる。

 はー、怒られるの嫌だなぁ。でも、これが課長の仕事だから、頭下げて頼まないと……。ていうか、この規模になると、直に工場まで出向いた方がいいな。

 ダメだ。考えただけで、憂鬱になってきた。これだから、夏目さんの手柄を素直に喜べない。


「今日中にその資料作りますので、残業一時間お願いします」


 さらに、私を帰らせない気か……。まあ、定時で帰れる日なんて無いんだが。


「わかりました。頑張ってください」


 正直、資料作りなんて明日でも全然構わない。ていうか、私は明日怒られてくるのか? なんかもう、死刑台に送るような悪意を感じる。

 私は勤怠管理システムで夏目さんの残業申請を受理したところで……ふと、あることが浮かんだ。


「小林さんも、今日は残業していいよ? 計画の見直し、まだだよね?」


 もう、定時を待ってる状態なんだろう。自分の席でボーッとしてる小林さんは、課長席からの私の声に、ビクリとした。

 小林さんには、月初に組んだ計画通りに全然進んでいないから、見直しを今朝指示した。それなのに、まだ上がってこないどころか帰ろうとしているのは、どういうことだ?

 露骨に暗い表情を見せる小林さんに、私はにっこりと微笑んだ。こうなったら、道連れだ。

 提案ではなく命令だと理解したようで、小林さんからも残業申請が飛んできた。イヤイヤな気持ちが凄く伝わるが、快く受理した。


「小林、一時間で終わらせろよ!?」

「は、はい……。頑張ります……」


 夏目さんに弱々しく返事をする小林さんを見て、今夜はどこかで食べて帰っていいかもと思った。


「小林さんが空振りしてるのもありますけど、先方の動きも最近ちょっと引っかかるんですよね。近い内に、小林さん連れてヒアリングに行ってきます」

「課長がですか? 私が行きますよ?」

「いえ。ここは私が直に出ます。……欠品の謝罪もあるので」


 部下の尻拭いをすることもまた、課長の仕事だと思う。正直、そっちも憂鬱だが、私が責任取らないと……。それに、先方のいい加減さにも圧を掛けておきたい。


「そうですか……。小林のせいで、ご愁傷さまです」


 なんか他人事のようになってるが、あんたの小林さんへの教育にも多少は責任あると思う。私は少し、イラッとした。

 自分の席に座った夏目さんは、留守中に机に置かれたメモ書きや付箋をチェックしていた。大体は、何時にどこから電話があったのかの記録だ。


「ちょっと前から思ってましたけど……課長、最近は可愛らしいの使ってますよね」


 その中のひとつ――ハチミツ瓶の形をした付箋を持って、私を見た。

 私もまた電話の記録を書き置いたが、中身を言ってるんじゃない。私の机には、白いクマのぬいぐるみが、その付箋の束を抱えている。


「ええ……。ちょっと前に、遊びに行ってきましたので」


 先週のハロウィンに小林さんとテーマパークへ行った際、帰りに買ったものだ。帰りたくない気持ちを振り払うため、何か会社で使えそうなグッズが欲しかった。

 そりゃ、私なんかにこんな可愛いものは似合わない。でも、夏目さんもですよね?


「へぇ。お友達と行かれたんですか?」

「はい……」


 半眼で訊ねる夏目さんに、私は頷いた。ここは、そういう体にしておこう。流石に、チラリと小林さんを見るのを我慢した。

 いったい、何を疑ってるんだ? 私に友達が居ないと思ってるのかな?

 まあ、私に友達が居ないのは間違っていない。それに、小林さんは……友達とは、ちょっと違う気がする。


 やがて、午後七時になろうとしていた。

 疎らなオフィスの残業組が、そろそろ切り上げようとする雰囲気だった。


「課長……。見直し、出来ました。確認お願いします」


 まるで時間を見計らったかのように、小林さんが私の席に近づいてきた。丁寧に、弱々しい苦笑を浮かべながらも、仕事した感を醸し出していた。

 演技だと、わかってるんだからな! そう言いたいのを堪えて、私は社内サーバーのファイルを眺めた。まあ、無難な内容だった。


「うん。これでいいんじゃないかな? ここのところ、明日にでも先方とすり合わせしておいて」


 小林さんも、やれば出来るじゃないか。いや、ケツを叩いたら、こうなるのか? 何にしろ、いついかなる時も真面目に仕事して欲しい。


「わかりました」


 小林さんが、ニッコリと明るく微笑んだ。大人しい雰囲気だからか、いつもと違って、やや大人びて見えた。

 あー、可愛いなぁ。演技じゃなくて、これが素ならいいのに。


「課長。私も終わりました」

「お疲れさまです。……これで進めますね」

「はい。よろしくお願いします」


 夏目さんも提出してくるが、そっちは実のところロクに確認していない。早く仕事を置きたいから、適当に返事をした。

 良く言えば……それだけ信頼している。


 ふたりの残業がちょうど一時間で片付いたところで、私も帰ることにした。

 夏目さんと、小林さんと――奇妙な組み合わせの三人で、オフィスビルを出た。


「そういえば……今夜は皆既月食ですよ」


 玄関の自動扉を出てすぐ、夏目さんが立ち止まった。私と小林さんも、それに引き留められた。

 そういえば、今朝のニュースやSNSでも、そんな話題が出ていたような気がする。私としては、凄くどうでもいい。


「ほら。もう少しで、完全に隠れますね」


 夏目さんが夜空を指差し、私は連れられた。


「……三日月と、どう違うんですか?」


 私と全く同じ感想を、小林さんが漏らした。

 時刻は午後七時過ぎ。夜空に浮かんでいるのは、実際ほぼ三日月だった。三日月よりは、円の影が濃く見える――それだけだ。


「三日月よりも、月の満ち欠けが全然早い。ていうか、そのうち全く見えなくなる。その変化が肉眼で分かるんだ」

「へぇ……」

「凄いんですね」


 どうでもいい感全開な小林さんに続いて、私も適当に相槌を打っておいた。


「そうです! 特に今回は凄いんですよ! 天王星が月に隠れる天王星食も、四百四十二年振りに見れるんですから! 次に見られるのは、三百二十二年後なんですから!」


 夏目さんが乗っかってきて早口で熱弁するが、私には今ひとつ伝わらなかった。

 数字を聞く限り、確かに凄い現象なんだと思う。でも、どうしてだろう……わざわざ見る気にはなれなかった。

 ていうか、あれだ……。なんか、夏目さんがオタクみたいでウザい。


「天王星食は、八時半から九時半ぐらいです! 是非とも観測してみてください! それでは、お疲れさまです」


 言うだけ言って満足した感じの夏目さんと、別れた。夏目さんの向かう駅と私の自宅とは、ここから正反対の位置になる。


「わたしは、ちょっと寄り道して帰ります……。お疲れさです」


 そそくさと立ち去る小林さんに、あれ? と思うも――夏目さんが居る手前、この場で一緒に帰れないんだと理解した。別ルートで私の部屋に帰るつもりだろう。

 小林さんは、駅とも私の部屋とも違う、第三の道へと消えていった。本来なら、小林さんも実家なら夏目さんと同じ駅に向かうはずだが、とても一緒には歩けないんだろう。

 いっそ、そのまま実家の方に帰ってくれないかなぁ。私はそのように思いながら、帰路を歩いた。


 小林さんと一緒に帰れなかったので、外食ではなく、スーパーで惣菜を買った。

 私が帰ってしばらくすると、小林さんも帰ってきた。物凄く不機嫌そうだった。

 風呂よりも、先にふたりで夕飯にした。食べ終わった頃には、午後八時半になろうとしていた。


「天王星食だっけ? そろそろ時間だが、見なくていいのか?」


 私はリビングのソファーで寛いでいると、夏目さんの言葉を思い出し、小林さんに訊ねた。


「そんなの、超どうでもいいですよ……。沙緒里さんがどうしてもって言うなら、付き合ってあげてもいいですけど」

「意外だな。キミはその手のやつに、食いつくと思ってたよ」


 私としても、心底どうでもいい。

 小林さんは惑星の満ち欠けよりも、それを背後にした自撮りをSNSにアップするものだと思ってた。現に、スマホでSNSを眺めていると、タイムラインは誰も彼もその話題で持ち切りだ。


『何が月食ですか? 私こそ、月を司る全人類の母親なのですよ?』


 ああ、勅使河原アルテミス伊鶴先生が、なんか苛立ってらっしゃる。今夜は力が弱まっているのですか?


「……わたしのこと、ただのミーハーだと思ってません?」

「え? 違うのか?」

「違いますよ! そこらへんの有象無象と、一緒にしないでください!」


 洗い物を終えた小林さんは、不機嫌そうな様子で隣に座った。

 帰ってから、ずっとこの調子だ。残業させたことに、未だに腹を立てているんだろうか?


「ていうか、わたしは天体観測なんて、大っきらいです!」


 何気ない言葉だった。

 だが、私には……天体観測という行為が、帰り際の夏目さんを指しているように聞こえた。


 ――あの人たぶん、沙緒里さんに気がありますよ?


 そして、バーベキューで言われたことを思い出す。

 正直、あの時は話半分に聞いていた。今でも信じられない。だって、根拠が無い。

 根拠は無くとも――私の酒を奪い取って一気飲みしたことや、こうして苛立っていることが――小林さんの言動から、説得力はあった。

 それでも、やっぱり信じられない。


「星の満ち欠けなんてワケわからないし、私も嫌いだよ……。この点だけは、私達そっくりだな」


 私は苛立つ小林さんなだめるように、そっと抱きしめた。


「皆が夢中になってるにしても、私達は別に見なくてもいいじゃないか」

「沙緒里さんがそう言うなら、それでいいです……。ていうか、星なんかよりも見るべきものが、すぐ側にあるじゃないですか……」


 小林さんは口を尖らせて、小声を漏らした。視線を私から外していることからも、小っ恥ずかしそうだった。

 やっぱり、そうなんだ……。その様子が可愛いと思うと同時、私は確信した。

 私の思い違いでないのなら、小林さんは夏目さんに対して妬いている。

 夏目さんがどうであれ、私なんかのためにそのような感情を抱いている小林さんに、私はただ驚いた。


「本当だ……。そうだった……」


 そして、それが嬉しかった。

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