第2節(1/2)

  二


 その日は先夜来、しとしと弱い雨が降り続き、昼前になると霰でも降ってきたかのように激しい音を伴う本降りになった。雲景は知人から書写させてもらった古記録の巻子を紐解き、細大漏らさず怪異についての記事を抜き書きしていた。

 時々手を止め、腕を組んで宙を睨む。そうすると考えがまとまることもあったが、この日は却って気が散ってしまう。幾つもの巻子を手に取り、紐解いては放り出し、気忙しく冊子をめくっては伏せるのを繰り返した。そうするうちに頭に熱が籠り、こめかみが疼き始め、とうとう仕事そのものを放り出した。

「散らかってるな。盗人でも入ったのか?」

 聞き慣れた冷たい声に顔を上げると、声の主――人狗の紀政綱きのまさつなが、濃紺の小袖の着流し姿で立っていた。背中に届く長い髪を無造作に束ね、猛禽じみた茶色い――白目のない――目玉で、散らかった部屋を睥睨している。

「盗人? あぁ、言い得て妙だ政綱。誰かがわたしの類まれな器量と才覚を、そっくりそのまま盗み取ってしまったらしい。あぁ、これは〈異国合戦〉以来の大事件だ! もう何も手につかない! 停滞だ! 身の破滅だ!」

 草匠は喚きながら反故紙ほごしの束をバサッと舞い上がらせた。

 政綱は、雲景の下宿に上がり込んで今日が三日目だが、そろそろこうなると予感があった。呆れたと言わんばかりに溜息をつくと、足の踏み場もないほど無秩序な部屋に入り、紙と冊子に埋もれた藁編みの円座わらざを探した。

「なぁおい、助けてくれよ政綱。どうしたらいい? どうすれば閃きが得られるんだ⁉」

 雲景が、『洛中雨景詠哥部類らくちゅううけいえいかぶるい』と大層な名をつけた歴代歌人の雨の詠草を集めた冊子を脇に放り、お目当ての円座に辿り着いた政綱は、それを片手に持って歩きながら言った。

「雨の日にそう焦るな。まずその口を閉じて、それから鼻息を静めて、じっと雨音を聞いてみろ。……どうだ、聞こえるか? いい日じゃないか」

 やっと現れた話し相手のしかめ面を目で追いながら、雲景は溜息交じりにぼやいた。

「その点は同感だ。わたしも雨は嫌いじゃない。穏かな心持ちでいられたらの話だが」

「あべこべだ、雲景。心を落ち着かせるのが雨の効用だろう」

 政綱は雲景の右手に円座を投げ置き、その上に腰をおろした。

 雲景が烏帽子をかなぐり捨てて言った。

「あぁ! 何か起こらないかな。都に鬼が攻め込んだり、鴫河しぎがわを遡って海から亡者船が漂着したり――」

「あるいは、検非違使が駆け込んで来たりな」

「検非違使?」

「下だ。声がする」

 耳のいい天狗の弟子には、階下からの人の声が聞き取れた。ややあって足音がひとつ、階段を踏み鳴らしながら上がってくるのがわかった。

「また麻枝殿が勝手に通したのか……」

 明らかな男の足音に、雲景が愚痴をこぼした。

 来客が戸口に立つと、政綱は、「やはりな」と呟いた。

 雲景はいつの間にか膝の上に乗っていた木版摺の地誌を開き、ぱらぱらとめくりながら、顔を上げずに客に声をかけた。

「どうも安田大夫判官たいふはんがん殿。大雨の日にご苦労なことですな」

 検非違使判官――名誉ある五位の判官の――安田遠時とおときは、近頃目尻にひとつの小皺を見つけてしまった丸い目を、更に丸くして言った。

「どうしたことだこれは。盗人でも入ったのか?」

「そうらしいぞ、判官」

 政綱は、真面目くさった顔でうなずきながら答えた。

「こちらの雲景殿が、何者かに閃きとやらを盗まれたらしい――本人すらどこにしまっているのか知らないものを。同情してやってくれ、お蔭で今朝からこの調子だ」

 何か言いかけた遠時を、雲景が手で遮った。

「いや、いいんだ。大事ない安田判官。いつもの政綱の嫌味だ。それより何か急用があって来たんだろう? 今朝から下京の……それも右京のほうを歩き回って、手応えがなかったらしい。さぁ困ったと頭を抱えたところで、雲井小路にいる我らに思い至ったというところか」

「大体その通りだが、何故右京の外れだとわかった?」

「わたしは都生まれではないが、都育ちではあるんだぞ。推理なんて簡単なことじゃないか」

「聞こうか」

「まず袴の裾、それから直垂ひたたれの袖に、黒い泥はねがついている。上京の土は固くて白いが、右京の外れは柔らかいうえに黒味が強い。昔よく峯匡みねまさと遊びに行って、袴の尻が汚れていると母から叱られたものだ。今朝からと言うのは、歩き回った場所を右京の外れと考えれば、二条通りと龍尾たつのお通りに挟まれたここまで来るのには、普通に歩いても半刻以上はかかる。雨の日にあちこち見て廻ったとすれば、今朝、それも鶏鳴けいめいからそれほど経たない暗い内に家を出たんだろうとわかる」

 雲景がさもつまらなそうな顔で述べ立てるのを聞いていた遠時が、感心した風に言った。

「閃きはあるではないか」

「まさか。こんなものは、草匠の閃きとは言わない」

 不貞腐れた雲景に微笑みかけた遠時が政綱に目をやると、人狗は首を横に振って薄く笑った。

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