人狗草紙――化け猫雨情――

尾東拓山

化け猫雨情

第1節

 ……雲景のいう化け猫のいた寺が具体的にどこにあったかという点になると、地域住民の意見はまちまちになり、結局のところ不明とする他ないのである。

                    ――『怪異学リブレット十三 化け猫』




  一


 陰暦五月の中頃のこと。この日も都を覆うのは、晴陰定まらぬ梅雨空だった。

 上京にある雲井小路には、板屋根の平屋に交じって瓦葺き二階建ての民家がいくつか建ち並んでいる。その一軒の二階廂から、草紙書き――草匠そうしょう雲景うんけいは、人の絶えた通りを見おろしていた。褐色の水干すいかんに薄灰色の袴を履いた雲景の面貌は、白くかつ整っており、いかにも都人といった風情だ。ただ、被っている烏帽子は何故か侍烏帽子さむらいえぼしだ。

 つい今しがたまで、屋根を打つ雨音はうるさいほどだった。雨脚が弱まったせいか、樋を伝って溝に流れ込む水の音が大きく聞こえていた。雲景は、雨があがったかと思い戸を開けてみたが、絹糸のような雨がまっすぐ地面に降り注いでいた。

 もう閉めようかと戸に手をかけた雲景は動きを止め、通りの南からこちらに歩いてくる人影に視線を据えた。薄青の狩衣に、同色の布を傘代わりにかずいている。ちらりと見えた烏帽子は立烏帽子たてえぼしだ。

 そこまで観察すると、戸を三尺ほどだけ開けたままにして、通りから背を向け、部屋の入口から向かって右手に置かれた文机の前に座った。机上は必要最低限の筆記具しか置かれていないが、その周りには様々な色の表紙がつけられた冊子が積まれ、巻子本が転がり、放り出された反故紙ほごしが散らばっている。黒っぽい床板を紙が覆っているさまは、さながら積り始めた雪を思わせる。

 雲景はその見慣れた惨状をひと通り見まわし、小さく溜息をついた。

 その直後、階下で若い男の声がし、続いて老女の声がそれを出迎えた。ほとんど間を置かず、ふたり分の足音が階段を上がり始めた。

 先に顔を見せたのは、階下に住むこの家の主――麻枝まえという老女だった。もとはさる大臣家に宮仕えする侍女だった。病を得て屋敷を退き、長年の奉公への感謝としてこの家を預けられたのだそうだ。雲景は縁故を頼りに、都での下宿としてここを間借りしているのだった。

「雲景さん、お客様よ……あら、ごめんなさい。すっかり忘れていたわ。案内する前にひと言いうべきだったわね」

 麻枝は、うっかりしていたと素直に認めたが、実際のところはこれで何度目かわからない。雲景は顔をしかめはしたが、麻枝がいつものように舌先をみせておどけるせいで、怒る気にもなれなかった。それに今日は、来客が誰なのかがわかっていた。

 雲景は、「構いませんよ、今日はね」と笑ってみせ、「さぁ、入れよ峯匡」と短い廊下で待つ客に声をかけた。

「よくわたしだとわかったな」

 薄青の狩衣を着た若者――小槻峯匡おづきみねまさは穏やかな表情でそう言った。

「実を言うと、おまえが来るのが見えたんだ。衣を被いて来るさまなど、女の家に忍び行く公達然としていて、中々風趣があったと言えようか。いや、勿論用件までは想像しようもないが」

「歌の一首も詠めぬくせによく言うよ。何、大した用ではない。ちと気晴らしに来ただけのことだ」

 そう答える峯匡に、雲景は文机の向かいに放った円座わらざに座るよう勧めた。

 峯匡は部屋を見渡し、文机の上に目を落とすと、何かに納得した風にうなずいた。

「どうも、雲井小路の雲景殿は筆が進まぬと見えるな?」

 草匠は答える代わりに、たまたま手に触れた反故紙を宙に放り投げて笑った。

 文机には、真新しい紙が一巻きと、野鳥の飾りがあしらわれた硯、角が丸くなった墨と数本の筆が乗っていた。硯に擦った墨はたっぷり残っているし、筆は使い込まれて汚れているが、今日ついた汚れではない。何より、紙は巻かれたままで放ってあるのだから、峯匡の言葉に誤りなどあろうはずもなかった。

 文机を取り巻く部屋の有り様は、雲景の心中を語るに雄弁なるものがあった。

「全くその通り。今朝からこうして支度だけはしているが、筆を執るとなんでか頭が痛む。そういう時は大抵、何をやっても上手くはいかない」

 峯匡は円座に腰かけて言った。

「気持ちはよくわかる。わたしも少納言殿から急かされて、連日父とふたりで文書を書いたり、日記を検めたりしているが……」

 峯匡は肩を揉み、ゆっくりと首を回した。雲景の幼馴染でもある峯匡は、朝廷の弁官局べんかんきょくの官人を世襲する家に生まれ、そして二十数年前に予定された通り、いまは官人として働いている。

 出迎えた雲景も、部局は違うが官人の生まれだった。本名を中原師春なかはらもろはるという彼は、従五位上じゅごいのじょうの位こそ持っているが、生家はいくつかの理由で没落し、家職を失っている。

 そんな彼のいまの仕事は草紙書きだ。官人である生まれと、幼少期からの関心を活かしたい一心で、自ら選び取った道だった。

 世界の東方海上に浮かぶこの島国――日出国ひじこくでは雲景のような草紙書きを草匠そうしょうと呼び、職人として扱っている。

「おや、また雨が強くなってきたな」

 雲景は外に目をやり、大きな雨粒が家々を打つのを眺めると、満足そうな顔をして戸を閉めた。向き直った雲景の顔を見て、峯匡が尋ねた。

「おまえ、雨が好きか?」

 雲景は文机の上の物を脇へ押しやると、両肘をつき、指を組み合わせてうなずいた。

「ああ、いまは特にな」

「いまは?」

「そう。いまのわたしは筆も進まず、文書の代筆や記録の部類分けの依頼もないし、充実しているとは言い難い。それはつまり、世間からの遅れだ。その遅れというのは、じわじわとわたしを苦しめる呪いに他ならない。人の一生はあっという間らしいからな。したが、こうして雨が降り続けると世間の動きも鈍くなる。とり残されないと思えば、ひと息ついてもいいような気になれるだろう?」

「なるほど。わかるような気がする」

 丁度その時、麻枝が茶を運んで来た。甘葛煎あまずらせんのかかった餅菓子が添えられている。「柿の葉のお茶よ」とにっこり笑って麻枝がさがると、碗を取った峯匡はその匂いを嗅いで感心したように眉を動かした。

「いい匂いだ。柿の葉だって?」

「ああ。茶葉はどうしても金がかかるからな。柿の葉なれば、その辺で集めて、しっかり丁寧に乾かしておくだけでいい。ずっと安上がりなうえに、この通り匂いはいいときている」

「おまえの知恵か?」

「いや――」

雲景は首を横に振った。

「去年の秋、人狗にんぐ政綱まさつなが教えてくれた。あいつとは旅先で再会して、わたしはひとりで都へ戻っていたんだが、政綱は結局ひと月遅れてやって来た。その時の土産が、袋に詰めた柿の葉だったんだ。神殺しもやってのける天狗の弟子が、二尺五寸の恐ろしい斬れ味をした大刀を差してせっせと葉っぱを集めている姿を想像すると、中々笑えるだろう?」

「たしかに」

「それから何日もかけて乾かした。たったそれだけだが、不思議と楽しかった。わたしと政綱と麻枝殿の三人交代で、子でもあやすように丁寧に面倒を見たんだ。思えば、政綱があんなに長くここに留まったのは、あれが初めてだったな」

 笑顔でうなずきながら聞いていた峯匡は、茶を一口啜り、ほっと溜息をついた。

「そう言えば、雲景、政綱殿で思い出したのだが、下京で化け猫退治があったそうだな」

「昨日のことだ。表向きは、検非違使が妖討使ようとうしの役を仰せつかって、見事に解決したことになっている」

「その言い方はつまり、実際のところはおまえと政綱殿が働いたということか」

 問われた雲景は、悪戯っぽく笑ってみせた。

「よくあることだ。今度に限った話でもない――知ってるだろ? だが、他言は無用だぞ。所詮は建て前だが、それでも使庁しちょうの連中にとっては大事なことだ」

「承知しているとも。黙っているのは当然として、ここだけの話として聞かせてくれないか?」

「ふむ、だが小さな話だぞ? それでもいいのならば、喜んで聞かせるが」

「是非頼むよ。しばらく煩わしいことを忘れたいんだ」

 うなずいた雲景は、散らばった紙の下から、化け猫の一件に関する見聞録を探し当てた。

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