第2節(2/2)

 階下の土間で麻枝から手渡された布で、雨に濡れた首筋を拭っている遠時に、政綱は、「その辺に座れ」と、新たに発掘した円座を一枚手渡した。

 ふたりに向き合って遠時が腰をおろすと、雲景がこめかみを揉みながら尋ねた。

「それで、判官殿、探し物は? まだ御所の女房局から盗まれた小袿こうちぎを? まずは四条辺りの土倉どそうを丹念に当たってみるよう勧めただろう」

「その件もあるが、今度は盗難ではない。化け猫騒ぎだ」

 〝化け猫〟と聞いた雲景は、ゆっくりと顔を上げ、「詳しく」と先を促した。

 遠時は、雲景が捨てた侍烏帽子を拾い、投げ渡した。

「右京外れの梅津辻子うめつずしと呼ばれる地域の住人らから、保官人ほかんじんを通して使庁に訴えがあった。彼の地には、壊れた垣もそのままに放られている無住の破れ寺がある。聞いてみれば、ある時から、その寺にみすぼらしい身なりの僧が住むようになったとか」

「よくある話だ」

 と政綱。遠時も同意見らしく、うなずいている。

「たしかに。だが、先月の半ば頃、その辺りを通った商家の奉公人が、身の丈八尺(約240㎝)はある大男から荷を奪われ、赤裸で逃げ帰って来る騒ぎがあった。その後、荷を探しに来た商家の連中が、件の廃寺に住みついた僧が、猫に変わるところを見たそうだ」

 じっと遠時の顔に見入っていた雲景と対照的に、政綱は雲景の書いた草紙を読みながら、欠伸を噛み殺している。

「さっきも言ったが、よくある話だ。人を殺したわけでもなし、放っておけばいいだろう」

 遠時はすぐに口を開こうとしたが、慌てて横を向くと大きなくしゃみをした。そして鼻を啜りながら愚痴をこぼした。

「わしとしても、ただ一度の騒ぎであれば無視しておけばよいと思うが、今度はそういうわけにもいかん」

「どうして?」

 言いながら雲景は、遠時に鼻紙代わりに反故紙を一枚投げ渡した。

「いや、わたしにはわかったぞ。その商家は貴顕に金を融通しているんじゃないか? そしてその大臣家だか大将家だかが検非違使別当の中納言ちゅうなごん殿をせっつき、別当卿が次官の左衛門佐さえもんのすけに調査を急がせ、佐殿は下役のおぬしを走り回らせているわけだ」

「そう、いかにもその通り」

 遠時が鼻をかんだ反故紙を懐にしまうのを横目で見ながら、政綱は冷ややかに言った。

公卿くぎょうの面子か」

「人狗には無縁だろうが、我々には、いや別当卿には、そういうものが大いに関わるのだ。さっさと昇進して、別当を辞めるつもりなんだろう。お偉い方はこれだから困る。わしのような官人は、どう望んでも抜け出せぬというのにな。こういう苦しさは、雲景殿はよくわかってくれるだろう?」

「わたしにはもう無縁だが、まぁ、わからんでもない。それにしても、急ぎの仕事なのにもかかわらず、真っ直ぐここに来なかったのはどうしてだ?」

「せめてものことだ。上役がおぬしらに相談することを望んでいるのは言うまでもないが、それでも元来はわしに任された一件ではある。自分の目で化け猫を探しておこうと思ったのだ」

 そう言って遠時はまた大きなくしゃみをした。今度は政綱が反故紙を投げて寄越した。

「そして風邪をひきかけた、と。心意気は中々だな。この分だとあんたはいつか、佐殿と呼ばれる日が来るかもしれんぞ」

 更に立て続けに三度くしゃみをした遠時は、背を向けて長々と鼻をかんだ。

「……優しいな政綱。だが慰めてくれんでもいい。祖父も父も検非違使判官で一生を終えたのでな。それよりも、どうだ? 手を貸してくれるか?」

 鼻を赤くして振り向いた遠時は、人狗と草匠を交互に見た。

 雲景が烏帽子を被り直し、問うような目を政綱に向けた。政綱は言った。

「よかろう。だが判官、おれに一日寄越せ。片づけるのは明日にしたい」

「こなたとしてもそれが望ましい。別当卿は、使庁立ち合いのもとで解決したいとお考えでな」

「なんだと、別当本人が検知に臨むのか? 邪魔にしかなるまい」

「いや、立ち会うのはその下の左衛門佐殿だ」

 政綱は鼻を鳴らした。

「それはまったく、ありがたい話だ」

 そう言ったきり、政綱は右手の壁に貼られた都の地図に見入っていた。雲景がいくつも細かい注記をつけ、地図にない小路を朱で書き加えたものだ。これ以上に精緻な地図は、おそらく盗賊の手元にしかないだろう。

 遠時が声をかけようとしたまさにその瞬間、政綱は急に立ち上がり、割り当てられた自室にさがった。

 雲景と遠時がそれを無言で見送ったが、待たせるというほどもない短い間を置いて、政綱は戸口に戻った。

「判官、その梅津辻子とやらに案内しろ」

 黒い袴を履き、柿渋を塗った笠を手に持っている。差した刀には、銀色の筋が入った黒い毛皮の尻鞘しざやをつけていた。撥水性に優れたこの毛皮の主は、カワウソに似たホウドラという妖。それも市場では<銀筋>と呼ばれる高級品だ。政綱が自分で退治したものを、河原で加工してもらった逸品だった。

「いまからか? 明日にしたいと自分で言ったろう?」

「そうだ。だが様子見に一日欲しかっただけだ。雨を嫌ったわけでも、左衛門佐とやらに気を遣ったわけでもない。さぁ急げ。時間はあまりないぞ」

「政綱よ、おぬしならそう身構えずともやり果せるだろう?」

「何事も油断は禁物だ。ほら、さっさとしろ」

 それだけ言うと政綱は振り返りもせずに階を下り、麻枝に声をかけて家を出た。遠時も何事かを口早に言いながら後を追い、慌ただしい足音だけを残して去った。

 後に残った雲景は、また手持ち無沙汰となり、仕方なく部屋の片づけをして人狗の帰りを待った。待つ間、一度雨はあがり、夕になると霧のように細かい雨が降り始めた。すっかり濡れそぼった政綱が帰宅した頃には、雲に隠れた陽は沈み、都は闇に包まれていた。

 夕食は、水で戻した干飯を芋と一緒に煮た粥に、炙った干し魚が副菜だった。粥は麻枝が、魚の面倒は雲景がみた。濁り酒を舐めつつ三人で味わい、政綱と雲景は翌朝に備えて早めに休んだ。

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