9話「犬鳴家は三大名家の一つである」

 ――それからというもの、幽香による鬼のようなスパルタ特訓は連日と続いていた。

 ある日の朝は心臓破りの坂を延々と上がっては下りを繰り返す運動をして、更には身を清める為なのか分からないが川に全身を浸けて十分間耐えるというものまであった。


 幽香曰く川に全身を浸ける特訓は夏にやった方が良いのだが、優司の場合は学園に入学するまでにある程度体を仕上げないといけないらしく、本来は六ヶ月掛かる特訓を凄く縮めて行っているとのこと。


 ……そして今日も今日とて彼は川に身を浸けている。


「ぐあぁっ! 寒いぞ! 幽香ぁぁあ!」


 余りの寒さと冷たさに優司は幽香の名を叫んで気合で耐え始める。

 既に川に浸かって三分ぐらいが経過しているだろう。もう足先は何の感覚も感じ取れない。


「頑張れ優司。僕には応援する事しか出来ないけど、これが終わったらホットココアを作ってあげよう!」


 川岸から幽香の励ます声が聞こえてくる。現在の時刻は大凡で六時半ぐらいだろう。

 この時間は犬の散歩をしているお姉さんや、ジョギングをしているお兄さん方に奇妙な視線を向けられる時間でもあるのだ。ある意味これが羞恥心を鍛える特訓ではない事を優司は祈る。

 

「ああ、寒い。本当にこの特訓に何の意味が……」


 薄着で川に浸かって一体何をしているのだろうと時折彼には思う時がある。

 しかし深くは考えないようにしている。

 きっとそれは考えてはいけない事だと本能的に悟ったからだ。


 ――それから特訓を初めて三週間目に突入すると、その時は突然訪れた。

 優司がいつも通りに幽香と共に起床して朝食を食べ終え特訓しに外に出ようとしたその時、

 

「あ、すみません。ここに”犬鳴優司”さんが居ると聞いて来たのですが……」


 急に横から話し掛けられ自分の名を告げられたのだ。

 

「えっ?」


 彼は突然の出来事にこんな反応しか出来なかった。見ればその男性は黒色のスーツを着ていて、黒色のバッグを右手に持っていた。

 しかし男性は妙にオドオドとしていて声に覇気がまるで感じられない。


「あっ! もしかして政府の方ですか?」


 優司とその男性が黙ったまま膠着していると、幽香が何かを思い出した顔で政府の方と言っていた。


「あっはい! そうです!」


 するとその政府の方と言われた男性は何度も高速で頷き始める。

 それはもう首と胴体が千切れるんじゃないと思うほどに。


「ではこちらでお待ち下さい。直ぐにとう……鳳二を呼んできます」

「あ、どうも……。お手数おかけします」


 そう言うと優司と政府の男性を客間に置いて幽香は部屋を出て行く。

 もちろん特訓は中止となり、彼と政府の男性は幽香に案内されて客間まで連れてこられた。


 だがこれは……些か気まずい雰囲気だ。優司決してはコミュ障ではないと思っていたが、この手のタイプには何を話し掛けたら良いのか分からないでいた。


「あ、あの。君が犬鳴優司君だよね?」


 男性は対面の椅子に座りながら声を掛けてくると再び優司の名を確認してきた。


「そうですけど……。何で俺の名を知っているんですか?」


 だが彼の知っている人物にこんな疲れ果てたような顔をしているリーマンのような男性の知り合いは居ない。

 一体何処で自分の名を……いや、そもそも政府の方とは何者なんだと優司は頭を捻って考える。


「それはその「失礼するよ」ひィ!」


 男性が何かを言うとするとタイミングが良いのか悪いのか客間の扉が開かれて、そこに鳳二の姿が確認出来た。しかも鳳二の隣には幽香もちゃんと居るようだ。


「初めまして。この寺の住職、御巫鳳二です。待たせてしまって申し訳ないね」


 鳳二が客間に入って気さくな感じで声を掛ける。


「いえ! そんな事はないですよ! むしろこちらが準備に手間取って遅れたぐらいですし……」


 男性は焦りながら椅子から立って何度もお辞儀をしていた。

 本当に見ていて忙しそうな人だと初対面ながらでも優司は思う。


 そして鳳二はそのまま優司の左隣の椅子へと座ると、幽香も流れるような動作で優司の右隣の椅子へと座っていた。つまり今の彼は御巫家に挟まれている状態だ。


 オセロなら色が変わってしまう場面だろう。

 だが今はそんな悠長な事を言っている雰囲気では無さそうだと優司は意識を整える。


「それで政府の方がここに来たと言う事は優司君の学園入学の件についてだよね?」

「はいそうです! あっ、まずはこちらをどうぞ……。すみません、いきなり名乗りもせずに」

 

 男性はそう言うとスーツの胸ポケットから名刺らしきカードを取り出して、それを優司達に渡してきた。

 

「これはこれは、ご提案にありがとうね。生憎私は持っていないけど”顔”で分かるよね?」


 鳳二が名刺を受け取ると妙な表情を浮かべて圧力を掛ける。


「はいっ! も、もちろんです!」


 圧力に屈したのか男性は背筋を伸ばすと額からは汗らしき雫が滲んでいた。

 鳳二のその言葉には一体どういう意味が含まてるいのだろか。

 

 優司としては少しばかり気になったりした。だがそれは今は関係ないことだろう。

 取り敢えず優司は受け取った名刺に視線を向けるとそこに書かれていたのは……


「悪霊対策省、地方本部所属のぬま 敬明たかあき……?」

「はい、沼敬明と申します。以後よろしくお願いします」


 その名刺に書かれている行政機関は一度も優司は聞いた事がなく、本当にそんな機関があるのだろうかと疑いを隠せなかった。しかしそこで彼は幽香が言っていた事を思い出す。

 前に学園の事を言っていた時と同様にこれも秘匿機関なのかも知れないと。


「あ、俺は犬鳴優司と言います。……と言っても沼さんは既に気付いてましたよね」

「ええ、犬鳴君は男性と聞いていましたので直ぐ分かりました。流石に隣のお嬢さんじゃない事ぐらい僕にも分かりますよ。ははっ」


 敬明が幽香の事を女性と認識している様な口振りで笑いながら言うと、優司の隣に座っている幽香は頬が若干引き攣ったように痙攣していた。


 やはり初見では幽香の性別は見抜けいないのだろう。女性より女性らしい男だからだ。

 だけど幽香は女性に間違われる事にストレスを抱いているのだろうか。


「申し訳ないのですが沼さん、僕の名前は御巫幽香と言い”男”です。以後お見知りおきを」


 幽香は席を立つと彼を睨み付けながら”男”という部分を強調して自己紹介を述べる。


「はい、よろし……えぇぇっ!? お、男の子!?」


 敬明は思考が停止したのか言葉が一瞬だけ言葉が停止していた。だが次の瞬間には驚きのあまり思いっきり後ろに仰け反っている様子だ。


「まあまあそんな驚かなくとも、ははっ。それより優司君の学園の件について話してくれないか?」


 鳳二が手早く話題を切り替えると話は学園についての事に変わった。

 当然だが優司もその事については凄く気になっている。


「あっはい……。取り敢えずは御巫さんの言う通りに第一高等学園に優司君の入学を取り付けました。と言うよりも第一高等学園の理事長が犬鳴という名を出した瞬間に二つ返事で了承してくれましたがね。流石はあの犬鳴の家名と言った所でしょうか」


 敬明はハンカチをポケットから取り出して額に滲んだ汗を拭きながら言うと、隣では鳳二が数回頷いていた。まるでその結果が分かっていたかのように。


「そうか。やっぱりあの理事長は変わらないねぇ。……だけどこれで土台は出来た。後は優司君、君次第なんだ。学園で悪霊に対する知識と戦い方を学び、必ずあの悪霊を見つけ出すんだよ」


 鳳二が顔を向けて力の篭った声で言ってくる。


「は、はいっ!」


 自然と気合の篭った声で優司も返事をしていた。

 しかし鳳二のその言い方だと第一高等学園の理事長とは知り合いなのだろうか。 

 

 ここでの会話で色々と優司には気になる事が一気に増えてしまったが、まずはこの質問をしてみる事にした。

 

「あ、あの。俺の苗字を出したら入学があっさり決まったみたいな感じになってますけど……。それって一体どういう事なんですか?」


 一番気になっている事を敬明に尋ねた。一体なぜ自分の苗字を出しだけでそんなにも簡単に入学が決定してしまうのかと。無論だが入試や面接すら受けていないと言うのにだ。


「ええ、驚くのも無理はありません。優司君……いや、犬鳴と言う名は我々の界隈では三大名家の一つとして絶大な力を持っているんです」

「三大名家……? な、なんですかそれ?」


 敬明の口から出てきた言葉に優司は困惑を隠せないでいる。

 我々の界隈という事は悪霊退治の事で有名だと言う事なのだろうか。

 確かに鳳二が犬鳴の家系は凄いと言っていたが……まさかそれの事なのだろうかと。


「三大名家、それは古くから続いていて現代まで残っている特殊な力を持った除霊師の家の事を言います。まず一つ目は”天草家”この天草家とは六道の瞳という特殊な動眼を使って悪霊を退治します。そして次に自らの体に霊を憑依させて悪霊を退治する”篠本家”があります。……最後に犬鳴家ですが、これは僕の口から言えません」


 敬明はそう言って三代名家というのが存在する事を話した。

 だが犬鳴家については何故教えてくれないのだろうか、何か話してはいけない特別な理由でも存在するのだろうか。


「どうして犬鳴家については教えてくれないんですか?」


 優司は至極当然の質問を敬明に尋ねると、彼は難しい顔をして口を開くと意外な答えを放ってきた。


「……誰も犬鳴家の力を知らないからなんです。ですが悪霊対策省には確かに昔から三大名家としての名が記された資料が残されているんです」


 そう、誰も犬鳴家の特殊な力を知らないと言うのだ。だけど悪霊対策省にはしっかりと三大名家としての名が記されていると言う。

 これは一体どういう事なのか、この数時間だけで優司の疑問は増えていくばかりである。


「鳳二さん、沼さんの言っている事は本当なんですか?」


 彼は直ぐ鳳二に顔を向けてその事実の確認を取ろうとした。


「ああ、本当だとも。そして私も犬鳴家の特殊な力は分からないんだ。君のお父さんは一度も私にその話をしてくれなかったからね……」


 だが鳳二は何処か寂しそうな表情でそう優司に言ってきたのだ。


「……あっ忘れていました。これが名古屋第一高等十字神道学園の入学案内の書類とその他諸々です。あと優司君には入学日までにこちらの入学予定者概要しおりというのに目を通して置いてください。色々と重要な事が書いてありますので」


 敬明が思い出したように椅子の横に置いてあったバッグから学園の書類一式を取り出すと、それを優司に手渡してきた。


「あっはい。どうもありがとうございます」

 

 意外にもその書類一式は結構の厚みがあって読み応えがありそうだが、難しい事が書いていなければ良いなと思う優司である。長い字と漢字の羅列を見ると眠くなってしまう体質なのだ。


「では以上で学園についての話は終わりとなります。次会う時は僕が幽香さんと優司くんを学園に送迎する時ですね。ははっ」

 

 どうやらこれで学園についての話は終わりとなるらしい。だけど敬明は二人が入学する時に学園まで送迎してくれるとの事だ。本当に何てサービス精神の高い行政機関なのだろうか。

 

 だけど今更だがこの青森県から愛知県までを毎日通うのは流石に難しいのではないだろうか。

 そんな事を優司は考えると唐突な閃が脳裏を過ぎった。

 

 恐らく敬明がずっと送迎してくれるのではないだろうかと。

 でなければこんな遠い場所に毎日通うのは無理だろう。どう考えてもだ。


「では僕はこれで失礼しますね。まだ臨時で入学案内を届けないといけない家が多数ありますので……」

「ああ、色々とすまないね。どれ、外まで見送ってあげるよ」


 そう言って敬明と鳳二が客間から出て行くと、その場には優司と幽香だけが取り残された。

 幽香は敬明に女性に見間違えられて未だに怒っているのか目つきは鋭いままだ。


「ねえ優司。僕ってそんなに女性に見えるか?」

「えっ……」


 この時、優司は直感的に悟った。この質問は答え方を違えたらきっと凄い面倒事に発展するだろうと。だがしかし……一体どうすれば良いのだろうか。

 男から女性に見えるなんて質問されたことが無いから返し方が分からないのだ。


「ねえってば優司、答えてよ」


 彼が思案して黙っていると幽香はどんどん顔を近づけて聞いてくる。

 だがここで優司が「そんな事はない。幽香はちゃんと男だ」と言ってもそれは嘘になってしまうだろう。


 何故なら誰がどうみても幽香は胸が平らな女性にしか見えないのだから。

 それに優司的に幼馴染に嘘をつくという行為は、良心が痛むからなるべく避けたい所なのだ。


「あの……その、俺は良いと思う……ぞ」


 悩んだ末に出した答えはこれだった。今の彼にはこの言葉しか選べない。

 それに男か女か何て些細なことだろう。

 どちらにせよ優司にとって幽香は大事な幼馴染には変わりないのだから。


「……ぷっ、はははっ! それじゃあ答えになってないぞ。だけど優司になら……って駄目だぁ! 僕は一体何を考えているんだ!?」


 幽香は彼の言葉を聞いて笑い出すと何かを言いかけた所で叫びながら自分の頭を両手で掴んで左右に振り出していた。


「えっ、急にどうした?」


 その突然の行動に優司は唖然としたが、幽香は頭を左右に振るのを止めると彼をじっと見てきてこう言い出した。


「優司、今の時間はお昼頃だけど別に昼食なくたって大丈夫だよね? だからさ、今から特訓しに行こうよ……。そう、三十種類の特訓フルコースを堪能しにさ」


 まるで幽香は現実逃避をしたいかのように、彼に昼食抜きからの特訓全部をお見舞いすると言ってきたのだ。

 優司は普通に嫌だと言いたかったが、とてもじゃないが今の彼を見て言えるほどは強くない。


 先程から幽香は死んだ魚の目をしてブツブツと何か独り言を言っているのだ。

 考えられる事としては恐らく先程幽香が叫んだあたりの事が関係しているだろう。


「……ああ、頼むから持ってくれよ俺の体」


 そう本能的に呟くと死んだ魚の目をした幽香に手を引かれて外へと連れ出されるのだった。

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