第19話 メリー・メアーの呼び声 7
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「俺は誰かに頼られると嬉しいし、『あの人』もそうだと勝手に思いこんできた。何も理解していなかったんだな」
水の中を進み、私たちは次の『水辺の馬の絵』まで辿り着いた。
熱帯の森のようなところにバスタブがある。
背景の森に、馬はだまし絵のように溶けこんでいた。
我々はだまし絵の中へ踏みこんだ。
〈回復の例だって存在する。それに、こういっては何だけれど、今回の件で自分の使命が分かった気がする。あなたの力になりたい。どうか指輪をうけとってほしい〉
男はそういって結婚指輪を『あの人』へさしだす。
育ちの良い実直そうな青年だった。
年齢はかなり若く見え、最近まで学生だったのではないかと思うほどだ。
あ、結婚していたのですねと私がいうと、カトウは死んだ目で「大学入学の時点で婚約していたそうだ。親の知り合いだと」という。
カトウの素敵な絶望顔もよかったが、『あの人』の様子もよく観察したかった。
が、私たちのところからでは『あの人』は後ろ姿しか見えなかった。
話の内容からして、すでに難病の宣告を受けた後のようである。
若者は病気を受け入れた上で、プロポーズしているのだ。
『あの人』がどう答えるのか、どんな態度でいるのか知りたかったが、まわりこんで覗こうとした瞬間、足元から濁った水が満ちて私達をだまし絵式に押し流してしまう。
水は排水口に吸いこまれていった。
視界が戻ると、場面は広い浴室に変わっていた。
湯気がたちこめていて、沈香に似た匂いがした。
どうやら新居のバスルームらしい。
『あの人』は夫人になったのだ。
バスタブに沈んでいるであろう『あの人』の姿は、シャワーカーテンの向こうに隠れて見えなかった。
プロポーズの日からどれくらい経ったのか、病がどれくらい進行したのかは分からない。
向こう側から聞こえてくる『あの人』の声は、やや迫力を失ったが澄んでいて、学生時代の特訓の成果――人の心を捉える、計算された抑揚は、まだ健在だった。
〈異変を感じたのはね、カヤックに乗っている時だった。最初はフォームが崩れているのかと、思ったのだけれど、検査してみたら歪んでるのは骨の方だったというわけ。日陰で育ったひまわりみたいに細くなって、曲がっていた〉
シャワーカーテンの前に、少女が一人控えて話し相手になっていた。
『あの人』の世話係に雇われたのだと想像できた。
〈最後はたぶん、胸に溜まった水で溺れてしまうでしょうって遠回しにいわれたわ。注意していて下さいね、って。でも不思議と怖くはないんですよ。梨子がいてくれるからかもしれませんね〉
いわれた女の子の方は、泣きそうな顔になっている。
〈奥様は、私の理想の女性です〉
心に浮かんでくる気持ちを言葉にしようと苦心した結果なのだろう、少女はようやくそれだけをいった。
〈ええ。私も私が理想――冗談ですよ〉
その冗談は少女には伝わらなかったようだ。
梨子さんは目を拭っている。
〈指輪を〉
『あの人』の手がシャワーカーテンの隙間から差し出された。
痩せてはいるが、歪んだ腕という訳ではなかった。少なくとも私から見える範囲では。
少女はいわれた通り、その指から結婚指輪をはずした。
さし出された手が、裏返しになって指輪を受け取った。
〈ありがとう梨子。これからも私をたすけてね〉
腕がひっこむと、シャワーカーテンの向こうで何かを沈める音がした。
私は近づいていってカーテンを開けた。
『あの人』の姿はなかった。
バスルームの壁は、いつのまにか鍼灸院の扉に変わっている。
カトウの務める鍼灸院だ。
施術室の壁いっぱいに黒馬の絵が描いてある。
振り返って確認すると、カトウは「いや」といった。「あれは俺らしい」
どうやら、現実でカトウとした会話が、悪夢の中では馬の絵にいれかわっているらしい。
『あの人』は馬の壁画へ向かって自身の状態を説明した。
〈ええ、卒業してすぐ……まだ動けないほどじゃないけど、これからあちこち歪みが出てくるみたい。ああ。そこまで慎重にならなくて平気ですよ。平気。あなた学生時代とちっとも変わっていない……〉
病のことを話していても『あの人』は、気後れした様子を見せなかった。今更だがプライドの高い人なのだ。
『あの人』は帽子、スカーフ、長袖、手袋といった衣服で素肌のほとんどをおおっている。
外見からでは病の進行具合はほぼ分からなかった。
痩せて見えることと、動きがなよやかに見える程度である。
施術したカトウ本人は、彼女の状態を正確に把握していることだろう。
「俺はこの時どんな顔をしていたんだろうな。わからんが昔と一緒で何の力にもなってやれなかったことは確かだ」
カトウは歩いて行って『あの人』の肩へふれた。
とたんに彼女の体が弾けた。
帽子も服も水に変わって四方に飛び散ってしまう。
「ああ……」
カトウは慌てて拾い集めようとする。
が、それで終わりではなかった。
鍼灸院のなかへ水が満ちていく。
ものすごい勢いで、渦ができる程だった。
我々は木の葉のように翻弄された。
とっさに腕を伸ばして何かを掴んだ。
その何かに引っ張られて我々は絵の中から出た。
「外か?」とカトウ。
すぐ側で馬の軽い嘶きが聞こえた。
我々がつかまっていたのは、あの黒馬の尻尾だった。
馬はもう逃げず、咥えた携帯端末も、あっさり離してしまう。
「逃げない……もしかして、記憶の絵はこれでおしまいという事なのか?」
そうかもしれない。
端末は電源が入った状態で、ロックの解除をしなくても内容が閲覧できるようになっていた。
私は、この中身はたぶん日記だとうと思っていたが、それを読めば、さらに『あの人』の心が覗けるはずだった。
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