第18話 メリー・メアーの呼び声 6



6


 さらに次の絵は『馬と裸体の絵』だった。

 黒い馬体と少女の裸体が対照的に描かれている。


 放課後の会議室に『あの人』がひとりでいた。

 窓の外は夜だ。彼女は鏡を出して微笑みかけたり、眉根をよせたり、謎めいた沈黙を演じたりと奇妙な儀式に熱中している。

 表情がわざとらしかったりすると、最初からやり直して、自然に見えるよう修正した。もちろん台詞の発音も調整する。

 そういうことを執拗に繰り返しているようだった。


 最初はスピーチの練習に見えた。

 が、台詞を聞くと日常での場面を想定した練習だとわかる。

 ときどき彼女は、ぼろぼろのメモ帳をめくって何かを参照した。どうやら中身は、部屋にあったノートと同じようなことが書かれているらしい。

 生徒達のデータから、学校内で起こりそうな事態を想定して、その予行演習しているようなのだった。

 生活上の問題から日常動作まで、ぜんぶ演技で乗り切ろうとしているのか? だとしたら素敵に無謀だ。

 いったい何時からこんな果ての無い努力をやり始めたのだろう?


 一段落つくと『あの人』は椅子へ座りこんで長い溜息をついた。

 蛍光灯の明かりに照らされた顔は、酷く疲れた人に見えた。

 そこへ、プリントが云々などといいながら、いがくり少年カトウが入ってきた。

 『あの人』はどんな気持ちがしただろう。

 面識のない私でさえ心配せずにはいられなかった。

 静かな校舎のなかに演習の声は、どの程度まで響くのだろう、いがぐりに聞こえはしなかったか。

 『あの人』は無言で去ろうとした。

 とっさの逃亡だったのだろうが、それがいけなかった。

 いがぐり少年にぶつかってしまう。

 衝撃でメモ帳が飛んだ。

 メモ帳はノートのための草稿だったのだろう。

 挟んでいた紙片が辺り一面に散らばった。

 メモの内容だけでも、恐ろしかっただろうが、その中には例の紙切れも混じっていた。


【油断しないこと。あとには痛々しい女が残るだけ】


 明らかに、いがぐり少年もそれを見た。

 見た上で拾うのを手伝おうとした。 

それより早く『あの人』は紙束をかき集めると、何もいわず会議室を飛び出していった。


 『あの人』は用具倉庫の影へ逃げこんで震えた。

 会議室で見たものをカトウが誰かに洩らせば、彼女の神秘性は崩れ去る。

 あとには痛々しい女が残るだけ。自分で書きつけたあの言葉が『あの人』の頭を巡ったことだろう。

 彼女はそのメモを握り潰した。

 さらに、丸めたその紙を子供みたいに噛み始めた。

 それでも感情を抑えきれなかったのだろう、ついには紙の塊を喉の奥へ押しこんで、飲み下してしまった。目に涙がにじんだ。


 逃げ去って行く『あの人』を見送りながら、現代のカトウへ向き直って、殺人の動機になってもおかしくないですよ、と私はいった。

「……いや、知らなかったんだ」

 鍼灸師カトウはそう弁明した。

 とはいえ散らばったメモの内容は見たはずだがと尋ねると素直に頷く。

「見た。他の生徒のことまで気にかけて偉いなと。努力家だなと。そう感動した記憶がある。マジックの文字のことは覚えてないな。意味が分からなかったんだろう。いや、今はわかってるぞ。人にバラすようなことじゃないそうだろ?」


 正気か? というのが私の感想だった。

 いがぐりは、あの素敵に地獄な人心掌握練習を見て、たんに努力家だと思ったらしい。いよいよな男だ。

 じゃあ、見たものは誰にも話さなかったのかと訊くと「話さなかった」とオウム返しにいう。

「彼女が努力家なのは前から知っていたからな。その内容までいちいち人にいったりはしない」


 しかし『あの人』からすれば、運動部のカトウとかなんとかいう、冴えないいがぐり頭が、原始人並みの鈍感さを持っているとは思いもしない。

 いや。阿呆だと知れわたっていたとして、ここまで阿呆だとは信じ切れるはずもない。

 猿に爆破スイッチを渡して安眠できる人間はいないだろう。

 『あの人』は眠れない日々を過ごしたに違いない。


 いがぐり少年が「日頃の尊敬をしたためた手紙」を『あの人』へ出したのは、その少し後だった。正気かこの男。

「知らなかったんだ」

 と再び鍼灸師カトウ。

 手紙は私ものぞき見したけれど、本当にただのファンレターだった。愛の告白とかでない。それが不気味。正気かこの男。

 嫌味なのか? 

 遠回しな脅しなのか? 

 『あの人』が懊悩したことは間違いない。

 手紙の返事は来なかった、とカトウはいっていたが、当たり前だろう。彼女が返事をするとしたら、それはいがぐりを刺し殺す決意をした時だけだ。


 カトウはさらに弁解して、

「いや、本当に。そういう手紙を書いたヤツは俺だけじゃなかったんだ。今思うと確かに変だが、当時あの人の周りではみんなそんな空気だったんだ」

 『あの人』に対しては、皆尊敬の念から慕っていたのだ、などと若干宗教じみたことをいう。

 だとすれば、『あの人』の日頃の努力は効果を上げていたというわけだ。

 だが、それが彼女の重荷になっているのは明らかだった。


 ともかく『あの人』がいがぐり少年を刺し殺さなかったのは、そうした背景があったのだろうし、いがぐりが日和って彼女に近づかなかったせいもある。

 一見信じがたいが、この件は、おたがい何もしないまま曖昧に消えていったようだ。


 我々はその後の経過も見た。

 手紙の件が曖昧になってからは『あの人』の学生生活は、つつがなく過ぎていった。

 しかし、見ていていくらか気になることもあった。

 彼女の周囲でやたらと揉め事が起こるのである。


 例えば、姉妹校との交流会の準備をしていた時などは、役割上の行き違いから生徒会の男子二人がつかみ合い寸前までいった。

 『あの人』は見事に二人をなだめ、説得し、誰も恥をかかないよう二人の仕事を振り直した。これも練習の成果だ。

 この手柄に周囲は『あの人』への尊敬をさらに深めた。

 カトウにも確認したが、似たようなことは過去にもあったらしい。

 彼女の従兄弟が自殺未遂を起こしたこともある。

 事件のたび『あの人』は問題を解決し、尊敬を集めている。


 先回りしていうが『あの人』の事件を仕向けているのではなかった。

 自作自演で事件を起こしているなら、秘密を漏らす者がかならずいて、すでに破綻していただろう。

 それにあの鬼気迫った演習も必要ない。事件の方を派手にすればいいだけだからだ。

 彼女は確かに演技はするが、それはあくまで問題を解決するためのものだった。

 たぶん『あの人』は、運命的に争いの付いてまわるタイプの人間なのだ。


 例えば画家のピカソは、その周囲で自殺者や精神病患者を少なくとも四人以上は出したという。

 ピカソという天才の側にいるだけで、人々は心の平穏を失ってしまうのだ。

 険難の相とでもいえばいいのだろうか。

 ちょうど、見事な果物のまわりで動物の諍いが絶えないように、こうした人のまわりでは、諍いや事件が起こり続けるのだった。

 そういえば『あの人』の家でも両親の関係は悪かった。


 もしかしたら『あの人』の知恵は、そうした環境のなかで磨かれたものだったのかもしれない。

 例えば、両親の争いを収めようと、優秀な娘を演じ、学校での揉め事に対応した結果、生徒たちの上に立たざるを得なくなった。そういうことなのかもしれない。

 だとしたら『あの人』は自分のもつ険難の運命を上手く乗りこなして来たといっていい。


 自分の運命を力に変えた、という意味で『あの人』は勝者だった。

 しかし、勝利の結果に得たはずの周囲の期待が、彼女をがんじがらめにした。

 険難と尊敬の循環から『あの人』は降りられなくなった。

 だからあのノートが必要になったのだ。『ただの痛々しい女』に成り下がってしまわないために。


 時に、『あの人』は水槽の側で朝まで過ごした。

 人生の証を沈めた水を抱いて、じっとしている。服を全部脱いでしまうこともあった。白い肌のせいで、大きな巻き貝が小さな海を抱いて死んでいるように見えた。

  また、うわごとのように呟いたりもした。

〈たすけて、だれか〉

 そう繰り返した。

 しかし実際に彼女を支えようとする者が現れたとしたら、『あの人』は拒んで逃げ去ってしまったことだろう。

 他者の温もりが『あの人』を安心させることはないのだ。

 いっそ失敗をして『痛々しい女』になれれば、この役から降りられたはずだったが、彼女は完璧なまま高校生活を終えてしまう。



 我々は美術館へ戻った。

 『馬と裸体の絵』は無数のヒビが入って、ほとんど判別不可能になっている。

 その前に立ち尽くしたままカトウがいった。

「学生時代の俺が『あの人』のしている事に気づいていたら、何かが変わっただろうか? あんな手紙を書く代わりに何かできただろうか?」

 無理でしょうねと私はいい「無理か」と彼もいった。

 運命と闘うために育てた理想の自分が、彼女自身を苦しめている。

 だが、その理想を守ろうとすることが、今や彼女の力となっていることも事実なのだ。


 『あの人』には持って生まれた険難の業がある。

 これからも彼女の周囲では争いが続くだろう。

 『痛々しい女』になってしまえば彼女はその運命と闘う力も失ってしまう。

 それに『馬と裸体の絵』の未来には難病という新たな試練が待ち受けているのだ。

 もし、病に自由を奪われたこの上に、意志の力まで失ったとしたら『あの人』は支えに運命と戦えばいいのだろう。

 何を望んで生きていくのだろう。

「行こう」とカトウは立ち上がった。「なんだか『あの人』に呼ばれているような気がするよ」

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