第17話 メリー・メアーの呼び声 5



5


 次に見つけたのは『踊る道化と馬の絵』だった。

 沢山の人間が描かれた絵画で、中央の踊る道化の他に、楽しそうな人々、隠れて悪事を働く人、明らかに争っている者、などなど、とにかく雑多な人間模様が描かれていて、グロテスクな描写は一切ないにもかかわらず、なんだか地獄絵のような印象があった。

 やはり中へ入ることができた。



〈問題はその先なんだよ。自ら問いを発すること。テストなんて出来て当たり前だよ〉

〈まだ高校生なのよ。それよりスカート廃止運動の件、会報でも取り上げてもらったのよ〉

〈僕は高校の頃から出来たけれどね〉


 まず声だけが聞こえた。

 どうやら『あの人』のご両親の会話らしい。

 少しすると、母親が『あの人』の部屋の前へ上がって来た。不自然に優しい猫なで声で、

〈あけて〉〈あけて〉〈あけて〉

 と三度立て続けに娘を呼んだ。

 母親はドアの隙間から差し出された娘の手を取ると、市長からの手紙を握らせた。あの本を五冊も出している優しい市長さんからの手紙だという。


〈お父さんにあんな事いわせておいてはだめよ。議員連盟のみなさんもあなたに期待してるっておっしゃってた。来週の集会に出席させて下さるって、そうおっしゃってた〉


 その日はカヌーの練習があると『あの人』はいったけれど、母親は泣き落としに近い言いやり方で、やはり三度同じ嘆願を繰り返した。開放されるためには『あの人』は頷くしかなかった。

 独りになると『あの人』は市長の手紙を破り捨てた。

 次いで、携帯端末に何か書きこんだ。

 そして水槽のところへ行くと、手の上からそれを滑り落とした。

 浅黄色の防水ケース泡とともに沈んでいく。

 部屋の灯りが消えた。


 真っ暗になり、また明るくなると、舞台は学校に変わっている。

 教室の風景だが『あの人』の部屋と同じ水槽が教壇の上に置いてあった。これも夢ではよくあることだ。端末を沈めた時の波が、まだ収まっていないままだった。


 どうやら放課後で、生徒達は文化祭の準備をしている。

 皆、思い思いにグループを作って、和気あいあいというには騒がしい、動物じみた陽気さで作業を行っていた。

 『あの人』は生徒達の中で起こる、揉め事を幾つか処理しなければならなかった。


 揉め事が片付いて少ししたとき、花飾りを作る集団のなかで、一人の女子生徒が何か芸人のモノマネのようなことをやり始めた。

 笑顔の目に、人の気を引きたいという気持ちが露骨に現れていた。

 その少女の願いとは裏腹に、周りの反応は冷ややかだった。表面上笑ってはいたが、仲間内で耳打ち合っては「一回ウケたからって必死すぎ」「痛々しいよね」などと馬鹿にしていた。

 止めるに止められないのか、女生徒は引きつった笑顔のままモノマネを繰り返している。哀しい風景だ。


 唯一いがぐり少年、つまり過去のカトウだけが「うまいな」などと本気で感心して、友達から苦笑されていた。

 その様子も『あの人』は見ていた。

 彼女は教壇のところへあるいていって、飾り花を水槽に沈めた。

 それから前と同じようにガラスに耳をあてる。

 その姿勢のまま『あの人』は片目でいがぐり少年を見つめ続けていた。

 生徒達の声が遠くなって、灯りが消えた。


 灯りがつく。

 再び『あの人』の部屋へ戻っていた。

 階下からはまだ両親の口論が聞こえていた。

 『あの人』は机に向かって学科の予習を済ませたところだった。

 もうかなり遅い時間だった。

 学科が終わると『あの人』は別の勉強をはじめた。

 友人や、後輩、教師達の人間関係、家の事情、彼らと話していて失敗したこと、その反省点などをノートに書き出し整理している。

 このちょっと異常なノートが数冊あった。確かに努力家だ、と私はつぶやいた。少しずつ『あの人』を包むヴェールが剥がれていくのを感じた。


 疲れが出たようで『あの人』は目をこすった。

 彼女は眠気を振り払おうとするような強い動作でノートを一枚破くと、太いマジックでこう書きつけた。

【油断しないこと。あとには痛々しい女が残るだけ】

 階下の声が激しくなった。

『あの人』は立ち上がって水槽を抱きしめにいった。

 腫れ上がったまぶたをガラスへ押しつけて冷やし、次に耳を当てた。

 また、水槽から水があふれはじめ、やがて部屋に満ちると、階下の声は聞こえなくなり、深海のように暗くなった。

 電源のついたままの携帯端末が光りながら宙を漂っている。するとまた闇の中を黒馬が近づいて来て、それを咥えていった。

 いつのまにか、我々はまた絵の外にいた。

「あの人は、もしかしたら病気になる前から悩みを抱えていたのかもしれないな」

 ヒビの入った絵を前に、カトウがそう呟いた。


 『あの人』の悪夢のなかへ踏みこんだことを後悔しているのだろうか?

 まだ続けますか出歯亀くんと私がいうと、その言葉は思いのほかカトウの心をえぐったようである。

「……いや。いや、言う通りだ。でもそれでもいい」

 しかし、彼は次の絵を求めて歩き始めた。

 私も後に続いた。

 もともとは、病気の『あの人』を元気づける材料が欲しかっただけなのだが、それが思いがけない葛藤を掘り当ててしまった形だ。

 私の方はわくわくしていたが、一応カトウには確認を取ってみた第だ。

 本人がいいというなら、次へ行こう。


 しかし『あの人』への最低限のフォローとして、悪夢というものは記憶を絵の具にした絵画のようなもので、夢の中で視たものが現実の記録だとは限りませんからねと念を押すことだけはしておいた。

 次に発見したのは『馬と裸体の絵』である。

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