第20話 メリー・メアーの呼び声 8



8


 どうやら、日記専用につかっている端末らしい。

 とにかく気持ちを吐き出したいという切実な欲望があったのだろうと、私は想像した。

 読んでも? 私もさすがに確認をする。


「俺は『あの人』の力になりたい。もしものときは脳手術の準備を頼む」

 カトウの意志は確かなようだった。

 まず私がざっと目を通してみた。

 そして、これはカトウには覚悟が必要だな、とすぐ分かった。

 もちろん、悪夢の中の日記が事実を示しているとは限らないが、或る意味は事実以上に真実である場合もある。

 隠してもしょうがないので、素直に見せてやる。

 日記の内容は、日付が入れ替わっていたり、文字化けしていたりした。だが読めるところだけをピックアップしても『あの人』の心を知るには充分だったろう。


 カトウが読んでいるあいだ、私は、黒馬によじ登ってたてがみを撫でたりした。こいつがこの悪夢の中でどんな役割を担っているのか、そのことを考えた。

 以下は日記の内容。



■■年■■月■■日

 母が仲間内でどう思われているかは知っていた。

 しかし、それをどう呼んでいいか名づけかねていた。

 今日それが分かった。母は「必死で痛々しい女」だ。一歩間違えれば私もああなる。


■■年■■月■■日

 見られた。彼の行動次第で私は私を失う。

 もちろんリカバーは可能だけれど、そこまでして守る意味がこの生活にあるのか。そう考えると、心が折れそうになる。でもやるしかない。他の生き方では「痛々しい女」になる他ないのだから。あの家族旅行の時みたいに。

 花湯藤治郎。死ねばいいのに。


■■年■■月■■日

 花湯藤治郎が手紙を渡してきた。

 何を考えているのか分からない。ああいう間延びした顔の男って、たいてい雖後i縺励>縺薙→繧。

 恐い。


■■年■■月■■日

 彼のことを調べてみたけれど、まったく目的が分からない。

 夢にまで出てきた。


■■年■■月■■日

 もしかして、ただのバカなのでは?

 本当に?


■■年■■月■■日

 本当だった。

 それにもしかしたら昔縺ゅ▲縺滄ヲ縺・ス迚・・……


■■年■■月■■日

 夢の中で一緒に↓豕・・?た◆

 彼は動物のように私を尊敬してくれる。

 素直で、優しく、愚かだ。みなが彼みたいに愚かならいいのに。


■■年■■月■■日

 少し恐れていたけれど、花湯藤治郎は何もいってはこなかった。彼の周囲には友人や後輩が集まっていた。

 こちらを見た彼が眩しそうな顔をしたので、満足だった。

 卒業して会うこともなくなるが、それがいい。見えないところで、ずっと飼い犬のように私を知ってくれる人。それが一番いい。


■■年■■月■■日

 私は結婚というものをするらしい。


■■年■■月■■日

 病。

 どう振る舞うべきか考えろ。

 まだ身体は動くが、いずれ逃げ場はなくなるのだ。


■■年■■月■■日

 研究も船も投げ出すことになってしまった。

 研究は趣味で続けられるとして、水へ入れないのは苦しい。

 本当に苦しい。


■■年■■月■■日

 相変わらず、私の関わるところでは争いが絶えない。いっそその中の誰かが私を刺し殺してくれればいいのに。

 一体なぜ彼らはそうしないのだろう?


■■年■■月■■日

 助手という名目で世話係を雇った。

 夫の知り合いの「訳ありの娘さん」。

 梨子。素直でかわいい。

 梨子。競争を好まないところもいい。

 人から疎まれているところもいい。

 そして馬鹿なところがいちばん素敵。分かった振りをしない、自分を馬鹿だと知っているので嘘もつかない。もっとも尊い愚かさだ。

 でも「奥様を尊敬しています」という。この子も、いつか私を見限る日が来るだろう。


■■年■■月■■日

 今朝、梨子が死んでいる夢を視た。本当に自分が殺したような気がして、あの子を早朝から呼びつけてしまった。こんな事をしていてはダメだ。


■■年■■月■■日

 痛い。

 痛い。


■■年■■月■■日

 待っていてくれた。私を待っていてくれた。

 花湯藤治郎は変わっていなかった。

 正直で素直で愚か。

 しかも思い出の中に生きていて、まだ私を動物のように慕ってくれている。私のことを「努力家」ですって。

 だが、気をつけなくてはならない。ばれてはいけない。近づきすぎてはならない。私が、他人をどんなに必要としているか、それを知られた時が最後だ。これまでの私の行為すべてが、見え透いた嘘になってしまう。

 縺・s縺・・?↑縺上↑繧後?縺?>縺・↓縲

 彼は私がいなくなっても、生きていけるだろう。正直で素直で愚かだから。


■■年■■月■■日

 病院で揉め事があった。

 私はそれをひと言ふた言の助言で解決してあげた。

 これでいい。これを続けていれば。


■■年■■月■■日

 病の進行を確認した。

 自殺は私のやるべき事ではない。自殺の原因を、皆は病以外にもあれこれ想像するだろう。もしその憶測が偶然にも真実を射貫くようなことがあったら? 耐えられない。

 殺してもらうのが一番いいように思える。


■■年■■月■■日

 梨子を教育しなくては。





 館内には水の音が響き続けている。

「――あの人は死のうとしているのか?」

 だとしても驚きませんねと私は答えた。

 ここまでの記録を見てきた者なら、皆そういうだろう。

 慌てて走り出そうとして、カトウは戸惑った。


「俺は……帰っていいんだろうか? 『あの人』のことは知れたが、十分ではない気がする。まさか〈ホール〉のことを話して『あの人』を説得するわけにもいかないだろう。ここで俺のやるべき事は本当にもうないんだろうか」

 私は無理に〈扉〉を潜らせた。

 カトウが〈ホール〉で何をしようと『あの人』にはなんの変化も起こらないだろう。

 結局『あの人』が救われるには『あの人』自身が変わるほかないのだ。

 現実へ戻る前、彼はこういった。


「とりあえず『あの人』の旦那と話してみる。『何いってんだコイツ』と思われるかもしれないが知ったことか。俺にはとりあえず、自分が痛々しい男になってみるくらいのことしかできそうにない。その上で『あの人』が安心して自分をさらけ出せるような環境をつくって行けたら良いと思う」

 それから、今回の礼といって自分の務めている鍼灸院の住所を教えてこようとしたが、私は断った。

 浮世の義理は御免被ります。

 カトウはちょっと笑って帰っていた。



 煩い男が帰って、館内には水音が際立った。

 それと隣にいる黒馬の心臓の音。

 馬を連れて、人工池目指して歩きだしながら、カトウは成功するだろうかと、考えた。

 正直なところ『あの人』の心を変えられる者がいるとは思えなかった。

 『あの人』は誰よりも強い。

 どんな試練にも耐えて折れることがなかった。

 それ故に、誰も『あの人』の生き方を曲げることはできないだろう。

 そんな自分を『あの人』は自分で終わらせようとしているのだ。


 馬を連れて戻ると、人工池からは水が溢れて、カフェのテーブルやオーディオ類の足もとを浸していた。

 睡蓮もさらに生い茂っている。

 馬とともに、深みにはまらないよう気をつけて近づき、椅子の一つに腰掛けた。


〈……たすけて……さあ……来て〉


 睡蓮の花から、幽かに呼び声が聞こえる。

 水の下にいる人の声を、花がスピーカのように震えて発音しているのだ。

 か細い声に覚えがある。

 馬の絵の中で聞いた声だ。


 やっと二人になれましたね。

 蓮の下に潜んでいるであろう『あの人』へ私は呼びかけた。

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