第14話 メリー・メアーの呼び声 2



2


「お前、その体大丈夫か? おぶってやろうか?」

 付き合わせておきながら、カトウはこういう事を平気でいう。

 もし私の気が狂って、あなたにオンブをねだるようなことがあったらですね、と私は答えた。

 その時は頭から落として殺して刺して下さいよ。

「嫌なのはわかったが、そんな言い方あるか」


 帰るための〈扉〉に関していうなら、それはカフェからそう離れていない、ルネッサンス絵画の区間であっさり見つかった。


 それは、ガラスの嵌まったどこにでもあるような引き戸で、目の高さに鍼灸院の名前が印字されている。

 〈扉〉はカトウのよく知っている形だった。

「なんで俺の職場?」

 この男は鍼灸院に勤めているのだ。

 これまでも、カトウが悪夢を貰ってくるのは、大抵、施術した客からだった。

 ともかく出口は見つかった。おめでとうカトウ。さようならカトウ。帰りましょう。ほら早く。と背中を押すのだが、私はぐねぐねだし、馬のようにでかい尻はびくともしない。

 〈扉〉の下に携帯端末が落ちていて、カトウはそれを見つめているようだった。


 明るい青色の防水ケースに収まっていて、この男が使うものには見えない。

 普通なら落とし物と思うところだが、〈ホール〉でそれはまず有り得ない。それに何だかわざとらしいような感じもした。

「これはあの人の――」

 カトウが端末を拾おうと屈んだとき、装飾具のふれあう音と、濡れた蹄の音が近づいて来た。

 先ほど見た黒馬だった。

 競走馬にも類を見ない極めて逞しい馬で、それが側をかすめていったとき、私は湯のような馬の体温を感じたほどだ。

 伸ばした手より一瞬早く、馬が端末を咥えた。

 そしてそのまま水を蹴って館内の闇の中へ消えて行った。


「おい、返――」

 弾かれたカトウの方は、足を滑らせて転んだ。

 いつの間にか床が水浸しになっていたのだ。

 肩から落ちた。角氷を押し砕いたような音。

 肩の痛みより、カトウは奪われた物の方を気にした。

「――あの浅黄色の防水ケース。古い型だし間違いない。あの人の物だ。持って行かれた」

 カトウは黒馬を追うつもりらしい。

 歩き出すと、少ししてから「痛いな」と今更ながら顔をしかめた。

 ために死指で押してみると、割れた肩甲骨が頼りなく動いた。


 そこまでして追おうとするのは、携帯端末が知り合いの持ち物だからだった。

 カトウは、その人物のことを『あの人』と繰り返し呼んだ。

「たぶん、あれはあの人の悪夢の一部なんだ」

 つまり今回は、その人から悪夢をもらって来たと確信しているらしい。


 とはいえ無意味なことだと私は教えてやった。

 〈ホール〉の物質は何であろうと現実世界へ持ち帰ることはできない。それは夢と同じ事だ。

 それとも端末の内容を見たいのだろうか。

 他人の端末のデータを?

「――そうだ、見る。必要ならな」

 カトウは恥じ入る様子を見せたが、やがてそういった。そうですか。


 私はあの馬がどこから来たのか気になった。

 カトウを無視して馬の飛び出してきた方向を辿って行くと、すぐ見慣れない絵画にぶつかった。

 このフロアはバロック絵画やルネッサンス期の作品が展示される区間になっている。

 だが、発見した絵は、その法則から外れていた。

 それに私のこの美術館を過去に何周も回っていて、作品のことはよく記憶しているのだ。

 それは目録にない絵だった。

 絵は、十歳前後と思われる少女の肖像画だった。

 少女の背景に妙な空白があって、それがちょうど動物パズルのピースを抜いたみたいに、馬の横姿そっくりに見えるのだった。

 あの馬がここから出てきた、という想像も可能だった。〈ホール〉では絵画から馬が飛び出てくることも有り得る。


 その絵の表面に大きな亀裂が走っていて、水はそこから滲み出して、地面を濡らしているようだった。

 注意しながら絵に触れてみたが、何も起こらなかった。

 その時、肖像画の唇が動いた、ような気がした。

 何か短い単語、名前か、何か要件を呟いたような具合だったが、その呼び声はこちらまでは聞こえてこなかった。


 少女はほとんど無表情といっていい顔でこちらを向いている。

 そしてこれがルネッサンス絵画のなかで浮いている点なのだが、明らかに近代的な服装をしていた。

 そして、この時点で想像はしていたが、カトウの知っている人物だった。

「ああ『あの人』だ」とカトウは呟いた。面影がある」

 やはりこの絵も、黒馬や端末と同様『あの人』とやらの悪夢らしい。

 我々は改めて肖像画の少女を眺めた。

「いったい、さっきは何といったんだろう……何か伝えたいことがあるのか? やはり馬を追わんと。それと絵だな」

 肩を庇うようにしてカトウは歩き始めた。


 それほど気になるなら『あの人』とやらに直接聞けば良いだけのように私には思えた。

 そういってやると、カトウはうつむいて、

「『あの人』は悩みを人に打ち明けるような人ではないんだ。悪夢のなかにはその人の悩みや欲望が含まれているんだろう? ここでその内容を調べれば『あの人』の求めている物が何かわかるかもしれない。もちろん、ここで知った秘密は誰にもいわない。墓の下まで持って行くつもりだ」

 それにしたって、回りくどい方法に思えた。そのうえ強引だ。

 私がそういうと、カトウは答えて「難病なんだ」と呟いた。「治るかどうかも分からない。俺にできるのは痛みを和らげてやることくらいだ」


 ゴーハム病。

 俗に「骨の溶ける病」として認識される難病らしい。

 リンパに関わる病気なのだが、現在のところ原因は不明。

 文字通り、骨組織に融解がおこり、骨折を引き起こすこともある。また胸水などによって窒息を起してしまう事例もあるらしい。


 鍼灸院で治療できるわけもないが、藁にもすがる思いだったのだろう。

 症状として、骨融解による神経の異常や疼痛があるというから、その苦痛を和らげるための処置を求めたようだった。

 薬は多用するべきではないし、マッサージでは骨折の恐れがある。それで鍼灸院だった。

 そこで偶然にもカトウと再会した。元々は高校生時代の知り合いなのだ。

 カトウは病について語ると、私に頭を下げた。


「俺はこの美術館にも〈ホール〉の法則にも詳しくない。頼む。手伝ってくれないか。『あの人』の力になりたいんだ」

 もちろん。もちろん嫌です。

 『あの人』に対してもカトウに対しても同情の気持ちはない。

 ただ、難病に倒れた人、いずれ動けなくなるだろう人の見る悪夢とはどんなものだろうか?

 そして、その人はどんな欲求を持って、それが開放されるとき、どんな顔を見せるのだろう? それには興味があった。

 この〈ホール〉でなら、それらは、まさしく夢の輝きとなって私の前に現れてくれるはずだった。


「そうか、無理にとはいえないな……」

 カトウはひとりで歩きだした。

 肩を庇い、水に足を取られ、不安定な歩みだった。

 歩くのが辛くなったらいって下さいね。そういって私はこの男の隣に並んだ。

 振り返ったカトウの顔面に純粋な喜びの表情が溢れていた。

「負ぶってくれるのか?」

 いや。頭から落としてトドメを刺す。

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