メリー・メアーの呼び声

第13話 メリー・メアーの呼び声 1


 かつてある心理学者がこういった。

「夢とは、脳の小部屋で演じられる無意識の舞踏である」と。

 対して〈ホール〉は外だ。


 我々は悪夢とともに脳髄から出て〈ホール〉で踊るのだ。



1


 無人の美術館を散策した。

 館内は貝殻のなかのように静かだ。

 システィーナホールで素晴らしいオーディオセットをみつけた。環境展示区間では、歌手のコンサートや歌舞伎が上演されるとのことだから、そうした催しものに使うものなのだろう。

 私は、今回のバカンスを音楽鑑賞についやすことに決めた。


 館内のカフェからは睡蓮の浮いた池が眺められた。

 モネの絵をモチーフにした人造池で、睡蓮はまさに盛りだった。

 私は眺めのいいテーブルを選ぶと飲み物、カットした果物、美術館のパンフレットなどを並べた。


 音楽機材と一緒に、レコードも見つけていた。

 タイトルは文字化けして読めず、表紙の指揮者も、顔が焼け焦げたように潰れているが、内容は俗に「第九」と呼ばれる、有名なあの曲だった。〈ホール〉の世界独特のノイズが、素敵に利いていての好みにピッタリだ。


 第九の演奏が、池の睡蓮を震わせた。

 本来は浅い池のはずだが、この日は異様に睡蓮が繁殖していて水が見えないほどだ。水生植物の匂いが強い。

 試しにカフェテラスの椅子をひとつ、投げこんでみたが、音もなく沈んで、二度と浮き上がってこなかった。底なしらしい。

 そういうこともある。これも〈ホール〉だ。


 自分の位置へ音がもっとも良く響くよう、音響設備は念入りに配置しておいた。

 〈ホール〉は無人無辺の世界だから、音量の心配は皆無だ。鼓膜を破っても文句をいう者はいない。

 さらに、期待したとおり〈ホール〉製のオーディオシステムは、際限なくボリュームが上がり、素敵に殺人的な音量で「第九」を奏でた。


 テラスの支柱がビリビリと震える。

 テーブルや椅子たちが地団駄踏み始める。

 テーブルの果物が液状化する。館内のどこかでグラスかなにかの割れる音がした。

 文字化け楽団の演奏が、直接体にぶつかってくる。

 皮膚を波打たせ、骨を溶かし、内臓を揺らした。

 文字化け歌唱団の歌も負けてはいない。

 鼓膜を貫通して脳髄を酩酊させてくれる。

 蕩けた脳中で、焦げた顔の指揮者が狂気的な仕草でタクトを降るのが見えた。

 素敵だ。

 眼球のなかで毛細血管が順繰りに弾け、拍手そっくりの音を立てる。

 人造池の睡蓮が虫の死骸みたいに散り始めた。私の体もぐずぐずになってデッキチェアに沈みこんでいった。


 このままぐずぐずにして至福の不定形になるまで、この美しい災害にひたっていたかったが、曲の半分のところで邪魔が入った。

 客人が〈ホール〉へやって来たのだ。

 それも好ましくないやつだった。

「やめろやめろ、耳が壊れる」

 そいつは、館内のカフェの方から飛びこんできて、演奏を止めてしまった。

 無駄に大きな体をしたダミ声の男で、私はこの声を聞いた時点で、今回のバカンスの失敗をすでに予感していた。


「お前は、またこんな遊びを――」

 そこまでいいかけて、男は館内のトイレの方へ転がりこみ、どうやら吐瀉しはじめた。音で渦巻き管をやられたらしい。

 その時私は、館内の暗がりのなかを、古代生物のように巨大な影がゆっくり横切っていくのを見た。


 ルーベンスの絵にでも出てきそうな、装飾された黒馬で、どうやら、今回あの男が「感染もら」ってきた悪夢の一部らしい。あの様子からして男本人はまだ黒馬の存在に気づかずにいるようだった。

 男の名前は花湯カトウなにがし

 名前は忘れた。

 ともかく、他人の悪夢を背負って〈ホール〉へ入ってくるという体質を持つ、大変迷惑な男だ。


 カトウが吐いているあいだ、私は睡蓮の池を観察した。

 花はまだ散りきらずに残っていて、水面を埋め尽くした葉が囁くように揺れていた。

 私の渦巻き管も調子が戻った。

 考えた結果、ボリュームにしぼって演奏を再会させた。

 カトウを追い返してから、ここへ戻って音楽鑑賞を再開しようと考えた。

 私は立って、館内の方へべしゃべしゃ歩いて行った。

 体は高周波に粉砕されてぐねぐねぶよぶよのままだが、慣れているので問題は無い。

 〈ホール〉とはそういうものだ。


 先ほどの馬の姿はない。

 展示フロアの方へ行ったのだろう。

 まだふらふらのカトウがトイレから出てくると、私は一応の抵抗として、どうも。「ビコツ」とでもお呼び下さい。初めまして。と挨拶した。


「今回はその名前と姿でいくのか? シラを切っても俺には無駄だぞ。こんなイカれた遊びをするのはお前くらいだからな」

 とカトウはいい、挨拶も済んだしそろそろ帰ったらどうですかと私はいった。

「露骨に追い返そうとするな。いわれなくても帰るわ、こんなところ。帰りの〈扉〉を探さんとな。ここは橋のとこの美術館か」

 慣れた様子で、カトウは当たりを見回している。

 カトウと〈ホール〉で顔を合わるのは、もう何度目だろうか? この男は毎回違う相手から悪夢を感染って来、そのたびでかい体にがさつな行動、そのダミ声で、私の静かで孤独なバカンスを台無しにしていく。


 〈ホール〉から現実世界へ帰るには〈扉〉を探さなくてはならないが、カトウは毎回違う悪夢を感染ってくるため、毎回違う〈扉〉を探さなければならなかった。

 一度など猫の瞳が〈扉〉になっていて、捕まえるのにたいそう苦労した。

 そして繰り返すが、この男は体のでかい、がさつな原始人なので、この男が〈扉〉を探すあいだ〈ホール〉の静寂は完全に破られてしまい、私の「癒し」も台無しということになってしまうのだった。


 私は〈ホール〉にやって来た客人の変化、特に心を解放する瞬間を見るが好きだ。

 がカトウはがさつすぎて、そのカタルシスがまったくないのだ。堕落させて楽しむというのなら話は別だが。

「そんな顔せんでも面倒はかけない。少しだけ煩くするが、それだけ了承してくれ。ああ、まだふらふらする……痛い! ああ、テーブルがメチャクチャだ……ちょっと直そう。あ、だめだ。どうしたらいい? ちょっと見てくれ、これ痛いッ! うわああ。足元がべちゃべちゃだ。おい? おい、お前の体もぐにゃぐにゃじゃないか、これお前!」

 こうなのだ。けっきょく手伝って終わらせてしまうしか、バカンスを取り戻すすべはない。



 カフェでは絞った音で素晴らしい演奏が続いている。「第九の歌詞」として有名な「歓喜の歌」にこのような一節がある。


【歓喜よ 美しき神々の光よ】

【エリュシオン(楽園)の乙女よ】


 私にとっては、この〈ホール〉こそが楽園だった。

 悪夢に侵される危険と引き換えに、人はこの無人無辺の楽園、〈ホール〉と入って来ることが叶う。

 ここを畏れる者もいるが、心を解き放ちさえすれば、〈ホール〉は大いなる癒やしを与えてくれる。

 危険というのなら現実の世界だって道路を歩くにも命がけではないか。


 私はそのような考えのもとで〈ホール〉を楽しみえ、実際に癒やされてきた。

 だが、何事にも例外は存在する。

 〈ホール〉が、というより「癒やし」そのものを拒む人間も存在するのだ。

 結論からいうと、今回、カトウの持ってきた悪夢に、私の信念は敗北することになる。

 これから語るのはそうした話だ。

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