第15話 メリー・メアーの呼び声 3



3


 夢には、その人の欲望や不安が表れるものだ。

 館内に散らばっているであろう夢の欠片を見つけてやれば、そこから『あの人』の助けになる「何か」が見つかるかもしれない。我々の目的はそれだ。

 要するに『あの人』の夢をのぞき見してやろうというのだ。



 しかし、あれは立派な馬だった。

 筋肉の熱と躍動が素晴らしい。

 冷たい装飾具の輝きも、その対比として完璧だ。

 捕まえることができたら一枚の絵にして飾っておきたいものだ。捕まえることができたら、だが。


 とりあえず、我々は馬を追って美術館をさ迷った。

 やがて悪夢は館内に満ちるかもしれないが、今はとりあえず馬だ。


 黒馬にはたびたび遭遇したが、捕獲はすべて失敗していた。

「今か? 今か? 来るなコレ、来るなあ、今!」

 走ってくる黒馬へ、カトウが追いすがる。

 尻尾をつかめそうなところで、届かず「あばばば」みたいな情けない悲鳴を上げて、水浸しの床を転がった。

 馬はその間に走り去ってしまう。


 私はまったく参加しなかったが、歩くだけでも蹴り上げた水でお尻がびしょびしょだ。

 館内はどこも、くるぶしまで沈むほど浸水していて、歩くだけでも一苦労だった。

 丘をくりぬくようにして建てられた美術館だから、水は丘のあちこちに滝をつくっていることだろう。


 人は腰までの高さの水流で、ほぼ歩けなくなる。

 一方馬は頭の沈むような深さの川でも平気で横断するという。もともとパワーが問題にならないほど違うのだ。

 それに加えてあの黒馬は蹄が普通の馬とは違うのか、この濡れた滑りやすい足場でも、悠々と駆けていくのだった。

 これは無理だなと私は考えた。

 カトウはヤケになったのか、水の中に座りこんでいる。


「口に生臭い水が入った……微妙に甘いのがなんか嫌だ……」

 開高健の本で、アマゾン河の水も流れによっては甘いところがあるといっていたな。などと考えながら、私は下へ向かうエスカレーターへ乗った。

 この水の中でも問題なく動いていて、乗っていると急流を下っていくみたいで面白かった。

 大儀そうに起き上がったカトウもついて来た。

「どうするんだ?」

 これは馬をデタラメに追ってもしょうがない。

 さっきのような絵画がないか探してみようと私は考えを述べた。

「それを先に提案してほしかった」とカトウ。



 ミュージアムショップで館内マップと、作品録を入手した。

 この美術館は展示フロアだけで五階もあって、たいそう広い。

 パンフレットによると、展示物の数は約千点に及び、鑑賞ルートの総距離は約四キロメートルにもなるという 。

 それに「システィーナ礼拝堂」や「スクロヴェーニ礼拝堂」「秘儀の間」といった、建造物の原寸大レプリカまであって、一つ一つ精査していくとなると、一日がかりの仕事になるだろう。


 とはいえポンペイレッドの美しい「秘儀の間」は私もお気に入りだったし、ミレイの「オフィーリア」をじっくり、指でなぞるようにして鑑賞したいという欲望が湧いてきてもいた。館内に溢れる水も演出だと思えば悪くない。

 これが一人ならさぞ楽しかったろうに、カトウが一緒では。

 早く終わらせて自分の趣味のために時間を使いたい。

 早く終わらせようと思って歩き出すと、カトウがついて来ていない。

「ほう……これはいいものだ……」

 ぼんくらはショップの土産物コーナーで、その「ペガっち」に夢中だった。ペガサスをモチーフにしたここのマスコットキャラだ。

「かわいい。おい。馬だけどこいつは悪夢に関係ないかな? でもいちおう持っていくか? いいよな。かわいい」


 我々は馬を追っていて『あの人』の肖像画にも、馬の痕跡があった。確かに確かめてみる価値はありますね。

 そういって、ほんの試しに、まったく悪意なく、私は「ペガっちハンカチ」を抓み左右に引き裂いてやった。違ったようですね。悪夢なら怖そうとしたらリアクションがあったでしょう。さっさと行きますよぼんくら。

 カトウは哀しい顔でついて来た。


 館内は迷路のように入り組んでいて、観賞用の順路を外れると、作品を見落としてしまう危険があった。

 我々はパンフレットに記されたとおりの順番で、下の階から順に作品を巡っていくことにした。

 ときどき、足もとを睡蓮の花が流れていった。

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