4 もふもふにふぉーりんらぶ


 夏の最盛期を超えたのか、だんだん涼しくなってきた。

 過ごしやすくなるのは、いいことである。


 しかし、俺にはひとつの問題があった。

 夏休みが少しずつ終わりに近づいていることでも、夏休み明けに控えた課題の提出でもない。


 もふもふが恋しいのである。


 俺はふわふわの白い毛玉を飼っていたため、もふもふには一切困らない生活を送っていた。


 勝手にもふもふの方からひざに乗ってくるし、すりすりしてくるし。

 撫でれば、うれしそうに鳴くのだ。


 だが、今は違う。

 ひざの上に乗ってきたり、すりすりしてきたり、撫でるとうれしそうに鳴く生きものはいるが。


 もふもふは存在しないのだ。


 いくら瀬名が人間の姿になったとはいえ、もふもふは存在する。そう、しっぽだ。

 だが、しっぽに触れるのが躊躇われる、明確な理由があった。


――しっぽは、生涯添い遂げる人にしか触らせてはいけないんですよ?


 ……しっぽってなんなんだ?

 いぬにしか分からない、特別な部位らしい。恐らく人間で言うと――


 いやいや、そちらの方向に考えても仕方がない。

 とにかく、大事なところらしいのだ。


 瀬名のしっぽのもふもふを堪能したら、また「いやらしい手つきで触ってる」とか言われてしまうだろう。


――瀬名は先輩のお嫁さんになるんですから、そういうのも仕方ないかなって……。


 しっぽに触るたびに、そんなことを思われるのは御免だ。

 ということで、俺は今もふもふに飢えていた。


「先輩、抱っこしてくださいっ」

 俺の気も知らずに、件のもふもふは無邪気にくっついてくる。


 当然拒む理由などないので、彼女をぎゅっと抱きしめる。

 じっとりとした体温がじかに伝わってきた。


 頭を撫でるついでに、軽くいぬ耳に触れてみる。もふもふしているが、すぐに耳の少し硬い感触に届く。


「わうー」

 うれしそうにする瀬名。そして、左右に揺れるしっぽ。


「…………」

 毛並みのふわふわっぷりが、目で見て分かるほど伝わってくる。


 ぐ……もふもふがこんなに凶悪だとは思わなかった。


 だいいち、白い毛玉が毎日のように向こうからくっついてくるから、もふもふに馴らされてしまったのだ。

 いきなりなくなるなんてご無体なことがあるだろうか。


 そもそも、しっぽのブラッシングをしないと、毛が絡まって後で大変なことになるだろう。

 自分で自分のしっぽを梳かすなんてむずかしいだろうし、どうするんだ?


 事こうなっては、覚悟を決めるしかない。

 人間の利点は対話ができることなのだし。


「……あのさ、瀬名」

「わう?」


「瀬名は知ってると思うけど、俺はマルチーズのことが大好きなんだ」

「な、なんですか、急に……恥ずかしいです」

 赤くなっている。


「だから当然、マルチーズの毛並みの触り心地も大好きだ。いつもなでなでしてただろ?」

「わう! もっと好きなだけなでなでしていいです」


「せ、瀬名は今人間の姿じゃないか。なでなではいくらでもするけど、もふもふは足りないよ」

「わう……」


「今の瀬名は、もふもふといえばしっぽか、精々いぬ耳くらいのものだろ? 前は毎日もふりまくっていたから、先輩は正直もふもふ不足だよ」


「も、もふもふ不足……」

 わうわうな女の子は、神妙な顔でうなずく。何かが伝わったらしい。


「もふもふ不足を解消するには、もふもふを撫でるしかないだろ?」

「確かにそうです」


「先輩が瀬名のしっぽを撫でたがるのは、もふもふ不足を解消するためなんだ」

「そんな理由が……」


「そ、その、だから、いやらしい気持ちでしっぽに触ってたわけじゃない」

 ぐ……なんで一々こんな気恥ずかしいことを弁明しないといけないんだ?


「いぬの間で、しっぽがどんな部位になってるのかはよく分からないけど…人間にとっては、もふもふでかわいいなっていうだけの場所なんだよ」


「わ、わう……」

 瀬名は真っ赤になってうつむく。


「じゃ、じゃあ……」

 恐る恐る、しっぽを向けてくる瀬名。

「もふもふ、していいです」

 その頬は、確かに朱色に染まっていた。


 まだ躊躇は残るが、本人に納得してもらえた以上、やめる理由はない。

 俺は瀬名のしっぽに触れた。


 白い被毛はなめらかな感触がした。

 撫で慣れた、それでいて至上の手触りのもふもふだ。


「わ、わう……」

 小さく声を漏らす瀬名。わずかにしっぽがぴくりと反応する。


 な、なんだ? たかだかしっぽを撫でる程度のことで、この感覚は。

 とてもやましいことをしている気分だ。


「……先輩、ほかのいぬのしっぽは触っちゃダメですよ?」

「だ、だからっ、いやらしい意味で触ってるわけじゃないって!」




 * *




 こうしてもふもふ問題は解消された。

 ……何かを失った気もするが。


 ちゃぶ台に乗せたノートパソコンに向かってレポートを書いていると、瀬名が寄ってくる。


「わうー」

 彼女は俺に向かい合う形で、ひざに乗ってきた。そして、ぽふっと抱きついてくる。本当に甘えん坊だ。


 俺は、タイピングの指を止めた。

 夏休みの課題レポートとはいえ、提出日まで余裕がある。


「瀬名、今日は遠くの大きな公園にでも遊びに行こうか。アスレチックがいっぱいあって、きっと楽しいぞ」

 彼女の頭を撫でながら、そう話す。


「わう! 先輩は『大学』に集中しててください。瀬名は大丈夫です」

「我慢しなくてもいいんだぞ? 締切までまだ先だし」


「…………」

 いつもきらきらした目を向けてくる女の子は、どうしてだかうつむいた。


「どうしたんだ?」

「先輩は、瀬名にいつも優しくしてくれます。瀬名に構ってくれます。でも、瀬名は何もお返しができてません」


「お返しなんて……瀬名がにっこりなら、先輩はそれで充分だよ」

「……瀬名、こわいです。これ以上先輩を好きになるのが」


 こわい?

 どうして?

 そりゃ瀬名に嫌われたら困るが、好かれる分には何も問題はない。


「瀬名、もっと先輩が大好きになったら、先輩のことしか考えられなくなります。先輩がいないと生きていけなくなります。瀬名、それでもいいですか?」


 彼女が何を心配しているのか、分からなかった。


「ああ、全然大丈夫だよ。瀬名は何も心配しなくていいんだ」

「わう……」

 瀬名は抱きついてくる。


 俺は、やはり彼女の頭を撫でた。

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