第2章 いぬ・奮闘篇

1〈mof〉 いぬと神さま


扉絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330651130006013



 これは、今より少し前、瀬名がいぬの姿だった頃の話です。




 * *




 いぬの間で、ひとつの噂がありました。

 それは、いぬの神さまの噂。

 神さまは願いごとをなんでも叶えてくれるという噂。


 その日、瀬名はこっそり家を抜け出して、遠出します。先輩が帰ってくるまでに家に戻れば、きっとバレません。


 肉球の足を動かして、山を登ります。

 小さな山ですが、その分舗装されておらず、土に足を取られて歩きにくいです。


 瀬名は、単に山登りしに来たのではありません。

 この山――犬耳山は、いぬの神さまが住まう場所だという伝説があるのです。


 山の中腹辺りに、しめ縄が巻かれた大きな石が鎮座していました。

 そこに、食べるのを我慢して家から持ってきたおやつのほねまんまをお供えします。


「わう、きゃうっ! きゃうん!」

 神さま出てきて、とマルチーズの鳴き声が、辺りに響きます。


 今日は、神さまに願いごとを叶えてもらうために来ました。

 瀬名の願いごと。それはもちろん、先輩のお嫁さんになることです。


 まぶしい光が、突然迸ります。

「わうっ」


 思わず目をつむった瀬名が再び目を開けたとき、そこには神さまがいました。


 ずてーんとした土佐犬です。おごそかなしめ縄を巻いていますが、よぼよぼのおじいさんいぬです。


 神さまは、石の前に供えられたほねまんまを食べます。

「ひさしぶりに食べたが、やっぱりほねまんまはうまいのう」


「わう……」

 おいしそう……と、瀬名は物欲しげな目で見つめます。


「ん? なんじゃ? これはお供え物じゃろ?」

「きゅ……」

 ここは我慢です。瀬名には、ほねまんまより大事なものがあるのです。


「ほねまんまをもらったことだし、ひとつだけお前さんの願いを叶えてやろう。ほれ、言うてみい」

「わうん!」


 瀬名は、人間の女の子になりたいです。

 先輩のお嫁さんになるために。


「わん! わんわん!」

 人間になりたい、と必死に訴えます。


「ほう、随分飼い主に首ったけのようじゃなぁ」

「きゅーん」

 白いいぬは真っ赤になります。


「わほほ、うぶいのう」

 老犬は、まなじりを下げました。


「いぬの幸せはそれぞれじゃ。飼い主に一生付き従う忠犬もいれば、群れの中でたくましく生きていくいぬもいる。飼い主のお嫁さんになるいぬがいてもいいかもしれんなぁ」


 確かに、飼い主のお嫁さんになりたがるいぬは、あまりいないかもしれません。

 とはいえ、先輩がプロポーズしてきたのですから。


 瀬名は先輩が大好きです。

 先輩のお嫁さんになりたいです。


「わうん!」

 先輩がもうよそ見できなくなるくらい、先輩が好きなタイプの人間の女の子になりたい、と主張します。


「うーむ……お前さん、飼い主の好みがどんなんか知っとるのかね?」

「きゅーん?」

 言われてみれば、知りません。瀬名はいぬなので人間の好みがよくわからないのです。


 先輩はいつも瀬名のことをもふもふだとかわいがっているので、もふもふが好きなのはわかりますが、人間になるんだからもふもふはいりません。


「わん! わん!」

 「神さまなんだからなんとかして!」と吠えます。


「そう言われてものう……」

 さすがの神さまも、困った顔をします。


「それに、お前さんはそれでいいのかのう? 折角人間になるんじゃから、自分がなりたい姿はないのか?」

 そんなのありません。瀬名は、先輩のお嫁さんになるために人間になるのですから。


 先輩が好きなタイプの姿になれば、先輩は瀬名にメロメロになってくれるはずです。瀬名をずっと飼い続けてくれるはずです。それ以外に望むものなんてありません。


 いぬが飼い主の望む格好をするのは、当然です。野良だと、綺麗にすらしてもらえません。飼い主の好きなようにおめかししてもらえるのも、飼い犬の特権です。


「うーむ……」

 神さまは、何かを考え込んでいます。


「お前さんは、そのまま﹅﹅﹅﹅人間になるんじゃ。そのままの自分で、飼い主に好きになってもらうんじゃぞ。それが一番幸せなことだ」


「わう?」

 目の前のいぬが言っていることが、瀬名にはよくわかりませんでした。


「さーびすで、耳としっぽは残せるようにしておくからな。その方がぽいんと高いんじゃ」

「くーん?」

 瀬名にはわからない世界の話をして、神さまは何やら念じ始めます。


 急に現れた不思議な光が瀬名を包んで、一瞬身体がぽわっとします。

 どうやら、神さまの力がかけられたようです。


「明日目が覚めたら、お前さんは人間の女の子になっているからな」

「わうーん!」


 あふれる期待に、しっぽがぶんぶん揺れます。

 本当に、人間の女の子になれるなんて。

 これで先輩のお嫁さんになれます。


「……この世には恵まれないいぬがたくさんおる。神さまの力なら、彼らを救ってやれる。しかし、それはできないんじゃ。神さまは、お供え物をもらわないと願いを叶えてはいけない決まりなんじゃよ。でないと願いを叶えようにも、もっと大きな『対価』が必要になる」


「わう?」

「だからこそ、わしのところまでたどり着いてくれた子には、精一杯よくすると決めているんじゃ」


 老いた土佐犬は、小さなマルチーズに微笑みます。

「幸せになるんじゃよ」

「わうー!」


 瀬名は先輩のお嫁さんになって、幸せになります。




 * *




 山から降りた後、噴水で水浴びをして、土や泥の汚れを落としました。

 瀬名がお出かけしていたことは内緒です。


 案の定、先輩は何も気づかないまま一日が終わります。


 人間になったとき、先輩のびっくりした顔が楽しみです。喜んでくれるでしょうか。


「瀬名、おやすみ」

「わう!」


 先輩にくっついて丸くなります。

 目が覚めたら、人間の女の子になっていることを夢見て。

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