第7話 バレル・ロール

「この、離れろ!」


 それは咄嗟の行動だった。フットペダルを蹴飛ばし、機首を左へ振る。

 その刹那、翼を掠めていった流星は敵の機関砲弾か。本当に咄嗟、無意識に出来た僅かな抵抗が命を繋いだ。

 射線から外れて命を繋いだが、このままでは数秒のうちに捉えられてしまう。

 考えるより早く、手足が操縦桿とフットペダルを操作していた。

 捻りこむように機体が反転し、一気に海へと急降下していく。降下で速度を稼げばやりようはある。

 そうだ、これも訓練でやったじゃないか。だから体が動いてくれるんだ。

 視界を青い海が埋め尽くして、高度計の針がものすごい勢いで逆回転を始める。

 胸を押さえつけられて息苦しい。このまま失神したら、立て直せず海に突き刺さる。そんな恐怖が背筋を撫でた。

 恐ろしい程に優しい手つきの恐怖。身を任せれば、きっと優しい眠りを与えてくれるのだろうか。

 でも、そうはしたくない。どうしてか分からないし、考える余裕もない。

 速度を増して、恐怖さえも振り切る。蒼を宿した双眸は見開いたまま、迫りくる海を睨む。

 きっと、イヌワシならばギリギリまで引き付ける。あんな風に鋭く飛べるのは生まれつきじゃない。同じ機体ならば、私にだって出来るんだ。


「今!」


 渾身の力で操縦桿を引き、機首を引き起こす。急激にのし掛かる負荷で視界がブラックアウトしても操縦桿を離さない。

 意識が遠く、深淵に引きずり込まれるような恐怖が襲ってきても、その手の力を緩めるな。あと少し、あと少し!

 それに蓮龍は答えた。プロペラの羽が僅かに海面を叩き、飛沫を跳ね上げたが、海面に激突する寸前で水平に戻る。

 後ろの敵を確認したその時、二筋の航跡が見えた。


「あいつ、雲を引きやがった!」


 今のはイリヤ?いいや、助けてくれないなら無線を繋がないで。集中したいんだから。

 後ろにはまだ敵機がいる。チキンレースから降りて距離を取るか、突っ込み過ぎて海面に激突するなんてヘマはしてくれなかったらしい。

 ルーキーがしていないのに、慣れたパイロットがするわけないよね。

 そう思うと笑みが零れてしまった。どうしてだろうか、恐怖を振り切ったら笑いが残ったのだろうか。


「チャイカ、左へ回避」


 静かに、それでいて鋭い言葉がエルナの鼓膜に突き刺さる。指示から殆どタイムラグもなく、反射的に機体を左旋回させた。

 翼端が海面に波を巻き起こし、水飛沫が飛び散る。

 角度を一度でも間違えれば即墜落してしまうであろう、ギリギリの旋回。

 敵機はそれに追従するだけの度胸がなかったのか、上昇へと転じた。覆い被さるように攻撃をするつもりか。


「そのまま回避していろ、援護してやる」


「いえ、やれます!」


 丁度いい。あの不愛想な隊長に見せつけてやろう。カモメだって、綺麗に飛べるってことを。

 敵機が降下する。それに合わせるようにバレルロールで回避して、追い越させる。

 照準器が敵機を捕まえた。さっきのお返しだ。

 貰った。僅かにフットペダルを踏んで機首を振り、照準の中心を敵機へ合わせる。

 訓練通りに事を運ぶ。空戦訓練で何度も見てきた光景で、その通りにして教官機へペイント弾の雨を浴びせてきたのだ。

 数少ない実戦である偵察作戦の時も、敵迎撃機にそうやって機関砲を浴びせて撃墜してやった。その時と変わりはない。


「墜ちろ!」


 トリガーを引くのに覚悟は要らない。少しの力を右手に込めれば、それだけで全てが終わる。

 パイロットに代わって、戦闘機が彼を殺す。

 反動が機体を揺らし、魚が跳ねたかのように、水面で無数の水飛沫が跳ねる。

 あと少し。曳光弾の光を頼りに操縦桿を引いて、狙いを修正。

 今なら当たる。そう信じて再びトリガーを引くと、今度は狙い通りに主翼を貫き、さっきより小さな水柱がいくつも上がった。砕けた破片が海面へ落ちたらしい。

 敵機の主翼が悲鳴を上げる。負荷へ耐えきれなくなった翼は砕け、機体はそのまま海へと突き刺さった。

 破片や砲弾とは比較にならない程の大きな水柱が上がり、キャノピーを濡らす。エンジンが水を吸い込んで止まるんじゃないかと心配したが、持ちこたえてくれたようだ。

 計器は出力が正常であることを指し示している。


「スプラッシュ・ワン!」


「やりやがったな、ルーキー。エリアクリア」


 よくやった、ユウジの声色は笑っているようにも聞こえる。少し離れた所には、同じようにアッキピテルの残骸が浮かんでいた。

 エルナが墜としたのも含めて4機。1人当たり1機ずつ撃墜したのだろうか。


「帰還するぞ。方位237」


 ユウジが無線で帰還を指示する。わざわざ面倒な計算をせずとも、搭載している無線誘導装置は空母が出している電波を捉え、帰還すべき方角を教えてくれる。

 帰りたいならばそれに従って飛び続ければいい。それだけだ。エルナが折角頑張って学んだ航法も、今は役に立たない。

 なんだか悲しい気分にはなるが、空戦で負荷が掛かり、疲弊した頭はまともに動かない。

 正確な機械があるならば、それに頼って楽が出来るに越したことはない。

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