いよいよ執刀させます!嘘です!手術前の手洗いです!

 ヘレンが足に木片が貫通した男のオペすると言い出して、三十分は経った。


 ヘレンは煮沸消毒したオペ器材を、同じく煮沸消毒した布の上に置いて、ようやく一息つく。

 オペ室の外の空気を吸ってリフレッシュすると、ヘレンはオーギュスタを呼びだした。


「オペっていうのはもう終わった?」


 オーギュスタはなぜかヴォルフを連れてきた。


「今からよ。なんでヴォルフさんも?」

「お前らが面白いことをするから見に来た。スヴァンもくるんだとよ」


 ──なんだろう……。重役の視察みたいなノリは。


「そう。もしかしたら、ヴォルフさんにも手伝ってもらうかも知れません。

 私も予想外のことが起きるかもしれないので、ドキドキなんです」


 ヘレンはスラムに来てから、伸ばしっぱなしにしていた髪の毛を麻紐で縛った。ちなみに麻紐は布をまとめていた紐だ。


「ヘレンったら、お料理を作るみたい」


 オーギュスタは、ヘレンが頭へ三角巾をつけ始めたのを眺めた。


「ふふ、似たようなもんね。ゴミが入ったらダメなの。

 オーギュスタ、私が手を洗ったらそこに掛けている手術着を私に着せてくれる?」


 口を覆う布を巻き終えたヘレンが、オーギュスタにお願いをする。


「手術着?自分で着なさいよ」


 オーギュスタは顔をしかめた。


「手を洗ってから着るようになってるの。その手術着も煮沸消毒したんだから!」

「あんたって徹底的よね〜。ん?あたしが着せるなら手術着が汚くならない?」


 ヘレンはニッコリと笑った。


「オーギュスタも手を洗うのよ!」

「えぇ〜」


 そうして二人は水場で手を洗いだした。

 まずは水場の、弱い噴水のように流れている水で予洗いをする。


「あ〜地下水が冷たい〜」

「オーギュスタ、十秒間頑張って!」


 次は洗浄液での手洗いだ。

 灰を煮て作ったアルカリ洗浄液は、手洗いに使うには強すぎた。

 なのでヘレンとオーギュスタはソープナッツで手を洗っている。


「三十秒洗って。特に指の間ね。親指と人差し指の間は忘れやすいわ」

「手のひらで泡を立てる……。指先、指の間、手首、手の甲……」


 オーギュスタはブツブツとつぶやきながら手を洗う。


「オーギュスタ、手が洗えたら肘もまで洗って」

「腕だけお風呂に入ってるみたい」

「肘まで洗うのか。いいな」


 ルードがうんうんと、うなずきながら眺めている。


「私とオーギュスタが手を洗い終わったら、ルードとヴォルフさんも洗ってね。スヴァンさんにも洗うように言わなきゃ」


「なんで俺もなんだ!」


 ヴォルフは嫌そうだ。


「何かあったら手伝ってもらうって言ったじゃありませんか。それにオペ室は清潔なので、不潔の人は入れません」


(ジーニ君豆知識:医療用語でいう清潔とは、“滅菌処理が行われたモノ”だけだよ!

 それ以外は全て不潔なんだ!

 不潔の中でキレイな順に“(洗剤で洗ったあとにアルコールや次亜塩で)殺菌されたモノ、(高濃度アルコールで拭き上げて)殺菌された状態”で、

 さらに“洗剤で洗っただけのモノ、洗った状態”、

“洗ってもいないモノ”、

“汚れているモノ、ゴミ”というふうにレベルがあるよ!


 ヘレンは手を洗ってないヴォルフさんから、手を消毒したヴォルフさんにランクアップさせたいんだね!)


「ヘレン、すすぎ終わったわ」

「十五秒すすいだ?もう一回、ソープナッツで三十秒洗うわよ!」

「は?」


 オーギュスタが低いトーンで聞き返した。


「もう一回洗います!」


 ヘレンはもうソープナッツで洗いはじめている。


「手がガサガサになるじゃない!あたしはあんたを着替えさせるだけでしょう!」

「あ、そっか!うっかりオペに参加させるところだったわ。ゴメンゴメン」

「もう!ヘレンったら、本当に周りが見えなくなるわね!」


 オーギュスタは手をブンブンと振って水気を切った。


「あ、オーギュスタ。せっかく手を洗ったんだから髪とか顔とか触らないでね」

「おっと危ない」


 オーギュスタは自然に髪を触りそうだった手を、胸の前で合わせる。

 ヘレンは自分の手を洗いながら、オーギュスタのまだ濡れている手を見つめた。


「使い捨ての滅菌タオルがないのよね〜。布の用意わすれてたわ」

「ん?あたしの手、乾いたけど」

「えぇ!あ、ならオッケーね!私の手洗いが終わるまで待ってて」


 ヘレンは水場の端に置いてた浅い皿に、お酒を入れていた。

 そこのお酒に手をひたし、三十秒から一分間、こすってすり込む。


「もったいねぇな」


 ヘレンがお酒を手にすり込むのを、ヴォルフがなんとも言えない目で見つめた。


 ──ここまでしても、感染を予防する保険ていどにしかならないのよね。


 ヘレンは樽に布を乗せ、布の上においた割烹着かっぽうぎのカタチをした手術着に目を向ける。

 自力で腕を通せるようにセッティングしてあった。


「器用ね」


 腕を通したヘレンはオーギュスタを呼んだ。


「服の内側から袖を引っ張ってくれる?手を出したいの。私の腕には触らないでね」

「はーい」


 注文の多さに動じなくなったオーギュスタは言われた通りに動く。


 右側が終われば左側をおこない、両方の手が出たら割烹着かっぽうぎのように背中で紐を結んだ。


「ありがとう、オーギュスタ!助かったわ!」

「いいのよ!ヴォルフさんにいいところを見せられたし♡こんな奔放に見えて、ジツは従順とかギャップで落ちるに決まってるわ!」


 そう言って、オーギュスタは手洗い中のヴォルフを熱っぽく見つめた。

 ルードがいちいちヴォルフに指摘しては、イラついたヴォルフが足でルードを蹴っている。


 ──正直、オーギュスタのことなんて、見てない気がするわ……。


 ヘレンはそう思ったが、けして口には出さず、心の中に留めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る