屠殺場に行きます。※屠殺の表現があります

「トイレが欲しい」


 ヘレンはスラムに来てから、何度目かになる願望を呟いていた。


 ヘレンがスラムに来て一晩経っている。

 昨日は結局、お腹の気持ち悪さが治らずに、ヴォルフに与えられたねぐらで朝まで唸っていた。


 ──ジーニ君で薬草を調べて食べたから、まだマシだったなぁ。下痢は甘く見ちゃダメ!


「またかよ、くだしたのか?」

「違う!だって!トイレがない生活なんて考えられない!ノー トイレ!ノー ライフ!」

「あれじゃダメなのか。信じられねぇ」


 ヤンの目の先では、老女が溝にトイレをしていた。

 その近くでは、生きてるのか死んでるのか分からない人間が寝転んでいる。

 爽やかな朝なのに、スラムの空気は重たい。


「ダメ。汚い。あんなのから感染症がまん延するのよ」

「お前も小難しいことばっか言う。ルードとしゃべってるみたいだ」


 ヤンは嫌そうだ。


「ルードは綺麗好きなの?」

「分かんねぇけど。手を洗えだの、そこで拭くな、だのうるせぇ」

「気が合う人がいてよかった〜」

「ケッ」


 ──トイレもだけど、なにもかも足りない。水は雨水だし、火を使うにも薪や燃料が無い。


「どこをどうみても病死ルートしかないわ……」

「は?何言ってんだよ。いくぞ」


 ヘレンはトイレのことを考えながら、ヤンに連れられてルードの仕事場へ向かっている。


 スラムから抜けると跳ね橋を通るとき、ヘレンは恐怖を感じた。


「スラムの人間がここに来て怪しまれないの?」


 自分の格好が汚いので、ヘレンは気持ちが小さくなってしまう。

 橋の向こうの人たちはヘレンよりもきれいな格好をしていた。


「日雇いで来るやつもいるから、そこまでない。

 まあ、なんかあったらすぐに川に落とされるけどな」

「信用されてないのね」

「当たり前だろ?信用される生き方をしてるやつは、スラムなんか住まねぇよ」





 ルードの仕事場は町の中では風下に位置していた。


「血生臭い……」


 ヘレンは顔をしかめる。

 血液の匂いはいくら嗅いでも慣れない。毎回、くさっ!と呟いてしまう。


「相変わらずくっせぇな!」


 ヤンが大声で話しながら屠殺場とさつばに入っていく。

 ルードの他に、何人か屠殺人とさつにんがいた。


「忙しいときに来やがって!」


 樽の中で臓物を洗っている男が、ヤンに怒鳴り返した。

 ヤンと顔見知りなのか普通に話しかけてくる。


「珍しいな」

「魔物のせいで、村からの道が崩れたんだと。おかげで昨日の分が今朝来て大慌てだ」

「へえ、そりゃ難儀だなぁ」

「そこのお嬢ちゃんは?」

「新入り。ルード直々の肉当番だ」

「ヘレンです」


 いきなり話題に出されて、慌てて頭を下げる。


「おーかわいいじゃん。ムサイやつよりやっぱ女の子だな!」


 屠殺場とさつばの男は、ヘレンの顔を覗き込んだ。


「無駄話する暇があったら手を動かせ!」


 向こうからルードの怒鳴り声が飛んできた。


 ──みんな怒鳴りあいで会話してる。


「はいはい!」


 屠殺場とさつばの男はルードに雑な返事をした。

 そして濡れた手で顔の汗を拭ってから、また臓物を洗いはじめた。


 ──まって、内蔵洗ってる水で顔を拭いた!?というかまた顔が濡れたのはどうするの?あ、腕で拭いてる……。


「無いわ〜」


 ヘレンはこっそり呟いて、ルードの元へ歩いていく。

 屠殺場とさつばは奥で殺して解体しているようだ。

 入口では製品になった肉の塊しか無かったので、歩いていくと生々しい物体が次々に現れる。


「何かオペかんだったのを思い出すわ。ヒィッ!叫び声がする」

(ルード君豆知識:オペ看は手術に付く役割の看護師のことだよ!オペナースとも言うよ!)


 変な干渉に浸りながら、ヘレンは一番奥へと歩く。

 一頭の牛が狭い囲いに入れられて、首だけを出していた。

 角には綱がつけられており、頭を固定されている。


「さっきの叫び声はこの牛ね」

「いくぞ!」


 屈強な男が、斧を牛の首に振り下ろした。


「ひぁ!」


 ヘレンはあまりの恐ろしさに変な声を上げた。


 何度か斧が振り下ろされて、牛の首が落ちる。

 牛の首が落ちたあたりに樽が置いてある。血液がダラダラと樽へ流れ落ちていた。


「あれの解体は午後だな。血が抜けるのも時間がかかるんだ」


 いつの間にか近くに来ていたルードが説明してくれた。


 ヘレンはなにか話そうとして、見やったルードの格好に目を見開いた。


「スタンダードプリコーション……!」


 割烹着かっぽうぎのようなエプロンは足元近くまでの長さだ。

 顔は息ができるように穴が空いた、紙袋のような物を被っている。前が見えているか謎だが、ヘレンの姿がわかるので見えているようだ。

 ちなみに手袋は当たり前のように装着してあった。


「は?」


 ルードはヘレン言葉に怪訝そうな顔をした。


「い、いや。感染症対策に見えたから」

「感染症?何だそれ?俺はあらゆる汚いものが嫌いなだけだ」

「潔癖の信念だけで、その格好にたどり着くなんて猛者もさだわ」

(ルード君豆知識:スタンダードプリコーション(標準予防策)とは、患者さん、ナースなど関わる人たち全員が感染源って考えで、

 ガウンや手袋・手洗い・消毒を頑張って感染が広がるのを予防しましょう、っていう感染対策のことだよ!)


「お前ヘンなことばっかり言うなぁ」


 ──感染って考え自体がないんだなぁ。


 なまじ現代日本の知識があるだけに、ヘレンはため息を吐いた。

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