第3節
3ー1「弁解録取書」の次に作るのは、「身上調書」だ。
「弁解録取書」の次に作るのは、「身上調書」だ。聞き取りで作る履歴書のようなもので、今後の取り調べ、事情聴取、裏付け捜査の手がかりになるものだ。
「本籍地はどちらですか?」
砂川青年と向き合い、安藤は言った。
「T市みどりが丘〇〇、だと思います。引っ越す時に移しましたので」
「生まれたところはどこですか? 市区町村までで結構です」
「東京都文京区です」
「これまでに、
「ありません」
「公務員として働いたことはありますか?」
「ありません」
「前科はありますか?」
「ありません」
「非行歴はありますか?」
「ありません」
安藤はテンプレに従ってひとつひとつ質問をし、砂川青年は簡潔にそれに答えていった。
「最終学歴を教えてください。中途退学している場合は、それも教えてください」
「最終学歴は、都立H高校卒業です。私立K大学を中途退学しています」
大学の方は、誰もが知っている東京の名門私大だ。
「学部学科と中退時の学年は?」
「法学部法律学科、4年です」
「専攻はなんだったんですか?」
好奇心から確認してみると、砂川青年は気持ち恥ずかしそうに体を小さくした。
「刑訴法……刑事訴訟法です」
「道理で詳しいわけだ!」
刑訴法は、刑事事件捜査や刑事裁判、刑の執行における法的手続きを定めたものだ。
この事件で砂川史朗は緊急逮捕されたが、この手続きも刑訴法に定められている。
「そんな勉強をしていて、なんでこんな事件を……」
「お恥ずかしい限りです」
砂川青年は、椅子に座ったまま安藤に頭を下げた。
ともあれ、専門知識がある理由はわかった。今後はそれを頭に入れた上で、取り調べに当たるべきだろう。
「これまでの経歴をうかがいます。まずは、幼い頃の家庭環境、どう育ったかを教えてください」
中退の理由は気になるが、とりあえず順番に聞き取りを進める。
「私は、文京区音羽で生まれ育ちました。アンティーク家具の輸入販売の会社を経営している父と、専業主婦の母。そこそこ裕福な家庭の一人っ子で、何不自由なく、特に非行に走ることもなく育ちました。O大付属の幼稚園から、付属小学校、付属中学に進みました。付属高校は女子高だったので、外部受験して都立H高校に進学して、一般入試でK大学法学部法律学科に合格、入学しました」
「優秀だったんですな」
都立高校の名前を言われても、安藤にはどれほどのランクの学校かはわからない。だが、前後の経歴から、結構いいところなのだろうという推測はできた。
「記憶力は良い方なので、暗記系の勉強は得意だったんです」
「順風満帆に思えますが、なんで中退されたんですか?」
「父が……母を道連れに無理心中を図ったんです」
唐突な不幸を、砂川青年は他人事のように言った。
「不況の影響で業績が悪化しているところに、詐欺にひっかかって借金まみれになって。早いうちに倒産させていればよかったんでしょうが、引くきっかけをつかめないまま、借金を借金で返すことで借金の金額を雪だるま式に膨らませて、不渡りを出すまでに至ったんです。……このあたりの事情は、後で知ったんですが」
「後で?」
「父は、家では何一つそういうそぶりを見せていなかったんです。きっと、母もその時まで気づいていなかったと思います」
砂川青年は目を伏せて言った。
「昨年の5月31日の夜。翌朝には二度目の不渡りが出るという日に、父は自宅で、首を絞めて母を殺しました。それから、自宅に灯油をまいて火をつけ、自分自身も庭で灯油をかぶって火をつけて、焼身自殺を図りました」
「お父さんは、先月亡くなったと聞きましたが」
「はい。父は死にきれなかったんです。焼け焦げた服で庭の池に浮いているところを、火災報知器が反応して来た消防に救助されたんです。火をつけたものの熱さに耐え切れず、火を消そうと池に飛び込んだのか、暴れて池に落ちたのか……。
ともかく、全身に重度のやけどを負い、気道もやけどをしていたため人工呼吸器がなければ十分な呼吸ができず、少しばかり手足を動かすことはありましたが、意思の疎通ができているとは感じられない。脳死や植物状態ではないけれど、ひとりでは生きていけない。そういう状態でした」
「他に、お身内は?」
「親戚らしい親戚は母の従兄くらいでしたが、父が『私に投資してください。絶対に損はさせません』と調子のいいことを言って金を借りていたらしくて……。
散々返済を先延ばしにした挙句、こんな事件を起こしたために縁を切られました」
「それは……」
「当然だと思います」
いっそ冷やかに砂川青年は言った。
「自宅は全焼し、父は日々高額の医療費を加算し、多額の借金は変わらず残っている。借金の取り立ては私のところにも押しかけてくるようになって、いろいろあって……私は大学を中退して、働くことにしました」
「いろいろ、ですか……」
「詳しく説明しましょうか?」
長くなりますが、と砂川青年は言った。
「いいえ、今は概要で結構です。それで、東京で大学を中退したあなたが、何故、こんな田舎に?」
「お世話になっていた方に紹介されたんです。『地方で私立高校を経営している友人が、若くて健康で口が固い、住み込みの仕事をしてくれる人間を探している。良ければ行かないか?』と」
「その方の名前は?」
「その……」
砂川青年は少し躊躇したようだった。
「ご迷惑をかけたくないので、言いたくないんですが、どうせ調べるんですよね?」
「はい。時間と手間はかかっても、必ず調べ上げます」
安藤の断言に諦めたようにひとつ息を吐き、砂川青年は口を開いた。
「『かみお、なおし』さんです」
「漢字は?」
「神様の神、しっぽの尾、ええと、上にちょんちょんちょんとあって、囲って口の……」
人さし指で宙に文字を書きながら説明する。
「あー、マラソンの高橋尚子のなお?」
「はい、それです!」
我が意を得たりと、砂川青年は笑った。こんな表情は若者らしい。
「最後はこころざしの志、です」と説明した砂川青年に、安藤はさらに質問を続けた。
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