第29話

 山岳の合間に広がるクラクス高原には寒風が吹きすさび、黒い岩肌を晒す地面が所々で被る白化粧は、空の澱んだ赤を映してうっすらと朱に光っている。高原の北端に聳え立つ雄峰は、山際に立てばもはや岩壁にしか見えないだろう。大逆鱗。名前の通り、山脈の稜線とは逆を向いて北側に傾斜している。


 天を突く大逆鱗の根元には、石造りの巨大な建造物が見える。積み上げられた階段の先に続く、石柱とアーチに縁どられた円形の舞台。高原の端から遠目に見る限りでは、神殿のようだ。


「大いなる母の祭壇だよ。修道会の聖職者たちは、あそこに巡礼して大いなる母へ祈りを捧げるんだ」


 グラーネに跨るあやのに、辰巳が冷たい空気に目を細めながら轡を並べる。


「じゃあ、黒騎士は」


「あそこにいるだろうね。大いなる母を、言葉の通り叩き起こす魔法を準備しているはずだ」


 目指すべき場所は判った。だが。


「よくもまあ、これだけ揃えたものね」


 反対側に並ぶ麻由香が、呆れ交じりにぼやいた。


 視線の先、大逆鱗へと続く高原の対面には、黒い影が蠢いている。ひとつや二つではない。波立つ水面のごとく、高原の一面を影が覆っている。赤い目を光らせ、獲物を引き裂く時をいまや遅しと待ちわびている魔物たちの数は、リンデンのときとは比べ物にならない。軍勢だ。人だったもの、犬か狼だったもの、巨人や、あやのの見たこともない奇妙な獣だったもの。呪いに歪められたありとあらゆる生き物たちが、人間たちを迎え撃つためにひしめいている。あるいは黒騎士の儀式を守るために。


「これからあいつらと戦う、んだよね」


「激戦になるぞ。ロザムンドの叛乱がお遊びに見える大激戦だ」


 レイリアにも、ヘリオスフィアにも、その場にいる誰の表情にも怖れが浮かんでいる。いざ目の前にした魔物たちのおぞましい姿に動揺が走り、恐怖が蔓延する。迫りくる死の気配に怯える。この戦から生きて帰れるものなどいないのではないかという疑念が、兵たちの間に広がっていく。誰かの馬が、じり、と足を半歩引いた。釣られるように誰かが半歩下がる。また誰かが。気圧されている。バックランドの命運を賭けて立ち上がった王国軍全体が、魔物たちに圧倒されている。ただ向かい合っているだけだというのに。


「どうするの」


 麻由香が不機嫌そうにつぶやく。


「勝負にならないでしょ、このままじゃ」


 辰巳も頷いた。


「恐怖に飲まれたまま戦うのは無理だ。誰かが振り払わないと」


 麻由香があやのを見る。辰巳も、レイリアもヘリオスフィアも。


「え、わ、私ですか?」


「他に誰がいるのよ」


「やっぱりここは、伝説の竜騎士がみんなを引っ張らないと」


 恐る恐る振り向けば、誰もがあやのを見ていた。兵士たちの目に浮かぶのは、死だ。今こうしている間にも、呪いが彼らを飲み込もうとしている。だがその中に、あやのは光を見つけた。輝く星を散りばめた目。レイリアだ。なにひとつ疑うことのない瞳で、あやのを見つめている。別の目もあった。ヘリオスフィアは、ただ静かに見届けようとしている。


 グラーネを一歩前に進ませる。大勢の人前で喋るなんて、あやのにとってとびきり苦手なことのひとつだ。選ばなくては。苦手を理由に引き下がるか、ここでみんなを奮起させるために声を張り上げるか。


「み、皆さん!」


 声が裏返った。


「おそれ、お、恐れてはいけません! ここで私たちが勝たなければ、バッきゅランドが」


 噛んだ。


「ううう……」


「お、落ち着いて高千穂さん」


 誰かが隣に馬を歩みださせ、背中を叩いた。


「誰かの真似してどうすんの。あやのが言いたいこと、素直に言えばいいの。みんなそれを聞きたがってるんだから」


「麻由香ちゃん……」


 本当に? 情けない私の気持ちなんて聞いて、本当に勇気が出るんでしょうか。だが、麻由香が言うなら信じられる。


 大きく吐いた息を、目いっぱい吸い込む。冷たい空気が肺を満たす。それで、少し落ち着いた。


「正直に言えば、私も怖いです。魔物の大群にも、黒騎士にも勝てる保証はありませんし、負けたらバックランドが滅びるなんて考えたら、今すぐ逃げ出したいです」


 決して張り上げた声ではなかったが、不思議とよく通った。風の音さえも息を潜めるように、誰もがあやのの言葉に耳を傾けている。


「というか、私はずっとそうやって、なにかを選ぶことから逃げてきました。なにかを選ぶのが怖くて。選んだ末の結果を見るのが怖くて、ずっと自分にはなにもできないって言い訳して、目を背けてきたんです。でもそうやって逃げた先で出来るのは、自分のあずかり知らないところで出た結果を、ただ受け入れることだけです。なにか選んでいても、結局変わらなかったんだってまた言い訳して。私は、やっとそのことに気付きました。だから、選びました」


 背負った剣を引き抜く。赤い空の下で、剣は輝いた。竜の鱗のように。


「やりたいことをやろうって。自分で選んだ先に待っていることなら、どんな結末でも胸を張れるから。私は立ち向かいます」


 切っ先が闇を指し示す。麻由香が両の手で戦斧を握り、辰巳が杖を一振りする。


「皆さんも、どうか選んでください。誰かに胸を張れる物語に出来るように」


 あやのが口を閉じると、思い出したかのように冷たい風が吹き抜ける。澱んだ空の下、呪いの軍勢を前に、バックランドの勇士たちは足を引くのを止めた。レイリアが支給された王国軍の剣を抜いて掲げた。アルフレートも。周りの兵士たちも剣を掲げる。ヘリオスフィアはブケファロスを下がらせたが、逃げるためではない。吟遊詩人として、この戦いの行く末を見守るために。


「行きましょう、物語を続けるために。虚ろとの物語を、終わらせるために」


 喚声と共にグラーネが地を蹴り、先陣を切ったあやのが高原を駆け出す。麻由香と辰巳が両脇に続き、アルフレートの指揮でレイリアたち王国軍が大地を震わせながら馬を走らせる。黒い影が動き出す。蠢く魔物の軍勢もまた、あやのたちへ向け駆け出した。津波のように人間たちを飲み込もうと。


 アルフレートが手を振り下ろす。弓兵隊の放った矢があやのたちを飛び越え、魔物たちの先頭集団に降り注ぐ。穿たれ崩れたものたちを踏みつけながら、なおも黒い波は押し寄せてくる。魔物たちの後方から影が飛び上がる。鳥の姿をした魔物の群れだ。上空からあやのたちを目掛け真っ直ぐに飛んでくる。


「守りよ!」


 辰巳が杖をかざす。目には見えない何かが、頭上で傘を開く。くちばしで人々を狙っていた鳥の魔物たちが、不可視の壁に激突し、霧散していく。いくつかの影が魔術をすり抜け、兵たちの眼球をついばむ。悲鳴は足音にかき消される。「怯むな、進め!」アルフレートの号令が轟く。レイリアが叫びながら馬を疾駆させる。二つの波がぶつかろうとしていた。


 黒い波が眼前に迫り、赤い眼をした影が跳びあがった。あやのは剣を横薙ぎに振り抜く。重い。剣が、魔物を切った手ごたえが、記憶にあるよりもずっと重い。飛びかかってきた魔物の攻撃をいなすのがせいぜいだ。グロスラッハの祝福がいかに大きな力を持っていたのか、思い知らされる。それでもあやのは振り抜いた。先頭の一匹をやり過ごし、魔物の群れに飛び込んで行く。


「こんのお!」


 波がぶつかった。くさび型陣形で突撃した人間たちを、魔物は即座に左右に広がり包囲しようとする。生半な数であれば、薄くなった正面を突破できていたであろう。だが魔物たちの軍勢は、とにかく膨大な数だった。すぐさま戦闘は混戦模様を呈し始める。


 右に左に剣を振るい、あやのは殺到しようとする魔物たちの攻撃を躱しながらグラーネを走らせる。一体ごとは大した脅威ではない。だが数が多い。グラーネが前脚を振り上げ、牙を剥こうとしていた四つ脚の魔物を踏みつぶした。進撃が食い止められる。動きが止められる。


「あやの!」


 後方に迫っていた魔物を麻由香の斧が、重さに任せた大振りな一撃で叩き割る。


「突出しすぎ! 打ち合わせしたでしょ!」


「ご、ごめんなさい! 気が逸りました!」


 間合いの広いあやのの剣が魔物たちの切っ先を打ち払い、接近したものは麻由香の斧が叩き潰す。立ち位置を入れ替えつつ、互いの背中を守るように刃を振り回すあやのと麻由香は、魔物たちの注目を一身に集める。クラクス高原の戦場で、二人は誰よりも目を惹いた。魔物たちは先を争うようにあやのたちに殺到しようとする。


「アヤノ! マユカ! 退いて!」


 合図を出すレイリアの背後で、辰巳が杖を振り上げる。杖の先が光っている。赤い空に、どこからともなく雲が立ち込め始める。あやのは心臓をひとつ高鳴らせ、麻由香と共に即座にレイリアのもとへ駆け寄る。魔物たちは黙って見逃すはずもなく、その背中に爪を立てようとした。


 杖が振り下ろされる。雲が地上へ向け、閃光を放つ。目を焼く光と共に、鼓膜と下腹とを殴られるような轟音が、魔物たちに降り注いだ。戦槌のごとき轟雷が、魔物たちを叩き潰す。直撃を受けた魔物たちの姿は吹き込む寒風に崩れ去り、包囲に穴が開く。にわかに攻め手が緩む。歓声が上がった。「今だ!」「突き進め!」気勢を上げた兵たちが馬を進ませる。


「まずい、まだ駄目だ……待って!」


 魔力を大きく消耗し、馬の背にもたれかかる辰巳の制止の声は、間に合わなかった。湧き上がる悲鳴に、あやのは苦い顔で背後を見る。辰巳の呼んだ雷撃で出来た穴は、見る間に魔物たちで埋められていく。兵たちを押しつぶしながら。数が多すぎる。


「そんな。これじゃあ、包囲を突破できません……!」


 右方でアルフレートの剛剣が魔物の胸を切り裂き、左方でレイリアの刺突が魔物の喉を突く。兵たちも剣を、槍を振るい果敢に戦っている。だがキリがない。包囲の輪が迫り、喚声を悲鳴が塗りつぶしていく。


「あやの、手を止めてる場合じゃない!」


 戦斧をつむじ風のように振るう麻由香がどれほど切り払おうと、恐れを知らない魔物たちの攻勢は留まるところを知らない。あやのの剣も、魔物の包囲を切り拓くには非力すぎる。次の呪文を準備している辰巳の魔力にも限度がある。このままじゃダメだ。もうひとつ大きな一撃がいる。とびきり強力な一手が。


 耳に届いた微かな羽音に、あやのは顔を上げる。来てくれた。約束通り。羽音は戦場に向け真っ直ぐに近づいてくる。間近に迫り膨れ上がった羽音は、銀の翼が叩きつける空気と共に魔物たちを痛烈に打ち据える。


「陛下だ!」「グロームデイン陛下!」「女王陛下が来てくださった!」


 兵たちの歓声に応えるように、白銀の竜は魔物の群れの頭上へ急降下しながら、喉奥から光の溢れる口を大きく開く。光が、魔物たちに降り注いだ。呪いに澱む空の色をも跳ね返す、眩い白い光だ。グロームデインの吐息が通り過ぎたあと、光に飲まれた魔物たちはまだその場にいた。微動だにせず、姿が消えることもない。あやのは身震いする。凍てつく冷気が吐息となって、魔物たちを凍り付かせていた。重厚だった包囲の壁に、一筋の氷の道が出来る。


「高千穂さん! 行って!」「決着つけてきなさい!」


 麻由香の斧が、辰巳の杖から放たれた雷撃が、行く手を塞ごうとする魔物を打ち払う。「グラーネ!」一度だけ振り返り、あやのは愛馬の手綱を打ち振るう。


 グラーネは機敏に氷像と化した魔物たちの合間を駆け抜け、黒い波を渡り切る。その背に追いすがろうとした魔物は、辰巳の魔術や兵たちの矢が射落とす。あやのが振り返ると、駆け抜けたばかりの白い道は、みるみるうちに魔物たちに塞がれていく。包囲を抜けられたのはあやのだけだ。だが戻ることは出来ない。黒騎士と決着をつけるためにも。


 蹄は岩肌の地面を蹴り続ける。喚声が遠ざっていく。高原を大逆鱗の膝下まで駆け抜けると、さっきまで周囲を取り囲んでいた喧騒も、どこか他人事のように聞こえてくる。まさか、そんなはずはない。自分はまだ、あの戦いの中にいる。あやのは首を振って上を見た。視界を塞ぐ大逆鱗の岩壁。それを仰ぎ見るように設えられた、大いなる母の祭壇。戦場が変わっただけだ。


 一枚の大理石から削り出された階段の前までたどり着くと、あやのはグラーネの背を飛び降りた。祭壇の石舞台はそう広くはない。騎乗したままでは小回りが利かず、黒騎士と渡り合うことは難しい。


「ここで待っていてください。でも、危なくなったらすぐに逃げてくださいね」


 鼻筋を撫でる手に顔を押し付け、グラーネは鼻を鳴らした。送り出すように、鼓舞するようにひとつ嘶く。


「はい、行ってきます」


 グラーネに背を向け、祭壇へ足を向ける。剥き身の長剣を握りしめ、挑むように石段に足をかける。最初の一段を踏んでからは速かった。上へ上へと急かす気持ちに逆らわず、一段飛ばしで階段を蹴り上がる。最上段を踏み切ると、視界が開けた。円形の広間。周囲を囲む石柱と、柱の間に渡されたアーチ。大逆鱗が、大いなる母に近づこうとする人間たちを厳かに見下ろしている。


 黒騎士はあやのに背を向け、舞台の中央に佇んでいた。片手に掲げているのは、紫水晶の書だ。足下では、あやのの知らない言葉で綴られた魔法陣が紫の光を放っている。これが大いなる母を目覚めさせようとする、古の魔法か。止めなければ。


「そこまでです!」


 あやのは広間に踏み込み、声を張り上げる。長剣を構えてにじり寄りながら、襤褸を纏った漆黒の甲冑姿を注意深く観察する。さあ、どう出ますか。大人しく儀式を止めるとは思えません。護衛の魔物を呼び出しますか? なんだって構いません、絶対に突破して、魔法を打ち破ってみせます。


 だが予想に反して、黒騎士は振り返った。


「え?」


 無言のままあやのに向き直った黒騎士は、開いていた紫水晶の書を閉じる。「きゃっ!」足下の魔法陣が目も眩むほどの光を放って消えたのは、それと同時だった。


 静寂が訪れる。恐る恐る目を開き、どれほど耳を澄ませたところで、辺りにはなんの変化も見られない。大地が揺れ、暗雲が立ち込め、澱んだ風が吹き荒れる。大いなる母を呼び覚ます儀式魔法に想像していたような事象は、どれひとつとして起こらなかった。ただ、なにか決定的なことが起きたという確信だけが、あやのの胸に焦りを募らせる。


「なにを……いったいなにをしたんですか!」


 黒騎士は答えず、ただ腰の鞘から漆黒の長剣を引き抜いた。





 グロームデインが上空を飛びすぎるたび、凍結のブレスを浴びた魔物たちは氷像へと姿を変える。王国軍の兵たちはそのたびに歓声を上げ、魔物たちへの攻勢を強める。呪いに歪められた生き物たちは、空からの攻撃を受けるたびに軍勢を減らされ、包囲を諦め一個の群れとなって立ちはだかろうとする。進撃を続ける王国軍と、祭壇への行く手を阻もうとする魔物たちは、両者正面からぶつかり合うせめぎ合いの様相を呈していた。


「右が薄いぞ! 槍兵隊で押せ!」「盾を低く構えろ、四つ脚に足下を狙われるぞ!」「側面に回り込ませるな!」


 戦場を駆け抜ける麻由香の戦斧が、一振りごとに魔物の身体が叩き割る。辰巳がレイリアに護衛されながら呪文を完成させれば、大地から隆起した棘が呪われた肉体を刺し貫く。全力疾走の後のような荒い呼吸が、呪文を紡いだ口から漏れた。


「タツミ! 大丈夫?」


 馬の背で呼吸を整え、辰巳はレイリアに片手を上げて応える。魔法は使うほど魔力を、存在の根源的な構成要素を消耗する。余剰を使い切らないよう、昂った神経を鎮めなければ削られるのは自分の魂だ。辰巳はレイリアに追随するよう馬を走らせながら、ぐるりと戦場を見回す。逐次隊形を変え、攻めと守りを切り替えながら戦う王国軍に対し、魔物たちは物量に任せた猛攻の一手を繰り返す。それでも、人型と獣型とが入り混じる魔物たちの攻勢に、連携の概念はないに等しく、黒い波は徐々に戦線を押し返され始めている。


 辰巳は、足下から忍び寄る不吉な予感を振り払えずにいた。単調すぎる。辰巳はこの戦場に、もっと強力な敵が配置されていることを想定していた。例えばアウルベアのような。だが実際に待ち受けていたのは、ほとんど雑兵のような魔物の群れだ。戦線は入り乱れ、味方も無傷ではないのの、グロームデインのブレスが敵陣を撫でれば、それだけ王国軍が前進する。このまま繰り返せば、遠からず王国軍は祭壇へと攻め入ることになるだろう。


 上空で白銀の竜が旋回し、再び魔物の群れに狙いを定める。考えていても仕方がない。ブレスに合わせようと、辰巳は杖を構える。背筋が粟立った。予感ではない。大気が律動している。不可視の力がざわめいている。


「な、なに、今の」


 魔法を使わない麻由香や、兵士たちも異変を感じ取っている。魔物たちまでさえも、なにかを畏れるように動きを止めている。誰も予期しなかった静寂が、戦場に訪れていた。


「魔法だ。とんでもなく強力な魔法が使われたんだ」


「まさか、あやのが間に合わなかったの?」


「わからない、けど」


「あそこ、あそこ見て!」


 レイリアの指の先で、飛来しようとするグロームデインに衝突する巨大な影があった。闇を押し固めたような漆黒の影。影は銀の鱗の並ぶ首筋に食らいつき、抵抗しようとするグロームデインと共にもつれあいながら戦場に向け落下してくる。


「うわ!」「危ない!」「きゃあ!」


 二つの巨体は人々の頭上を擦過し、両軍の真ん中に墜落した。大地が揺すぶられ、巻き上がった粉塵が視界を塞ぐ。混乱を来して暴れる馬から放り出され、辰巳は強かに背中と尻を打ち付けた。


「いってて」


「ちょっと、大丈夫ですか」


「僕は平気だ……けど」


 辰巳は、同じく暴れる馬から降り立った麻由香の手を借りて立ち上がり、粉塵の中に目を凝らす。もうもうと立ち込める砂埃の中で、なにかが動いている。暗く、黒く、呪われた恐ろしい影が。力なく横たわるグロームデインを踏みつける、鉤爪の付いた前脚。翼を広げ、黒檀めいたまだらの有る黒い鱗を纏った、女王よりもひと回り大きな体躯。瘴気を吐き出す口の奥で光る赤い眼。


「嘘だろ、グロームデイン……」


 辰巳は呻く。黒騎士の用意していた魔法は、想像よりもずっとおぞましいものだった。


「黒い、ドラゴン。どこかで呪って連れて来たってこと?」


「そうじゃない、作ったんだ」


 バックランドに生きるすべての竜は、大いなる母の血の中から生まれてくる。その血は、竜騎士の中にも流れている。黒騎士はその血を以って新たな竜を生み出したのだ。生まれながらにして呪われた、虚ろの竜を。まるで大いなる母と、その背で生きるすべてのものを愚弄するように。


「なんてことを……」


 虚ろの竜が踏み出す。矮小な人間たちを睥睨する。そのひと睨みで、王国軍の兵たちは震えあがった。死が、そこにいる。


「女王陛下……?」「陛下が倒れた」「もう終わりだ!」「あんなものに勝てるはずがない」


 まずい。壊走する。辰巳をも飲み込もうかという絶望が、兵たちに広がっていく。レイリアさえも、形を持った呪いそのもののような竜の姿に、本能的な怖れに歯の音が合わなくなっている。戦線が崩れれば、虚ろの竜と戦うどころか、兵たちは魔物の群れの餌食になるのが関の山だ。踏みとどまらなければ。でもどうやって。


 辰巳にとっても、グロームデインは象徴だった。この世界の理知と善き心による統治は、彼女が司っていた。その白銀の輝きは今、恐怖と怯懦の影によっていいように踏みにじられている。どうすれば立ち向かえるっていうんだ。あれを生み出したのは、僕自身だっていうのに。


「情けない声を上げないで!」


 鬨の声は、辰巳のすぐ横から上げられた。


「もともと勝ち目もわからない戦いだったのに、なにを今更怖気づいてるの! あやのが虚勢を張ってたこと、気付かなかったなんて言わせない! それでも戦うのを選んだのは自分たちなんだから、女王の仇に一矢報いる気概くらい見せられないの!」


 ざわめきを貫く麻由香の怒号は、兵たちの口を閉ざさせる。希望が見えたわけではない。恐怖も拭えない。それでも、戦場から泣き言は聞こえなくなった。一度賭けた命を、今更惜しむことはしなくなった。卓に着いたなら、賽を投げるしかないのだ。


「アルフレート、王国軍は魔物の群れの相手を! 虚ろの竜は僕らが押さえる」


「……! 承知した」


「私も戦う!」


 辰巳が杖を一振りすると、炎の壁が走り魔物たちと竜を隔てる。気休めのような結界だったが、虚ろの竜は視界を塞がれ、否応にも辰巳と麻由香、駆け込んできたレイリアと睨み合わざるを得なくなる。


「ちょっと驚いた」


 首を巡らし踏み出してくる虚ろの竜に杖を向けながら、麻由香の横に並んで辰巳は呟く。


「なにがですか」


「黛さんがあんな声上げると思ってなかったから」


「これでも役者志望ですから、アドリブくらいできます。で、倒せるんですか? あれ」


「どうかな……正直割と厳しいかも」


「気休めも言ってくれないなんて、あやのに聞いてたより優しくない人ですね」


「言った方がよかった?」


「まさか、気を遣われるよりずっとマシです」


「二人とも、来るよ!」


 竜が吼える。麻由香たちが駆け出し、辰巳は杖を振り上げる。竜の口から、黒い吐息が迸る。

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