第28話

 冷たく湿った空気の漂う謁見の間に姿を現したグロームデインは、ひとつ鼻を鳴らした。女王の身体はやはり汚れひとつなく白銀に輝き、鼻息だけであやのと麻由香、そして辰巳を畏怖させ、思わず跪かせて余りある威容を誇っている。ただあやのだけは、その輝きにどこか陰りを感じている。呪いの影響だろうか。


『よくぞ戻りました、グロスラッハの竜騎士アヤノよ。顔を上げなさい』


 すぐにその言葉に従うことは出来なかった。


「私は、失敗しました。紫水晶の書は黒騎士の手に渡ってしまって……」


「高千穂さん、そのことは君の責任じゃないだろう」


「でも、古湊先輩」


「二人とも」


 麻由香に制止され、あやのと辰巳は慌てて口を閉ざしまた頭を下げる。白銀の女王は、ただ静かに見下ろしていた。


『おおよその成り行きは承知しております。お前は黒騎士に敗れ、紫水晶の書は奪われた。そうですね?』


「……はい」


「グロームデイン陛下、それに関しては」


 口を挟もうとした辰巳に、冷たい一瞥が刺さる。


『私はいま、アヤノと話しています』


「……すみません」


『黒騎士は魔導書の力を利用し、一挙に呪いの力を増幅させています。このままでは遠からず、虚ろの呪いはバックランド全土を覆うでしょう。我々は滅びの途上にあるのです』


 あやのは唇を噛みしめ俯いた。滅びへの歩みを加速させてしまったのはあやのなのだ。例えどう足掻いても勝ち目のない戦いであったとしても。


『ですが、お前は戻ってきました。なにか方策があってのことと考えてもよいのですか?』


 グロームデインの問いに顔を上げ、迷わず頷く。そのために戻ってきたのだ。


「黒騎士と、そして虚ろの呪いの正体がわかりました」


『ほう?』


「彼は竜騎士です。バックランドで最初の、大いなる母の竜騎士です」


 わずかに碧い眼が見開かれる。


『まさか』


「黒騎士は大いなる母が海原に身を横たえて以来、背の国の行く末を見守っていました。ですが次第に、祝福を授かった竜の背で起こる戦乱に心を痛めるようになりました。そこに、虚ろの呪いがつけ込んだのです」


『……その呪いの正体とは?』


 ちらりと辰巳を見やる。辰巳は、呪いを生み出した張本人は、覚悟を決めた目で頷いた。だからあやのは、その目を見るのを止めた。


「東の海の彼方、私たちの故郷で生み出された呪いです。呪い……いえ、魔法でした!」


『魔法?』


「高千穂さん?」


「遠い昔に作られた、もともとは願ったことを叶える魔法だったんです。ですが、あるときその魔法が暴走して、この地で黒騎士の嘆きと結びついてしまったんです」


「ちょっと、高千穂さん!」


 辰巳があやのの肩を掴み、小声で遮った。


「虚ろの呪いは僕の責任だよ、だから僕もこの世界に来たんじゃないか!」


「もちろんわかってます」


 辰巳の考えも、わかっていた。


「でも私には『この人の仕業です』って言って古湊先輩を差し出すなんて、そんなことできません。できるはず、ないじゃないですか」


「けど……」


「先輩。最後の戦い、一緒に戦ってくれませんか」


 地面に逸らされた辰巳の苦い目線は、あやのの懇願にも、上がろうとしない。麻由香が、深々とため息をついた。


「この場で断罪してほしいなら、私から告発してもいいですけど」


「ま、麻由香ちゃん! ダメですからね、そんなこと!」


「だそうですよ。それに、後始末だけ私たちに押し付けようなんて、そんな卑怯な方法で責任取れなんて言ったつもり、毛頭ありません。覚悟、決めたらどうですか」


 麻由香が肩を竦めると、辰巳はもごもごと口ごもる。何から何まで自分の責任なのに。そうとでも言いたげな口は、やがて諦めたように深く息を吐き出す。


「かなわないな」


 肩からは力が抜け、顔には薄い笑みが浮かんでいた。


「わかった、ちゃんと最後まで一緒に戦う。ううん、一緒に戦わせて」


 あやのは安堵の息と共に頷き、麻由香は当然だとばかりに小さく鼻を鳴らす。


 決心を新たにする三人の一方で、白銀の女王は、あやのの告げた真実にうなり声を漏らした。


『虚ろの呪いの因は、私たちにもあったということですか。しかし、今問題なのはその呪いをどう晴らすのか、です』


 あやのは立ち上がる。それこそが重要だ。


「核となっている黒騎士を倒すほかありません。麻由香ちゃんは私の一番の友達で、黒騎士との戦いに力を貸してくれます」


「……どうも」


 麻由香も立ち上がり、軽く頭を下げる。


『しかし戦おうにも、黒騎士の居場所はようとして知れません』


「古湊先輩は、私をバックランドへ導いてくれた魔法使いです。黒騎士や虚ろの呪いについて、誰よりも知識を持っています」


 辰巳も立ち上がり、決然と答える。


「大逆鱗です」カザムダリアの北方にある雄峰の名を挙げる辰巳に、グロームデインは目を瞠る。


「あそこが聖域なのは陛下もご存じのはずです。その理由も」


『……そういうことですか』


 グロームデインは納得した様子を見せるが、あやのも麻由香も、聞き覚えのない話に首を傾げる。


「え、と、どういうことですか?」


 前に話したけれど。辰巳は前置いて話し始める。


「バックランドは、海原に眠る大いなる母の背の上に出来た国だ。大逆鱗はその名の通り、母の背に生えた逆さ鱗なんだ」


「ちょっと待って、まさかと思うけど逆鱗って」


『ひとたび大逆鱗に触れれば、怒りと共に大いなる母が目を覚ますと言われています。それが黒騎士の狙いですか』


「まだあります。バックランド全土に満ちた呪いは、目覚めた大いなる母さえも蝕んでいく。そうなれば、始祖の竜はあまねく世界に呪いを運ぶ災厄と化す。もっとも、文字通り手で触れた程度で目覚めるはずはないけれど……」


「今の黒騎士は、紫水晶の書を手にしています。書に記された魔法で、大いなる母を叩き起こそうとしている。そういうことですね」


 辰巳が厳かに頷き、謁見の間に沈黙が下りる。


 じわじわと忍び寄るように広がっていた静かな滅びの気配は、正体が、目的が判明すると、途端に目に見える脅威となった。このまま放置すれば虚ろは、東の海の彼方にも、あるいは西の黄金の原にすら呪いを振りまいてしまうかもしれない。


「させません」


 握りしめた拳と共に、あやのは顔を上げる。


「そんなこと、絶対にさせません。黒騎士を止めないと」


 辰巳も決意を秘めて、麻由香がため息交じりに首を振りながら頷く。グロームデインは身を起こし、人間たちを見下ろした。


『全軍を大逆鱗へと向かわせましょう。これを、虚ろとの最後の戦いにしなくてはなりません』


 白銀の女王は頭を持ち上げると、高らかに吠え猛る。雄叫びは謁見の間を駆け抜け、女王の閨を響き渡り、山を震わせて王国の全土に轟いた。カザムダリアの城下町に、呪われたリンデンの大学院に、白金の船着き場に、ロザムンドの廃墟に届いて息を潜める人々の心を奮わせ、蔓延る魔物たちのあるはずのない恐怖を煽る。それは指令であり、宣誓であり、宣戦布告だ。虚ろに覆われた赤い空の下から、夜明けへ向けて歩み出さんとする声明だ。


 人々は立ち上がった。兵士は剣を磨き、農夫は生き残った苗を数え、母は子を抱き、赤ん坊は泣き声を上げる。この日バックランドは、虚ろに立ち向かうことを決意した。





 王国軍は山脈に沿うように、北へ向けて進軍していく。緩やかに高地へと入り、進めば進むほど、余計に空は赤く、昼夜の境も失われていく。女王グロームデインの加護に守られていても、気の滅入る風景だ。なによりも、この進軍がバックランドの命運を分けると思えばこそ、兵たちの肩にかかる重圧は大きい。旅隊の雰囲気は決して明るいとは言えない。


 唯一の支えは、勇敢な鹿毛馬に跨る最も新しい竜騎士の姿だった。例え今のあやのにグロスラッハの祝福の力を使うことはできなくとも、女王から信任を受けた竜騎士の存在は、兵たちのなけなしの勇気を奮い立たせる。


 あやのにとっても彼らの存在は、大きな励みだ。ひとりではない。バックランドの人々がいる。アルフレートが率いる兵士たちの中には、レイリアも、当然のようについてきたヘリオスフィアもいる。そして辰巳と麻由香の姿も。繋がるはずのなかった二つの世界が、繋がっている。選択は間違っていなかったと、そう確信できる。


 大逆鱗への道程も半ばを過ぎ、冷え込む山道での野営となったある日に、あやのは麻由香とレイリアが同じ天幕を組み立てている姿を目にした。


「ねえねえマユカ」


「なに? ちょっと、そっちちゃんと押さえて」


「押さえてるよ! マユカはアヤノの親友なんでしょ? 一緒に旅してたとき、アヤノがよく話してたんだ」


「……そう。あなたの話も聞いたけど、ずいぶんあの子と馬が合ってたみたいね」


「そ、そうかな?」


「言っておくけど褒めてないから。で、なに?」


「マユカは役者になりたいって本当?」


「……だとしたら?」


「演技するのって、面白い? わたし、実はお芝居って観たことないんだ! 興味はあったけど、ロクセンは本当に田舎で芸人一座も来なかったし、カザムダリアに着いたときは、もう劇場なんて開いてなかったから」


「なら、ずいぶん損してきたのね」


「え、そんなに?」


「興味あるのに観たことないなんて、損でしかないでしょ」


「ますます気になるよー! 戦いが終わったらまたなにか上演されるかなあ。でもきっとチケットって高いよね……ってそうじゃなくて!」


「声が大きい」


「ご、ごめん。じゃなくて、自分じゃない誰かになるのって、どんな気持ちなのかなって」


「……別に、私は私。演技してるからって、別人になるわけじゃない」


「そうなの?」


「当然でしょ、ただ別人に見えるように振舞ってるだけ。表情の作り方、身体の動かし方、声の出し方で、自分を隠してるだけ。誰かになるわけでも、誰かになりたいわけでもないから」


「じゃあ、どうして演技するの?」


「……描きたいから」


「?」


「なんでもない。早く建てるよ」


「え、ちょっとー! 気になるよー!」


 別の一方では、辰巳とヘリオスフィアが馬車の荷台から薪を降ろしていた。いや、辰巳が荷下ろししている脇で、ヘリオスフィアは車輪に寄りかかってリュートをつま弾いている。


「まったく。魔物の軍勢が待ち構えているところに乗りこんでいくなんて、無謀なだけじゃないか。まるでみんな、命を賭けることが崇高みたいな顔をしているんだから、やってられない」


「僕だって無茶で無謀だと思うけど、ここまで来たらやるしかないじゃないか。そう言うのが許せないのは知ってるけど、もっとみんなが盛り上がる曲のひとつでも演奏してほしいんだけどな」


「ずいぶん、俺のことに詳しいみたいじゃないか。さてはアヤノの陰口か? 俺が、口うるさくて文句ばかり、とでも聞いたか?」


「まさか、高千穂さんはそんなこと言わないよ。むしろ僕は、高千穂さんよりもあなたのことを知ってると思うけどね」


「君が俺のなにを知ってるって?」


「そうだなあ……吟遊詩人になったのは、教え子たちが名声に逸って、戦や冒険で散っていくことが耐えられなかったからとか。だから血の気の多い若者が嫌いなんだ」


「は?」


「けれど、彼らを語り継ぐ人間がいないことも、許せなかったんだよね。だから自分が吟遊詩人になって、歴史に埋もれる人々を歌い継ごうとした」


「待て待て、なんでそんなこと、俺は誰にも話してないのに!」


「だって僕が……ああ、いや、ええと……僕が魔法使いだから、かな」


「なんだそりゃ、理由になってない」


「そ、それより、この戦いに勝たなきゃ明日がないのは事実なんだ。曲がりなりにも吟遊詩人なら、みんなを鼓舞してよ。ほらほら」


「ふん。まあ、勝ってもらわなきゃ、歴史も物語も残らないからな。けれど、戦いが終わったら、絶対に詳しく聞かせてもらうぞ」


 リュートの音色に乗って、勇壮な歌が野営地に響く。歌声は戦意を高揚させ、心を奮い立たせる。十分な休息を取って夜が明ければ、山地を進む足取りも、いっそう力強いものになる。


 北へ進むにつれ、ますます大気は冷え込んでいく。空は澱み、呪いの気配が濃くなっていく。


 決戦の場は、もう近い。

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