第27話

 水面に浮き上がるように、あやのの意識は浮上する。呼び声に、光に導かれてゆく。


 はじめに感じたのは揺れだった。身体がゆらゆらと揺れている。身体だけではない。自分が横たわっている床そのものが揺れている。揺れはゆったりと穏やかだが、ゆりかごには激しすぎる。頬にわずかな水しぶき。そして名前を呼ぶ声。


「あやの、あやの! もう戻ってるんでしょう、いい加減目を覚まして」


 よく知った声。何度もこうして自分を呼び戻してくれた声。静かで冷静で、優しい声。うっすらとまぶたを開くと、陽の光の眩しさが飛び込んでくる。目を瞬かせると、焦点はすぐに見慣れた顔に結ばれた。


「麻由香ちゃん……」


「おはよう、ねぼすけ。気分はどう?」


「……頭がぼんやりします。あの、ここは?」


 仰向けに横たわったまま見上げても、視界にあるのは麻由香の澄ました顔と、青い空だけだ。いや、風を受けてはためく白い帆も見える。頭を横に向けると、白木造りの縁が見えた。


「舟の上ですか?」


「正解」


 麻由香の手を借りながら身体を起こし、手探りで自分の状態を確かめる。着慣れた学生服に、革のブーツ。白銀の鎧の上から深紅のマントを羽織っている。傍らには寄り添うように、レイリアから譲り受けた長剣が寝かされていた。リンデンで戦ったままの、最後の記憶にある出で立ちだ。


 戻ってきたのだ。肉体の領域としてのバックランドに。


「麻由香ちゃんが呼び戻してくれたんですね」


 麻由香がいる。学校の書庫で、虚ろの正体が判明したときに約束した通り、力を合わせてこの物語に決着をつけるために。制服の上から鋼鉄の胸当てを付け、柄の長い戦斧を背負った戦士のような出で立ちで、舟に乗っている。共にバックランドを駆け回りたいと思っていた親友が、いままさに目の前にいることが無性に嬉しくて、いけないと思っても笑みが浮かぶ。麻由香はそっぽを向いてしまうが、あやのは気にもしなかった。


「別に、私はあやのの顔をひっぱたいてただけだから」


「そういえばなんだかヒリヒリするような……でも、来てくれて嬉しいです」


「あそこまで関わって放り出すのも、夢見が悪いでしょ」


「麻由香ちゃんのそういう律義なところ、私大好きです」


 頭をはたかれた。照れ隠しだと思えば痛くもない。


「そんなのん気なこと言ってる場合?」


「そ、そうでした。あの、私はどうやってここに? ここはどの辺りなんですか? バックランドはどうなって……むぎゅ」


 次々に浮かぶ疑問は、麻由香の手のひらで乗り出した頭ごと押し返される。


「落ち着きなさい」


「す、すみません、つい」


「いいけど……その辺はあの人から聞いて」


 後ろを指す麻由香の肩越しに、舟の後方を覗き込み、あやのは勘違いに気付いた。乗っているのは自分たち二人だけだと思っていた。だが違った。舟には三人目が同乗していた。ここにいるはずのない人物が。フードの付いたゆったりとしたローブを纏い、肩に身の丈ほどもある木の杖をかけ、片手で舵を握る人影。


「あはは……おかえり、高千穂さん」


「え、古湊先輩?」


 物語の語り部であり、壁の向こう側にいるはずの古湊辰巳だ。思いがけない人物の姿に思わずあやのは立ち上がり、バランスを崩して尻もちをつく。


「だ、大丈夫?」


「いたた……大丈夫です。でもどうして古湊先輩がここに? だって先輩は」


 ゲームマスター、だったはずなのに。進行役が物語に介在していいはずがないのに。


「僕が元凶なら、虚ろを祓うことにも協力するべきじゃないかって、黛さんに言われたんだ。悩んだけど、そうすることにした。というか、悩みすぎて世界滅ぼしかけたようなもんだしね。だからもう、僕はゲームマスターじゃない」


「そう、だったんですか。じゃあ、古湊先輩も一緒に虚ろと戦ってくださるんですか?」


「もちろん。途中でシナリオ作るの挫けちゃうような奴だから、頼りないかもしれないけど、よろしくね」


 あやのは首を横に振る。誰が一番このバックランドのことを気にかけていたのかを、よく知っていたから。


「よろしくお願いします! 頼りにします!」


 思いがけぬ操舵者に頬を上気させるあやのに、手放しに歓迎されて照れくさそうに微笑む辰巳。その間に、咳払いが割って入る。


「経緯を説明するんじゃないんですか?」


「ごめん、そうだった。改めて、順番に説明するよ」


 舵を操りながら、辰巳は佇まいを直す。あやのもそれに倣って、背筋を伸ばした。


「僕たちがいるのはバックランドの西、白金の船着き場の沖合。いまは港に向けて戻っているところだ。だいたいわかると思うけど、僕らは高千穂さんの魂を呼び戻すために来た」


「はい、予想はしてました」


 目覚める前のことは、もうぼんやりとしか思い出せない。ただ、胸の奥にあった熱が今はどこか遠くにいる。


「でもリンデンで負けた私の身体が、どうしてここにいるんですか?」


「グラーネだよ。僕たちがカザムダリアに到着したとき、同時に高千穂さんの身体を乗せたグラーネも、リンデンから帰ってきたんだ」


「グラーネが? 確かに勇敢な子だとは思ってましたけど」


「どんだけ頭がいい馬なんだか。しかもあり得ない話だけど、あやのの身体はまだ生きてた」


「え! まさかそんな、絶対死んだと思ってました……だって黒騎士に胸を貫かれて……」


「竜騎士の生命力は並じゃなかったってことかな。相当血を失っていたけれど、息絶えてはいなかったんだ。でも魔法で傷を塞いでも、どうしても目を覚まさなかった」


「曰く、魂が肉体を離れようとしてたそうよ。だからわざわざ、西の海まで迎えに来てあげたの」


 想像を超えた成り行きに、あやのはただ繰り返し頷くことしかできない。


「まったく、いきなり手間かけさせるんだから」


「まあまあそう言わずに……あ、ほら見えてきた」


 辰巳が顔を上げ、舳先の向こうを指差す。


 青と青の接するところに見えていた影が、だんだんと形を露わにしながら迫りつつある。竜の背の国、バックランドだ。こうして外からそのシルエットを見るのは初めてだった。山なりに広がる大地の中で、大陸の中央を走る山脈がひと際高くそそり立っている。近づいていくにつれ、目指している港も見えてきた。桟橋も、舟小屋も東屋も、すべてが舟と同じ白木で作られた港だ。


「白金の船着き場。バックランドで亡くなった人を送り出す港だ」


 降り立ってみると、酷く静かな港だった。虚ろの気配も感じられない清廉な場所だというのに、人の住んでいる気配もない。ただ船着き場があるだけだ。灯台さえもない。この港に返ってくる舟は、普通いないからだ。だが不思議と寂しさはない。ここは安寧の地への旅路の安全を願うための場所なのだ。静かな港は、優しい祈りを感じさせる。


 白い景色の中で動く影たちがいた。あやのたちの姿を見つけ、頭を振って蹄を鳴らしている。


「グラーネ!」


 繋ぎ場に留められた馬たちにあやのが駆け寄ると、グラーネはあやのの差し出す手に鼻先を擦り付ける。あやのは鹿毛馬の鼻面を優しく撫で、額に額を押し付けた。


「グラーネ、あなたが私の身体を連れ帰ってくれたんですね。ありがとうございます、勇敢で優しい私の相棒」


 鼻を鳴らすグラーネの手綱を解き、背に飛び乗る。麻由香と辰巳もそれぞれの馬に跨った。あやのは最後にもう一度だけ白金の船着き場を見る。


 港の先に広がる海の向こうへと旅立った魂のことを想うと、名残惜しさを覚える。だがいつまでも未練を残すわけにはいかない。この世界で、まだ大きな戦いが残っているのだ。


 三つの影が駆け出した。一路東へと向けて、この世界に夜明けを呼ぶために。





「アヤノーーーーーー!」


「レ、レイリアさん!」


 カザムダリアの門を潜るなり飛びついてきた人影を、あやのは面食らいながら受け止めた。輝くような金の髪の少女は、肩に顔を埋めて鼻をすする。ロクセンのレイリア。出会ったときと変わらない爛漫な振る舞いは、思わずあやのの目頭まで熱くさせる。待っててくれる人がいた、それだけで戻ってきた意味がある。辰巳と麻由香の視線を気にしながらも、あやのはぐすぐすと肩を揺らすレイリアの髪を、優しく撫でつける。


「アヤノ、無事でよかったよお。ヘリオスフィアはリンデンで別れたっていうし、冷たくなって戻ってきたときは本当にもうダメなんじゃないかってわたし」


「ご心配おかけして、すみませんでした。でもこの通り、無事に戻って来られました。ヘリオスフィアさんも戻られてるんですね」


「ああ、この通り。アヤノの言う通り、魔物どもは俺なんかちっとも眼中にない様子だったよ」


 レイリアの後ろから姿を現したヘリオスフィアは、伊達男ぶりこそ変わらないものの、どこか憔悴した顔つきをしている。


「言ったはずだよな、敗北で終わるような叙事詩は許さないと。それがなんだ! 死に掛けで戻ってくるどころじゃない、君はほとんど死んでたんだぞ! しかも、君の友人とやらが突然現れて連れて行った日には、もう君に会うことはないんだなと覚悟さえした。だっていうのに今更のこのこ戻ってくるなんて! ましてや……」


「ちょっと、ヘリオスフィア!」


 口舌の止まらない吟遊詩人は、レイリアの一喝で気まずそうに口を閉じるが、あやのは言葉の続きを正しく読み取った。


「いえ、ヘリオスフィアさんのおっしゃる通りです。のこのこ戻ってきてしまいました。私は、黒騎士に負けたのに」


 俯くレイリアたちの代わりに、あやのは空を見上げる。


 赤い。この赤はリンデンで見た空の色だ。東の彼方を染めていた虚ろの呪いが、いよいよ王都まで侵食しつつある。黒騎士が虚ろの呪いを増幅させ、勢力を伸ばしている。紫水晶の書によってどれほどの力を得たのか、想像するだに恐ろしい。カザムダリアの街並みも、誰もが扉を固く閉じ、鎧戸を閉ざして息を潜めている。皆怯えているのだ。いつ襲い来るとも知れない虚ろの魔物を。絶大な力を手にした黒騎士の存在を。


「私は」


 ヘリオスフィアは手であやのの言葉を制し、小さく首を振った。


「戻ってきたなら、それでいい。まだ終わりじゃないんだろう?」


「はい、もちろんです」


「だったら急げ。女王陛下がお待ちだ」

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