第26話

 とにかく一刻も早く上へ、頂上へ。雲間から差す光は、変わらず岩山のてっぺんを照らしている。誰かが呼ぶ声がする。もう疑わない。あやのはあの光の下に呼ばれている。空気の唸る気配を感じ取ったなら、即座に岩陰に身を隠す。二人の頭上を水しぶきを上げながら長い足が擦過していったのを見送り、転がるように岩壁をよじ登る。頂上は未だ遠く、登れば登るほど足掛かりも乏しくなっていく。気付けばもはや、岩壁の隙間やでっぱりに手をかけ、壁をよじ登るような有様になっている。


「きゃっ!」


 足を踏み外しかけ、突き出た岩にしがみつく。狭い岩棚の上で、思わず足元を見た。高い。いつの間にこんなに高いところまで昇って来ていたのだろう。岩礁はそそり立つ岩が複雑に絡み合い、さっきまで隠れていた洞穴の場所さえも、もはや見分けがつかない。


 岩礁を取り囲む海面から生えるのは、吸盤のついた軟体の足だ。返す光もないというのに、てらてらと怪しげにぬめっている。波打ち際で見たときと変わらない。だが高所から見下ろしたあやのは、その無数の足が蠢いている海面の下を見た。岩礁を丸ごと飲み込んでしまいそうな黒い巨大な影を。影の中心で光る、黄色く光る恐るべき眼を。


 喉の奥から引き攣った声が漏れる。こわい。今までも恐ろしい怪物とは、対面してきたはずなのに。あれは、虚ろの呪いなどよりももっと忌まわしく絶対的なものだと、本能よりも深い部分で理解してしまう。


「見ちゃだめだアヤノ! 早く上に……ッ!」


 声が消える。すぐ隣にいたはずのリッケルトの姿と共に。


「リッケルトさん!」


「ぐぉ……!」


 咄嗟に伸ばした手が、すんでのところでリッケルトの腕を掴んだ。恐るべき影から生える足が、小さな子供が小枝を掴むような無造作さで、リッケルトの身体に巻き付き宙に持ち上げている。みしみしと締め上げられ、骨の軋む感触が手のひらから伝わってくる。ねじり上げられた布切れから滴る水滴のように、苦悶の呻きが零れ落ちる。


「はなせ、アヤノ……!」


 縁起でもない言葉に応える余力もなく、あやのは全霊でリッケルトの身体を繋ぎとめる。一瞬でも気を抜けば、自分も岩棚から引き剥がされてしまいかねない。歯を食いしばり、両の手の指先が真っ白になるほど力を籠めても、じりじりと身体が岩壁から浮き上がっていこうとする。竜騎士の力を持ってしても。


 竜騎士の力を?


 そうだ。どうして忘れていたのだろう。自分は竜騎士だということを。胸の奥に灯る熱は、ただ竜の血が流れているのではない。この身に宿るのは、竜から授かった大いなる母の祝福だ。単なる力ではない。


 あやのの奥底に宿っているのは、竜の魂そのものだ。


「グロスラッハさん!」


 突風が吹き抜ける。ぶづりと生々しい音と共に、せめぎ合っていた力が急に消え、リッケルトの身体が岩棚に戻ってくる。ぼとりと足の先端がそれに続き、縁から滑り落ちていった。断ち切られた足が、悶えるようにのたうっている。目の前の一本ばかりではない。海面から突き出た足たちが、水面の奥に潜む影さえもが、慄いている。突如として現れた、強大な暴虐の気配に。


「いたた……いったいなにが……」


 リッケルトは、唖然として眼前の光景に釘付けになった。風の音がする。いや、羽ばたきだ。目と鼻の先に現れた影が、翼を羽ばたかせ浮かんでいる。黒く塗りつぶされた岩礁で、そこだけに色を差したような深紅の巨大な影が。恐れをなしたように足たちが海中に沈み、黄色い眼をした影も姿を隠すと、翼を持つ深紅の影は、近くの岩の上に降り立つ。長い首が持ち上がり、角の生えた頭が二人のいる岩棚の前に現れる。リッケルトは尻もちをついたまま後退り、あやのは当然のように歩み出た。


『まったく、次に貴様と言葉を交わすのは黄金の原でだとばかり思っていたのだがな。よもやこんな僻地で相見えるとは、不甲斐ない騎士もいたものだ』


「すみません、グロスラッハさん……でも、おかげさまで助かりました」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。いったいなにが、どういう」


 震える声に振り返ると、リッケルトは目を白黒させながら、続く言葉も思いつかないまま口を開け閉めしている。そういえばきちんと名乗っていなかった。「改めて自己紹介させてください。私はその、竜騎士なんです。こちらは私に祝福を与えてくれた、グロスラッハさんです」


『覚える必要などない、人間。我も貴様のことなど覚えるつもりはない』


「もう、失礼なこと言っちゃだめですグロスラッハさん!」


 竜騎士の契約は最も古い魔法であり、魂を穢す虚ろの呪いさえ届くことはない。その魂が、契約を結び祝福を分け与えた竜騎士と共にあるからだ。岩礁が魂の領域ならば。あやのの考え通り、ここでならグロスラッハの魂も再びかつての姿を取り戻せるのだった。


「は……ははははは!」


「リ、リッケルトさん?」


「まったく、君には本当に驚かされてばかりだな! どうりで、伝説の魔導書探しなんて任務に抜擢されるわけだ!」


 緊張が解けた反動か、突拍子もない出来事が続いたせいか、リッケルトは腹を抱えて笑い転げていた。ようやく収まったのは、グロスラッハの目が呆れに染まる頃になってだった。


「落ち着きましたか?」


「はは……悪い、なんだか可笑しくってな」


「いえ、私こそ驚かせてしまって申し訳ありません。でも、クラーケンは姿を消しましたから、今のうちに頂上を目指しましょう」


 もう一度岩壁に手をかけようか、それともグロスラッハに運んでもらおうか。あやのが逡巡している間、リッケルトは立ち上がらなかった。「いや」とだけ呟いて、力なく首を横に振る。


「リッケルトさん?」


「それなんだけど、アヤノ。多分俺は行けないよ」


「え?」


 なにを言いだすのか。口元は笑みを形作っているが、冗談を言っている様子ではない。浮かんでいるのは、なにもかもを諦めた笑みだ。


「君の言う光が、俺にはどこにも見えないんだ」


「でも、あんなにはっきり!」


 幻覚? そんなはずはない、頂上に近づくほど、暖かさすら感じるというのに。思わずグロスラッハの顔を仰ぎ見ると、赤竜はひとつ鼻を鳴らした。


『見えている。だがそれは、我が魂が貴様と繋がっているからだ。呼ばれているのは貴様だけだ、アヤノ』


「どうしてですか? 私が竜騎士だからですか?」


『いいや』


 グロスラッハは目を瞑る。


『竜騎士だからではない、貴様がその道を選んだからだ。故に呼ばれている。この者はそうではない』


「私が、選んだから」


 バックランドで戦うことを。ならやはり、あの光は肉体の領域へ繋がっているのだ。なおのこと、リッケルトも一緒に行くべきだ。


「俺は違う。そりゃ、戻れるものなら戻りたいけれど、もうその資格がないんだ。俺には黄金の原へ向かうしかなかったのに、未練に引っ張られて航路も見失った。これ以上はどこにも行けないんだよ」


 あの光はバックランドへ繋がっている。だがそれは、西への航路を逆行することに他ならない。自然の摂理の逆行だ。魂の先行きを個人の意志で決めることなど、本来あってはならない。ましてや肉体を離れた魂だけが現世に戻ることなど。


 だったらせめて、この岩礁から連れ出したいのに。西への航路なんてあやのにはわかるはずもない。なにかひとつ、あやのに出来ることがあるとすれば。


「……未練」


「だいたい俺は、村のみんなを守れなかったんだ。そんな奴が黄金の原に行く資格なんてないし、行ったところで合わせる顔もないだろう」


「リッケルトさんの未練は、とんだ的外れです」


 棘のある口ぶりで断言する。


「なんだよ、いきなり」


 事実、あやのは怒っていた。遺されたものの気持ちを勝手に推し量るこの男に。


「どうして村を守ろうとして命を落とした人を、皆が受け入れないなんて思うんですか。あなたが守ろうとしたのは、そんな狭量な人たちなんですか」


「別に、そういうわけじゃないが」


「だいたい、村を守れなかったなんて考えがそもそも大間違いなんです!」


 叩きつけるように断言する。リッケルトの大きな勘違いを。


「あなたはみんなを守りました。誰一人守れなかった人なんていません」


「なんでアヤノにそんなことが」


 判るに決まっている。


「一緒に旅をしたからです、ロクセンの皆さんと!」


「……なに?」


「村長さんもメリンダさんも、それにレイリアさんも無事です。今は村を離れ、カザムダリアに身を寄せています」


「ま、待ってくれ。俺がロクセンの出身だって、話してないよな」


「聞いていませんし、レイリアさんからもあなたの名前までは聞きませんでした」


 それでもあやのは確信していた。会ったことのないはずのこの男を、ひと目見たときから知っている気がしていたのはなぜか。直感を信じた。リッケルトとの間には、浅からぬ繋がりがあったから。


「あなたの剣は、レイリアさんに譲っていただいて、今は私が使っています。私はその剣で、もう一度黒騎士に挑みます。あなたが村を守るために振るった剣で」


「……そうだったのか」


 リッケルトの身体から力が抜ける。なにか憑き物の落ちたように、芯から安堵したように。


 あやのは不意に熱を感じ、振り返った。それは光だった。雲間から差す光ではない。もっとずっと彼方、暗い空と海の接するところから、しかし太陽のように明るく暖かく照らす金色の輝きだ。


「あれは」


 航路だ。西へ向かう、光の航路が見える。


「リッケルトさん!」


「あ、ああ、見えてる。けれど、舟がなけりゃどうしようもない」


 航路が見えたからといって、なかったはずの船が突然湧き出てくるわけもない。だったら。あやのに迷いはなかった。海を渡る方法は、舟ばかりではない。


「グロスラッハさん、あの光のもとまでリッケルトさんを運んでいくことは出来ますか?」


「なんだって?」


『……正気かアヤノ』


「もちろんです。それとも、人間を乗せて飛ぶのは難しいですか?」


『人間など、木の葉が張り付いてるのとなんら変わるものか』


「でしたら」


「待て、待ってくれ!」


 今にも結論を出しそうな二者の間に、立ち上がったリッケルトが腕を振りながら割り込んだ。


「そんなのは駄目だ! 竜の祝福って、あれだろう、竜騎士の力の源だろう! これから戦いに行こうっていうのに、力を手放すヤツがどこにいるんだ!」


「別に手放すわけではありません。リッケルトさんを送り届けたら、また戻ってきてください。できますよね、私とグロスラッハさんの魂は繋がっていますから」


『……貴様、そんなに竜遣いの荒い人間だったか』


「あなたの影響かもしれませんね」


「いや、だとしても……!」


 なおも食い下がろうとするリッケルトを、あやのは押し止める。有無を言わさぬ眼差しで。


「あなたを岩礁に置き去りにして戻ってきました、なんてレイリアさんに報告させないでください」


 それきり、リッケルトはなにも言い返す言葉を持たなかった。


「それじゃあ、お願いしますねグロスラッハさん。リッケルトさんも、どうぞお気を付けて」


 岩棚に背を向けたグロスラッハと、その鱗に跨るリッケルトの姿はどこか神話的だ。これから彼らは、彼方の光を目指して飛んで行く。


「まさか、竜の背に乗って黄金の原に渡ることになるなんてな」


『黄金の原か。少し見物していくのもいいかもしれんな』


「観光に行くんじゃないですからね、グロスラッハさん」


 あやのが半眼で釘を刺すと、赤竜はわざとらしく顔を背ける。


『契約を交わした魂を引き剥がす騎士のもとに、竜の魂が戻ってくることなど、あまり期待しないことだな』


「ちゃんと戻って来ないと、グロームデイン陛下に言いつけますから」


 呻き声が、グロスラッハの牙の間から漏れた。


『貴様……』


「さあ、行ってください! 私もこの岩山を登りきらないといけませんから」


 巨大な翼が力強く羽ばたきをはじめ、岩礁に風が吹き荒れる。あやのは目を背けず、その姿を見守った。


「アヤノ!」


 だんだんと高度を上げていくグロスラッハの背中から、リッケルトが振り返る。落っこちないでくださいね。無粋な考えは口には出さず、黙って手を振り返す。


「ありがとう、本当に! レイリアたちのこと、バックランドのこと、頼んだぞ!」


 最後の方は風圧にかき消され、飛び明かり遠ざかる背中に連れて行かれてしまったが、それでも彼の想いは確かに届いた。だからあやのは、最後まで見送ることなく、岩壁に向き直って手をかける。のんびりしている暇はない。バックランドで待っている人たちがいる。救われるのを待っている世界がある。決意と共に腕を伸ばし、足をかける。空が近づく。光が強くなる。呼び声が聞こえる。最後の縁に手をかけて、身体を持ち上げる。


 あやのは光に手を伸ばす。呼び声に応えるように。あやのは、光に包まれた。

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