第五章『バックランドの竜騎士たち』

第25話

 髪を揺らす湿った風、頬に当たる水滴。鼻腔をくすぐるしょっぱい空気と、上下左右に揺れる不安定な足下に、あやのは意識を取り戻す。


 ぼんやりとした視界には、一面の青が広がっている。上にも、下にも。立っているのは、固く白い無垢材の上。ばたばたと布が煽られる音がする。帆の揺れる音。


 ここはどこだろう。


 不意に認識が意識に追いつき、感覚が急浮上する。あやのはよろけ、危うく転びかけた。舟だ。あやのは青々と広がる空の下、波立つ水面に揺られながら進む、小さな帆船の上に立っていた。けれどどうして。舟が波を乗り越えるたびに、塩辛いしぶきが降りかかる。


「私は……そうです、黒騎士に刺されて……」


 胸元を見下ろせば、着ているのはいつもの学生服だけで、武器も鎧もない。だが胸の内に暖かな熱を感じる。間違いない、ここはバックランド。いつもの書庫から、またこの世界に飛び込んできた。だが、リンデンで黒騎士に胸を貫かれたはずなのに、いるのは呪いなどとても無縁そうな、晴れやかな青の中だ。そして、あやのはひとりだった。


 どこに向かっているのだろう。舟は勝手に進んで行く。光へ向かって。光?


「明るい……」


 舳先の遥か彼方、空の青と海の青が接するところから、眩い光が溢れている。安らぎに満ちた、金色の光。平穏な世界。亡くなった人の魂は西の海を渡って、その果てにある黄金の原に行く。レイリアの言葉が蘇る。唐突に理解した。


「そっか、私は、死んだんですね」


 だから彼方の光は煌びやかに、しかし優しくあやのを迎え入れようとしているのだ。目が離せない。強く心が惹かれる。永遠の安寧が約束された地へ。きっとこの海を渡り切れば、どんな不安や悩みからも解放され、穏やかな時を過ごせるのだろう。生前の出来事を、なにもかも忘れて。


 ダメだ。そんなことは出来ない。なにもかも投げ捨てて黄金の原へ向かうなんて、この上ない裏切りになってしまう。エルケンバルトへの、グロームデインへの、ヘリオスフィアへの、レイリアへの、グロスラッハへの。この世界の行く末を託してくれた、辰巳への裏切りだ。


 私にはまだ、バックランドでやらなきゃいけないことがあるんです!


 あやのは振り返る。東にあるはずの陸地を見ようとして。世界が暗転する。


「へっ?」


 あやのは、黒の中にいた。周囲の光景は一変している。重く雲の立ち込める暗夜の空を映した、黒く暗い海。ほんのひと息前まで存在していたはずの明るい海原は消え失せ、今は見るものを不安にさせる暗黒の海に放り出されている。冷たい風が背筋を震わせる。


「い、いったいなにが……きゃあ!」


 がりがりと削るような音と共に、舟の舳先が持ち上がる。波を越えるためではない。なにかに乗り上げたのだ。急停止した舟の制動は、あやのの身体を木っ端のように前方へと放り出す。硬くごつごつとした岩場があやのを受け止めた。投げ出された先は海中ではなかったが、なにひとつ慰めにはならない。手ひどく身体を打ち付け、あやのは苦悶する。


「な、なにが……」


 顔を上げ、言葉を飲み込んだ。


 目の前に影が聳えている。暗い海の中に突き出た、巨大な棘のような影。暗く黒く、酷く不吉に見える。あやののへたり込む岩場からひと繋ぎになった、海原にそそり立つ岩の山だ。舟はこの、ほんの一瞬前まで影も形もなかったはずの岩山に座礁したようだった。


 違う本の頁を無理やりつなぎ合わせたような転換に、混乱が渦巻く。舟は打ち寄せる波の力で岩礁に叩きつけられ、ひとりではとても動かせそうにない。


「誰か! 誰かいませんか!」


 声を張り上げても、岩場に砕ける波の音が返ってくるばかりだ。それさえも、飛ぶ鳥の一羽すら見当たらない虚しく暗い空に吸い込まれていき、生けるものの気配はなにひとつない。


 いったいこんなところで、私はどうすればいいんですか。船が西へ進もうとするなら、舳先を東へ向けてやればいいかと思っていた。だがこの岩礁にひとり投げ出されては、どうすることも出来ない。バックランドがどの方角にあるのか。いやそれどころか、この海がバックランドに繋がっているのかさえ定かではない。


 そして事態はさらにあやのを混乱させようとする。返事が返ってきたのだ。波とは違う水音が。ひとつ、二つ三つ。なにかが水面から起き上がる音が。


「な、に……」


 足だ。太く長く、関節のない軟体の足。無数の吸盤が並んだ巨大な足が三本、海面から顔を出して蠢いている。胴回りは木の幹ほどもあり、長さは見えている部分だけで五メートル以上、水面から下にどれほど続いているのかは想像もつかない。


 とてつもなく危険ななにかが、すぐそばの海中に潜んでいる。剣の一本もなしで相対してはいけないなにかが。


 恐怖に身を凍らせているあやのを余所に、足が動く。まず餌食になったのは舟だった。小ぶりだが、あやのが悠々と乗れていた舟は、まるで小枝のように巻き付いた足にへし折られ、木片と化して周囲にまき散らされる。


 足は一本ではない。目の前の光景を呆然と見つめることしかできないあやのに狙いを定め、別の足が伸びてくる。動けない。身体が動かない。非現実的な光景を飲み込むより先に、軟体の足があやのを飲み込もうとする。


「危ない!」


 身体が動いた。動かされた。押し倒された身体が岩場に倒れ込む。すぐ上を、長い足が過ぎ去っていく。


「起きろ、逃げるぞ!」


「えっ、えっ?」


 手を引かれ、半ば引きずられるように立ち上がり、水しぶきを上げながら濡れた岩場を駆けていく。前にいる背中の持ち主は、見たことのない黒髪の男だ。誰だろう。疑問を浮かべる暇もなく、男は自身もしゃがみながらあやのの頭を無理やり下げさせる。また横薙ぎに振るわれた足が、頭上を通り過ぎた。


「こっちだ!」


 岩場の影、巨大な足が入ってこれない隙間に駆け込む男に、今度こそ自分の意志であやのはついて行く。岩と岩の狭い間に身をねじ込み、男は岩棚の下に出来た小さな洞穴に入っていく。あやのが洞穴に転がり込んだ直後、無理やり差し込まれた足が岩場を引っ掻き、口惜しそうに引っ込んでいった。


 喉を鳴らしながら洞穴の外を睨んでも、もう足が伸びてくる気配はない。忘れていた呼吸を浅く繰り返すと、昂る気持ちが口からあふれ出てくる。


「ああああのあの、あれいったい何ですか? ここはどこですか! なにがどうなって……」


「落ち着け、落ち着けって!」


 両手を突き出した男に宥められ、深く息を吸ってゆっくりと吐き出す。まだ息は上がっているが、それでも興奮は収まった。


「ここならひとまずは安全だ。けど驚いた……まさか、俺以外に誰か現れるなんて思ってなかった」


「す、すみません、騒いでしまって」


 振り返ると、岩壁に背中を預けて座り込んだ男が、あやのに負けず劣らず肩を上下させながら、深々と息を吐きだしている。正面から見ると男は、精悍な顔立ちをしていた。年は二十代半ば。がっしりとして引き締まった身体に纏っているのは、バックランドであればどこででも見かける綿麻のチュニックだ。やはり見覚えなどあるはずもない。だがどうしてかあやのは、初対面のはずのその男の気配を知っているような気がしてならなかった。


「危ないところを助けていただいて、ありがとうございます。失礼ですが、あなたは……」


「俺はリッケルト。君こそ誰だ? どうやって来たんだ? この岩礁にあのバケモノ以外が現れたことなんて、今まで一度もなかったのに」


「わ、私はあやのといいます。どうやってここに来たのかは……その、舟が急に座礁したとしか」


 リッケルトは軽く息を吐いて頷いた。


「君も同じか」


「じゃあ、あなたも?」


「ああ、俺も舟に乗っていた。けれど突然目の前にこの岩礁が現れていた。どうにか抜け出す方法はないかと探したが、結局いるのはあのバケモノだけだ」


「あれはいったいなんですか?」


「さあ……伝説の海の怪物、クラーケンかな。わかるのは、岩場に出ると襲い掛かってくることだけだ」


 聞けば聞くほど疑問ばかりが浮かぶ。


「リッケルトさんは、どのくらいここに?」


 真っ先に浮かんだ疑問を尋ねると、リッケルトは力なく首を横に振った。


「ついさっき辿り着いたばかりのような気もするし、もう何百年もいる気もする。この場所には朝も夜もない、そもそも時間の流れがないんだ」


「時間の流れが、ない?」


「そうさ。ちっとも腹は減らないし、眠くもならない。ただ、だんだんと自分が薄れていくような気がしていた。アヤノの声が聞こえてきて、急に意識を取り戻したような気分だ」


 もう百度も繰り返した話を再度するようなかすれた声音は、とうの昔にわかり切っていたことを初めて聞かされたようで、あやのは愕然と目を見開き頭を振る。たった今ここにやってきたばかりのはずだ。この暗い光景を何日も眺め続けていたはずなどないのに。


「俺たちは死んだんだ、死んで西へ向かう途中だった。君も自覚してるだろう?」


「……それは、はい。舟は最初、光へ向けて進んでいました。暖かくて、安心する光に。やっぱりの光の先に、黄金の原があったんですよね」


「多分な。けれど、俺たちはここにいる」


 リッケルトの頭が、がっくりと項垂れる。


「俺たちは弾き出されたんだろ。黄金の原に入る資格はないと見做されたのかもな」


「まさか、そんな」


 あやのの目には、リッケルトは安寧の園から蹴り出されるような人物には見えない。まだ出会ってほんのわずかに言葉を交わしただけのはずにもかかわらず、不思議と彼の誠実さは信じられる。


「きっとなにか、理由があるんです。私たちがここにいる理由が」


「黄金の原から門前払いを食らう理由ってことか」


「そ、そういう意味ではなく!」


 うっすらといたずらっぽい笑みを浮かべた顔が持ち上がる。


「悪い、冗談だよ。こうやって誰かと話すのも、もうずいぶん久しぶりに感じられてさ」


 リッケルトは顔を上げ、佇まいを直す。視線は宙を泳ぐが、表情は芳しくない。


「とは言え、本当に心当たりがないんだ」


「不躾ですけど、バックランドでの最期については、なにか覚えてますか?」


 リッケルトの顔が強張る。


 酷な質問だ。自分の死にざまを楽しく話せる人間などいない。


「……戦って、負けた」


「戦い、ですか? それは」


「魔物とだ」


 震える手を固く握り、呻くような言葉が絞り出される。


「住んでいた場所を守ろうとしたんだ。無謀な話だよな。村の傍に現れた魔物を追い払おうと、制止も聞かずに剣を握って飛び出して……結局ここにいる」


 自嘲するような声音だ。あるいはそうすることで、自分を守っているのかもしれない。無鉄砲で、向こう見ずで、溢れ出すほどの正義感に溺れ、命を落とした自分を。


 あやのは、よく似た誰かを知っている気がしてならなかった。


「皆を守りたい一心だった。けれど、気が付いたらあの小舟の上にいて……すぐに理解したよ、ああ、俺は死んだんだって」


「そう、でしたか」


「はじめは、このまま黄金の原にたどり着くのかって考えてたけど、どうしてもみんなを守れなかったことが悔しくて、情けなくて……で、今度はここにたどり着いたいたってわけだ」


 やはり話を聞いても、この青年が黄金の原から弾かれるような理由は見当たらない。むしろその勇敢さで、金剛槌の館に招かれていてもおかしくないのではないだろうか。いったいどこに、この岩礁に来る契機があったというのか。


 ひとつあやのと共通していることがあるとすれば、彼もまた戦いの中での死だったということくらいだろうか。敵を前に本懐を遂げることなく命を落とし、バックランドでの生に悔いを残している。黄金の原の安息を振り切るほどの悔いを。


 ふと、どこかで聞いた話を思い出す。かつて読んだことのある物語の中で。この世とあの世の境では、やってはいけないことがある。


 はたと、あやのは顔を上げた。もしかして。


「もしかして、後ろを振り返りましたか?」


「え? ああ……言われてみればそうだな。せめて誰かひとりでも生き延びていたらって、バックランドをひと目見ようとして」


「それです!」


 考えてみれば単純な話だ。あの帆船は、死者の魂を黄金の原へと運ぶ舟だ。安寧と平穏の地へ、現世のすべてを忘れられる世界へ。だが。ギリシャ神話や日本神話、果ては旧約聖書にも、なにかの境を跨ぐ物語には、決まってタブーが存在する。見るなのタブーが。


「振り返ってしまったからです。私もそうでした。バックランドでやり遂げられなかった使命に後ろ髪を引かれて、振り返ってしまったんです」


「だから、魂が座礁したってことか」


 現世に未練を残したものは、幽世へは渡れない。これもよくある話だ。黄金の原の放つ光に背を向けるほどの未練を残したものは、こうして岩礁に流れ着いてしまう。そして行き場を失くした魂は、ゆくゆくはあのバケモノの餌食になる。その魂がどうなるのかは、考えたくもない。


 けれどもこれで、二人が岩礁へ辿り着いた理由はわかった。あとは。


 ずるずるとへたり込む音。リッケルトはますます脱力し、低く湿った天井を仰いでいる。


「納得は出来るが、結局同じことじゃないか。原因がわかったところで、ここから出る方法なんてない」


「う、そ、そうですね……」


 あやのたちが身を隠す岩礁の周りは、一面に暗い海原が広がっている。舟もなしに、仮にあったとしても、剣の一本もなしにあの巨大な足を退けて漕ぎ出すことは、到底不可能だ。土台、漕ぎ出したところでバックランドに辿り着けるのかさえ怪しいものだ。


 思わずあやのも、脱力して座り込む。


 このまま、いつまでもこの岩礁にいることになってしまうのだろうか。終わりのない時の果てに、自分が誰かも判らなくなってしまうまで。


 重く吐き出された吐息が聞こえてくる。


「嘆いていても仕方がないのは解ってるけど、こうも進退窮まると、ため息しか出ないな」


「すみません、なにか解決策になるかと思ったんですが」


 がっくりと項垂れる。状況は振り出しに戻り、打つ手はどこにも見つからない。やっと虚ろの正体を掴んで、今度こそ呪いを解くためにバックランドに戻ってきたというのに。せめて黄金の原にたどり着いてしまっていた方が、まだ身動きも取れたかもしれないのに。


「そういえば」


「はい?」


「アヤノを振り返らせた使命って、なんだったんだ?」


 気を紛らわすように尋ねるリッケルトに、あやのはわずかに口籠る。


「ええと、それは」


「俺も話したんだ、よければ聞かせてくれよ。無理にとは言わないけれど」


 誤魔化し方を考えるのはすぐにやめた。リッケルトは話してくれた。なのに自分が黙っているのは、公平ではない。


「バックランドを救うための使命です。虚ろの呪いの正体を求めて、リンデンの大図書館で紫水晶の書を探していました」


「紫水晶の書? あの究極の魔導書を? とんでもない大仕事じゃないか!」


 身を乗り出したリッケルトに、思わず笑みが浮かんでしまう。一笑に付されるかとも思ったのに、彼はまるで寝物語の続きをねだる子供のように目を輝かせている。


「疑わないんですか?」


「君はこんなところでつまらない嘘を吐くような奴じゃない、そんなことくらいわかる。それで、どうなったんだ?」


「魔導書は見つけました。驚かないでくださいね、なんと図書館そのものが紫水晶の書だったんです」


「まさか! 誰も見つけられていないなんて噂は聞いていたけど、それじゃあずっとみんなの目の前にあったってことじゃないか」


「その通りだったんです! 私も理解したときは、開いた口が塞がりませんでした」


 リンデンで目の当たりにした魔法と伝説は、二人の彷徨い人からほんのひととき憂鬱さを忘れさせる。お話の終わりが来るまでの、ほんのわずかな時間だけ。


「でも、すべて罠だったんです。黒騎士は、私が紫水晶の書を手に入れるのを待っていました。恐るべき魔術で、呪いをさらに広めるために」


 今頃バックランドでは、どれほど呪いが猛威を振るっているのだろうか。そう思えば居ても立っても居られないが、気持ちが逸ったところで状況は変わらない。


「じゃあ君は、黒騎士と戦って負けたのか」あやのが頷くと、リッケルトは神妙な面持ちで膝に頬杖を付く。「……それは、振り返らないわけにはいかないな」


「私が不甲斐ないばかりに、呪いはきっと、ますますバックランドを蝕んでいます」


「よせよ、まるで自分の責任みたいに。黒騎士に殺されたことを責められる筋合いなんて、どこにあるっていうんだ。ましてや、湧いて出た魔物にやられた俺の立場がないだろ」


 ほんの少し強張っていた肩から、力が抜ける。


「でも、なんだって君がそんな危険な任務に携わることになったんだ?」


「それは、私が……」


 あやのは言葉を飲み込み、顔を上げる。不意に閉ざされた口を訝しんだリッケルトが訊ねようとするが、あやのはそれを手で制する。


 耳を澄ませる。波と音に風の音。闇の底から立ち昇る泡の音。それが耳に届くすべてだった。今の一瞬以外は。


「なにか聞こえませんでしたか?」


「え? いや、俺にはなにも……あ、おい!」


 立ち上がり、穴倉の外に顔を出して意識を集中する。幻聴だろうか。だが確かに聞こえた。耳に馴染んだ声が。今もまた。


 音ばかりではない。


「見てください、あれ!」


「なんだ、どこだ?」


「あれですよ! てっぺんのところ、光が見えます!」


 頭上に聳える巨大な岩山の先。立ち込める分厚く重たい暗雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいる。岩山の頂上にある高台を照らすように。眉間にしわを寄せて見上げるリッケルトの隣で、あやのは確信した。呼ばれている。あの光の下に行けば、きっとなにかが変わると。


「行きましょう、リッケルトさん」


「岩山を登っていくつもりか? 無茶言うな、途中で絶対にあの吸盤野郎の餌食になるぞ!」


 もちろん忘れてなどいない。だがこの洞穴に篭っていたところで、事態が好転するはずもない。


「危険は承知です。でも私はもう、いつまでも膝を抱えて蹲って、差し伸べられた手を払うようなことはしたくないんです」


 危なかろうが恐ろしかろうが、立ち上がって進まなければなにも変わらない。


「……まったく、俺なんかよりよっぽど無謀だな君は」


 つい最近、似たようなこと言われたな。そう思いながら洞穴から足を踏み出す。リッケルトもあとに続く。やっぱりいい人だ。だが安堵している暇はない。人がひとり通るのがやっとの狭い足場を頼りに、しがみつくように岩山を登り始めた矢先、暗い海のあちこちで水面が弾ける音が響き渡る。岩礁で砕ける波の音ではない。黒い海面から立ち上がる黒い影。


「き、来ました!」


「わかってる、早く登れ!」


 悠長に後ろを振り返ろうものなら、即座にクラーケンらしきものの餌食だ。岩肌に手をついて駆けのぼるあやのの頭上に、暗く重い影が落ちる。咄嗟に横に、突き出た岩に身体を打ち付けながら転がった直後、長く巨大な足が岩場に叩きつけられる。砕けた欠片が頬を掠める。リッケルトに腕を引き上げられ、足をもつれさせながら立ち上がり、また駆け出す。

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