第四章『高千穂あやのの物語』

第22話

 枕もとでやかましく喚き立てる目覚まし時計に起こされ、あやのはため息をつきながら手を伸ばしてアラームを止める。寝癖を整えて歯を磨き、制服に着替えてリビングに行き、心配性な両親の声を聞き流しながら朝食を飲み込む。通学路で吠えるポメラニアンの声も、満員の乗客に埋もれながら聞く電車のアナウンスも、なにもかもがどこか遠い。


 自分にもなにかが出来るような、そんな気にさせてくれた放課後の冒険が、結末を迎えることもなく唐突に終わりを告げた。


 その日以来、なにもかもが色褪せたようだった。ついこの間まで、無性に楽しくて仕方がなかった通学路は、いつの間にこんなにつまらないものになってしまったのだろう。どうやって目覚ましよりも早く起きて、予定よりも早い電車に飛び乗って、そそくさと学校に向かっていたのかも、もう思い出せない。バックランドでの冒険が終わって、まだほんの数日だというのに。


 教室に入っても、誰に挨拶することも、顔を合わせることもなく席に着き、ただ習慣のままに授業を受ける。麻由香とすら、結局まだきちんと話せてはいないままだ。話さなくてはいけないと思う気持ちに、気力が付いてこない。


 キャンペーンを切り上げて以来、辰巳は書庫に姿を現さなくなった。もしかしたら、日が経てばシナリオの続きが出来上がったと、物語を再開してくれるんじゃないか。そんな淡い期待も虚しく、図書室に向かったところで書庫の電気は消えたままだ。


 汐谷鞠絵とは、一度だけ話す機会があった。だが、彼女も辰巳がシナリオに行き詰っていたことは初耳だったのか、あやのから話を聞いて目を丸くしていた。


「私からこんなことを言うのも変だけれど、古湊くんの力になってあげて欲しいな」


 そんなことを言われたって、物語が終わってしまったら、私にはなにもできることなんてありません。あやのには、口をついて出かけた返事を飲み込んで、黙ってうなずくことしかできなかった。自分はただのプレイヤーだ。そんな自分が、どうして辰巳を助けることが出来るのだろう。自分にはなんの力もないのに。


 無味乾燥な日々をやり過ごし、授業内容と食事を強引に飲み下し、大好きだったはずの読書さえ手につかなくなって数日。あやのは熱を出して、学校を休んだ。


 重たい頭を抱えて起き上がることさえ億劫で、日中はほとんどの時間をベッドに潜り込んでやり過ごし、気付いたときには陽はすっかり沈んでいた。暗い部屋。カーテンの隙間から暗い空が覗く窓に、雨粒が打ち付けている。熱は下がっていたものの、身体はだるいまま、汗に湿った寝巻が肌に張り付いて、気分はますます憂鬱になる。空腹を覚えてもいたが、結局起き上がる気にはなれず、あやのはぼんやりとベッドから窓を眺める。


 こうして寝込むのも久しぶりだ。


 最近はだいぶ減っているが、幼い頃はもっと頻繁に熱を出していた。幼少期の記憶に一番残っている光景は、こうしてベッドから見上げる、窓の向こうの空だった。そんなあやのの、もっぱらの楽しみが読書になるのは、自然な成り行きだったのだろう。本の世界は楽しかった。いつでもどこでも、表紙をめくれば好きな世界に連れて行ってくれる。勇敢な主人公たちの心躍る冒険が、外へ遊びに行くこともままならない日々を忘れさせてくれた。


 でもいつかは。いつかは、私の物語も始まってほしい。そう願っていた。いつだって。だからあの書庫で始まった冒険に、いよいよその時が来たんだと思ったのに。


 目尻に浮かんだ涙を、部屋に飛び込んだノックの音に慌てて拭う。


「あやのちゃん、起きてる?」


「お、起きてます!」


 戸口からあやのの母が顔を覗かせる。手したトレイには湯気を立てるお椀。


「具合はどう?」


「うん、もうだいぶ良くなったよ。熱もなかった」


「本当? もう、いきなり熱出すなんて久しぶりだから、びっくりしちゃったわよ」


 電灯を点け、ベッドの脇に膝をつく母から顔を背ける。きっとこの気分のせいで熱を出したと思うと、無性に恥ずかしかった。


「ごめんなさい……」


「ばかね、謝る必要なんてないでしょ。食欲はある? おうどん食べられそう?」


「食べる。そこに置いといて」


 サイドボードに置かれたお椀には、黄色い卵の間から白い麺が顔を覗かせ、湯気とともに立ち昇る出汁と醤油の香りが食欲をそそる。昔から熱を出した日の夕食は、決まってこれだった。懐かしさ。情けなさ。いくつかの上手く言葉に言い表せない気持ち。それらがない交ぜになって、口から零れ落ちる。


「ねえ、お母さん」


「なあに?」


「私、昔からなにも変わってないね」


「どうしたの、突然」


「ううん、なんとなく」


 ついこの間までは、なんでもできる気がしていたのに。結局はそれも、空想の世界の中だけだと思い知らされた。


「お母さんは、そんなことないと思うけれど」


 だから、母の返答は意外だった。


「なんで……?」


「高校に入ってから、なんだかずっと楽しそうだったもの。放課後も週末も帰りが遅くなったりして。きっと、なにかのめり込むものが出来たのかな、って思ってたんだけど」


「それは」


 その通りだ。その通りだった。


「実はね、お父さんもお母さんも少し安心してたの」


 どういう意味だろう。顔を上げると、母は優しく笑っていた。


「だってあやのちゃん、なかなか自分からなにかを始めようとすることがなかったから。本を読むのが好きなのは、色んなお勉強にもなるし、いいことだと思う。だけど、あやのちゃんには本を読むだけじゃなくて、自分で実際にいろんなことに挑戦してみてほしいな、って思ってたから。やりたいことが見つかったならよかったなって」


 心配性の両親だと思っていた。けれど、あやのが詳しい理由も言わずに帰りが遅くなると伝えても、なにも追及しなかった。そんな心配をかけていたとは、思ってもいなかった。


「そう、なんだ」


「そうなのよ」


 ますます情けない。


「でもそんなに立派なことじゃないよ。ただ……ただ遊びに夢中になってただけ」


「あら、どんな遊び? スポーツでも始めたの?」


「ううん、そうじゃなくて」


 ちらりと目を向けると、母は好奇心を溢れさせながら、あやのの顔を覗き込んでいる。こうなった母は、答えを聞き出すまで引き下がらないと、これまでの経験が物語っている。


「物語の、主人公になる遊び」


「まあ」


 母の瞳が輝き、あやのの頬は赤らんだ。


 どんなお話なの? どうやって遊ぶの? 一から十まで聞き出そうとする母にたじろぎながら、TRPGと、バックランドでの冒険について説明していく。


 書庫での辰巳との出会い。巨大なドラゴンとの遭遇。ダイスの目に手に汗握る、魔物たちとの激闘。


 一度話始めると、放課後の冒険の記憶は、出口を求めていたかのようにあやのの口から溢れ出していく。楽しそうに頷きながら、時折質問を挟む母は聞き上手で、ますますあやのの口を加速させる。


 だが、冒険が終わってしまった。呆気ない幕切れで、あやのはまた、なにもできない、熱を出して寝込んでいる無力な高校生に戻ってしまう。


「それで、おしまい?」


 打ち切られた物語の結末に、母は首を傾げる。


「うん。先輩が、もうどうしても続きが作れないからって」


 布団を頭まで被る。


「バカみたいだよね。ごっこ遊びで、本当に主人公になったみたいな気になって」


 そのせいで麻由香とまで喧嘩して。情けなさとみっともなさが、目の奥から溢れ出してくる。


 空想の世界の出来事に夢中になって、現実から目を背けた、どうしようもない意気地なし。こんな無様でかっこ悪い自分になんて、気付きたくなかった。いっそこのまま、消えていってしまったらいいのに。


 袖口を濡らし、鼻をすすっていると、不意に布団がめくられた。母は、微笑みながらあやのを見つめている。


「お母さん?」


「それで、あやのちゃんはどうするの?」


「え?」


 どうする? 思いがけない質問に、目が丸くなる。


「どうするって、どういう意味?」


「その、なんとかってゲームや、先輩さん、それに麻由香ちゃんのこと。これからあやのちゃんは、どうするつもりなの?」


「……そんなの、どうしようもない」


 決まっている。自分に出来ることなんて、なにもない。


「なんにもできないよ。私には、なんにもできない」


 喉からあふれ出た、とても咆哮なんて呼べない力のない叫びは、鋭利な刃のように胸を引き裂く。


「だって、もう私が主人公の物語は終わっちゃったんだから!」


 ここにいるのは、なんにもできない、ただの高千穂あやのなのだから。


「ほんとうに?」


 なのに、どうしてそんなことを聞くのだろう。


「聞き方を変えるわね。あやのちゃんは、本当はどうしたいの?」


「どう、したい……?」


 どうしたいか、なんて決まっている。


「……麻由香ちゃんと、仲直りしたい」


「うん、そうね。まさか、二人が喧嘩するなんてねえ」


「笑い事じゃないのに」


 のん気な母の笑い顔に、唇を尖らせる。だが、ひとつはっきりさせると、願望は後を追うように口をついて出てくる。


「バックランドでの物語の結末も、見たい」


 あれでおしまいだなんて、納得できない。けれど、そう訴えたところで、余計に辰巳を追い詰めるだけだ。胸躍る冒険に連れ出してくれた先輩を、わがままで苦しめたくなんてない。でもバックランドも救いたい。だって、バックランドは。


「あ」


 脳裏にひとつ、アイデアが過る。


 マンドレイクに夢中になっていた時と同じだ。したいことに囚われ、するべきことを見失っていたのかもしれない。


 もしかしたら、この方法なら。


「なにか思いついた?」


「たぶん。でも、私に出来るかな」


「大丈夫よ」


 母は、欠片も疑ってはいなかった。


「あやのちゃんが選べば、物語は動き出すの。だって、あやのちゃんの物語は、あやのちゃんが主人公なんだから」


 それは物語の鉄則だ。選択と結果。大事なのは、なにをしたか。その積み重ねが、誰かの物語になる。


「……私が、主人公」


「そう。きっと大丈夫、あやのちゃんなら出来るわ」

 

 あやのはこのとき、ようやく理解した。高千穂あやのの物語は、終わってしまったどころか、まだ始まってすらもいなかったことを。





「麻由香ちゃん、おはようございます」


「……おはよう」


 教室で待ち構えていたあやのが前に立ち塞がって挨拶すると、麻由香は目を丸くし、それから目線を逸らして短く返事をする。あやのには少し意外だった。てっきり麻由香は、不機嫌な面持ちを返してくるかと思っていた。その表情にはむしろ、気まずさが見えている。


「お話したいことがあるので、来ていただけませんか」


 いずれにせよ、決心は固めてきたのだ。躊躇せずに切り出す。断られるだろうか。危惧もしたが、麻由香は黙って頷いた。


 先に立って教室を出ていくと、荷物を置いた麻由香も後をついてくる。普段より二本早い電車で登校し、行き先は見繕ってある。階段を上って、屋上へ続く踊り場に立つ。施錠されている屋上へは出られないが、ここなら滅多に人が近づいてくることはない。


 麻由香と向き合い、大きく息を吸う。深く吐き出して、真っ直ぐに麻由香の目を見つめた。


「あの、麻由香ちゃん、先週のことなんですけれど」


「待って」


 せっかく切り出した機先は、麻由香によって制される。聞きたくもないってことですか? 飲んだ息は、目を逸らしたまま唇を噛んだ麻由香の表情に溶け出ていく。


「謝ろうとしてる?」


「え、それは……はい」


 謝りたかった。麻由香の心遣いをずっと無下にしていたこと。夢に向かって努力していた麻由香を、まるで責めるように言い募ったこと。


「今までのことも、先週のことも、本当に」


「やめて」


「麻由香ちゃん?」


「あやのから先に謝られたら、惨めすぎる」


「惨めって、そんな」


 麻由香は右手で左の肘を強く抱き、あやのと同じように、深く吸った息を吐き出してから、真っ直ぐ見つめ返してくる。


「だって、どう考えたって謝るのは私の方でしょ」


「麻由香ちゃん……」


 麻由香はまた目を背ける。あやのは背けなかった。


「私はさ、あやのがやってた……TRPGだっけ? そんなの、ただのお遊びで、現実逃避だって馬鹿にした。っていうか、馬鹿にしたかった」


「……はい」


「なんか悔しくって。こっちは役者なんて、なったとしても、それで食べて行けるのかもわからない道に行こうとして、親と喧嘩したりもしてるのに。あやの、すっごい生き生きした。本当にお話の主人公みたいな悩み抱えたり……正直、ちょっと羨ましかった」


「……私は、麻由香ちゃんが羨ましかったんです。自分の進みたい道をきちんと見つめて、そのために努力できるのが、すごくカッコいいと思ってました」


「そう見せようとしてたから」


 正面から見つめ返し、麻由香は笑った。眉根を寄せ、唇の端を無理やり釣り上げて。


「羨ましがらせたかったから。こっちに来れば、一緒に進めるぞって。あやのがやりたいことを見つけるとき、私も一緒にいると思ってたから。本当は、本気で役者になりたいなんて真面目に話したら、演劇部の中でも笑われたのに、無駄にかっこつけて」


 あやのは笑わなかった。麻由香の夢を笑ったことなど、一度だってない。これまでも、これからも。


「ほんと情けない」


 麻由香の頭が下がる。深く、深く。


「ごめん、あやの。本当にごめん」


 爪が食い込むほど、あやのは拳を固く握りしめる。


 知らなかった。本当に自分は、なにも知らなかった。麻由香がどんな気持ちで自分を演劇に誘っていたのか。一緒に映画を観に行こうと誘ってくれたとき、麻由香がどんな想いで誘ってくれていたのか。


 言われた通りだ。人がなにを考えているのかなんてわからないことばかりで、伝えなければ、伝わらない。だから、伝えないと。


「やっぱり私にも謝らせてください。私は、ずっと麻由香ちゃんの気持ちを蔑ろにしていました。色んな提案をしてくれたのに、できないとか、無理とか、試してみる前から言い訳ばかりして。本当は演技の世界にだって、少し興味があったのに。小説や脚本を書いてみることだって、出来たらどんなに楽しいだろうって思ってたのに」


 ただ自分は、目を背けていただけだ。選択肢を示してくれていたのに。きっと私には演技なんかできっこないと、選ぶことからすら逃げていた。そのくせ自分が新しい遊びに夢中になると、映画一本の誘いすら後回しにしてしまっていた。


「ごめんなさい。麻由香ちゃんが私を想ってくれていたこと、全然理解していませんでした。本当にごめんなさい」


「違う。私は自分勝手だっただけ。あやのを私の夢に巻き込もうとしてただけ。もっと言ったら、私がついてないとダメだって、あやののこと馬鹿にしてた」


「だったら私もです。私も麻由香ちゃんを、自分の勝手で振り回してました。私がどんな物語の世界に夢中になっても、麻由香ちゃんは一緒にいてくれるって、ずっと甘えてたんです」


 お互いに自分が悪いと主張して、退くつもりはないと、睨み合う。ひどく滑稽な意地の張り合い。すぐに、二人とも笑いだした。こんなに間の抜けた喧嘩はなかったから。


「はあ、なんで私たち夢の話とかで喧嘩してたんだろ。恥ずかし」「本当ですよ……でもなんだか、本やドラマにありそうな話じゃないですか?」「やめてってば、もう」


 目元に浮かんだ涙を拭いながら、麻由香の肩から力が抜ける。あやのも頷いて、ひとつ息を吐く。そしてもう一度吸い込む。まだ話は終わりじゃない。本題はこれからなのだ。


「でも、ごめんなさい麻由香ちゃん」


「ちょっと、これ以上謝罪合戦はやめて」


「いえ、違うんです」


 麻由香は首を傾げた。


「こんな話の流れで言うのも気が引けるんですが……麻由香ちゃんに、手伝ってほしいことがあるんです。私の物語を始めるために、どうか力を貸してください」

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