第21話

 まだ包囲の薄い場所を目掛け、グラーネを突撃させる。群がろうとする魔物を≪竜の咆哮≫で蹴散らし、二騎はエルケンバルト大学院の敷地を脱する。


 だがリンデンの道という道を塞ごうかという魔物たちの妨害は、到着したその時以上の熾烈さであやのたちの行く手を遮った。後ろから追いかける魔物たちを振り払おうにも、先々に現れる魔物を避けようとするたびに方向転換を余儀なくされる。細い道を塞がれ右に曲がり、屋根から飛びかかられて分岐を左に逸らされる。


「まずいぞ、このままじゃどんどん街の中心に向かってしまう」


「おかしいです、明らかに来たときよりも魔物の数が増えてます。それに、なんだか妙に統率が取れているような」


 あたかも逃走ルートを誘導されているように。


「どうして急にこんな」


「そりゃあ、紫水晶の書を持っていかれたら困るからじゃないか! 自分たちの秘密が暴かれるかもしれないんだから!」


「だったら私たちを図書館に近づけないよう、もっと妨害したはずです! それに、魔物たちにそんな知能があるとは思えません!」


 これまであやのが出会ってきた魔物は、いずれも動物程度の知能しか持ち合わせてはいなかった。もしも、そんな意志を持つものがいるとしたら。


 正面から飛びかかってきた四つ脚の魔物に進路を逸らされたとき、なにかが繋がりかけた。屋根の上をかけていく黒い影。あれは。


 繋がった。


「アイツは初めから紫水晶の書を狙ってたんです! 自分では図書館に入ることが出来ないから、私が回収に来るのを!」


「アイツ? 誰のことを言ってるんだ?」


「決まってるじゃないですか!」


 あやのとヘリオスフィアの駆る馬たちが、街路の先に続いていた広場に駆け込んだと同時。


 影は、民家の屋根の上から二人の前に降り立ち、石畳を震わせた。黒檀色の鎧、襤褸切れのような外套、右手に黒塗りの斧槍を握り、同じ色の毛並みに赤い目を光らせる馬に跨った騎士。


「く、黒騎士!」


 虚ろの黒騎士。呪いを広めた張本人。


 ヘリオスフィアが引き攣った声を上げて手綱を引く。ブケファロスが棹立ちになって恐怖にいなないた。


 あやのは冷静にグラーネを引き止め、生唾を飲み込んで黒騎士を睨みつける。剣を握る手に汗がにじむ。


「ずっと、ずっとこのときを狙っていたんですね。初めから、私が紫水晶の書を見つけ出すことを期待して、泳がせていたんですね」


 最初から出来過ぎていたのだ。グロスラッハを瀕死の状態まで追い詰めたにもかかわらず、その身に呪いを残すだけで放置し、あやのが現れ竜騎士になると、今度は魔物をけしかける以上の深追いはしなかった。


 黒騎士はずっと、魔導書を手に入れようとしていたのだ。バックランドにおいて、もっとも危険な力を持つ書を。


 黒騎士は動こうとしない。魔物たちも広場に集まってくるが、威嚇するように唸り声を上げるばかりで、牙を剥いてくる様子はない。あやのは察した。挑戦されている。黒騎士は今この場で、バックランドの命運を賭けた決闘を挑んできているのだ。


「ヘリオスフィアさん、逃げてください」


「逃げろって、なにを馬鹿な」


「黒騎士は、私と一対一で戦おうとしています。ヘリオスフィアさんだけなら、見逃してもらえるはずです」


 本当は逆だ。黒騎士は暗にヘリオスフィアを人質に取り、この場で決着をつけることを要求してきている。


 口を開き、出てこない言葉を飲み込み、視線を彷徨わせ、ヘリオスフィアは唸る。言いたいことは山ほどあるだろう。吟遊詩人は結局、どれひとつとして声に出すことはなかった。


「~~~~~ッ! いいかアヤノ、君の叙事詩を敗北で終わらせるようなこと、絶対に許さないからな」


「もちろんです。あんな奴に負けるつもりはありません」


 返事を聞き、ヘリオスフィアはブケファロスの頭を巡らせ、広場から大通りへと向かう。通り塞いでいた魔物たちは、気味が悪いほど素直に道を空け、栗毛の馬が通るのを見送った。


 あやのは鞄を背負いなおし、長剣の握りを確かめ、黒騎士に向き直る。漆黒の騎兵は、待ち構えていたように広場の中央に馬を進めた。


 二騎は睨み合う。


 風も沈黙し、魔物たちの唸りだけが囁くリンデンの広場で、静かな殺意があやのを鋭く射抜く。逃げたい。今すぐにでも背を向けて逃げ出したい。震え出しそうになるほどの恐れを強引に飲み下すと、あえて一度目を瞑り、大きく息を吐き出し、吸い込んだ。柄を握る手をわずかに緩める。力が籠りすぎている。このままではまともな斬撃は繰り出せない。大丈夫。私にはグロスラッハさんの祝福がある。呪いをもたらす黒騎士に負けるはずなんてない。


 目を見開き、黒騎士を真っ直ぐに睨み返し、グラーネに拍車をかけた。


「はあ!」


 世界が動き出す。身を屈めて風圧と殺意をやり過ごしながら、あやのは剣を振りかぶる。黒騎士が駆け出し、二者の速度が倍になる。


 最初の一撃は不発に終わった。すれ違いざま、横一閃に振るわれた斧槍を剣で弾かなければ、グラーネの首が飛び、あやのは石畳に転がっていただろう。冷汗をかきながらグラーネの頭を巡らせ、魔物たちの群れに沿って広場を半周する。黒騎士もまた、鏡合わせのように対面を回っている。二つの軌道が再び広場の中央で交わる。斧槍の先端が石畳に擦れ火花を散らす。寸前で進路を変えるほかに、振り上げられた切っ先を避ける手はなかった。斧槍は鎧の表面を掠め、髪を数本散らし、あやのの頬に細い筋を残す。このままじゃダメだ。


「このォ!」


 正面から黒騎士に肉薄した瞬間、裂ぱくの気合が≪竜の咆哮≫となって轟き、黒騎士のバランスを崩す。今だ。黒騎士の脇を駆け抜けながら、長剣を振り抜いた。だが手のひらから伝わるのは、固い鎧の表面を撫でた感触ばかりだ。後ろから迫る黒騎士の斧槍を避けるように、左へと旋回する。漆黒の影はすぐ背後に、手の届きそうな距離にいた。速い。


 あやのに焦りが募る。強い。今まで戦ってきたどの相手とも違う。獣のようなどう猛さも、丸太のような剛腕も持ち合わせてはいない。ひたすらに速く、冷静で、巧みだった。手足の延長のように斧槍と軍馬を操り、有効打を与える隙を見せようとしない。あやのが幾度果敢に攻め込んだところで、間合いの広い斧槍に阻まれるか、鋼鉄の鎧に弾かれるばかりだ。このままぶつかり合っていても、体力を消耗させられてしまう。すでに喉は嗄れ、咆哮を上げることも難しい。


 何度目かのぶつかり合いの後、あやのは素早くグラーネを反転させる。黒騎士は真正面だ。決めなければ。手綱を引き、鹿毛馬を棹立ちにさせる。いななきが広場に響き渡る。勢いを殺さずに拍車をかけた。世界が後方へ飛び退ってゆく。黒騎士はまだ斧槍を構えてはいない。速く、強い一撃を。身体の芯で猛る炎に恐れをくべる。迫る影を打ち払うように、身を捻って剣を左に振りかぶる。


「え?」


 黒騎士は拍車をかけなかった。斧槍を脇で挟むように抱え込む。穂先が鈍く光る。いけない。止まらなきゃ。手綱を引かなきゃ。剣を引かなきゃ。


 そして、なにもかも間に合わなかった。衝撃と、焼けつくような熱さと、身体中の熱が零れ落ちていく強烈な寒気が襲い掛かる。稲光のごとく突き出された斧槍が、狙い違わず己の心臓を貫いている光景を見ながら、あやのの意識は遠ざかっていった。





 ゼロ。何度計算しても、あやのの残り体力はゼロを示している。


 ゲームマスターの裁量によって進行するTRPGにおいて、絶対不変のルールがあるとしたら、それは数字だ。


 キャラクターの能力値と、行動の成否を判定するダイス目は、あらゆるルールを適応した最後に算出される、物事の結果として存在する。黒騎士の攻撃能力とダイス目は、あやのの回避能力を上回っていた。あやのはこの状況を覆す能力を持っておらず、強力無比なハルバードのダメージは、鎧の防御力を差し引いてなお、あやのの体力を削り切った。


 キャラクターシートをいくら見つめても、結果は変わらない。顔を上げると辰巳は、気まずそうに唇を歪め、目を逸らしていた。


「あの、これって」


 辰巳は答えない。


「でも、えっと、まだ死んだりはしてませんよね?」


 言いながら、あやの自身も気付いている。


 ゲームのルール上、プレイヤーキャラクターは体力がゼロになったからといって、即座に死亡するわけではない。しかしそれは、あくまでも味方に治療してもらうことで意識を取り戻し得る、という話だ。卓上の方眼紙で表されたリンデンの広場には、あやのと黒騎士のコマ以外には誰もいない。治癒能力を持つものも、止めを刺すであろう黒騎士からあやのを守り、戦場から連れて逃げてくれるものも。


 終わり? 私の冒険は、これで終わり? 虚ろの正体を突き止めることも、バックランドを救うことも出来ずに?


 認めたくない言葉が脳内で反響する。


「あ、わ、わかりました、これってあれですよね。負けイベントってやつ! だって、どう頑張っても勝てませんでしたから! 私の攻撃じゃほとんど黒騎士のアーマークラスを抜けませんでしたし」


 あやのは目を丸くした。辰巳が、思いがけずあっさりと頷いたからだ。だがその表情は、酷く暗いままだった。


「そのつもりだったよ」


「だった……ですか?」


 辰巳はもう一度頷いた。苦しそうに。


「でも、でもそれならまだシナリオには続きがあるんですよね? バックランドを救う物語は、まだ終わらないんですよね?」


 辰巳は首を横に振った。悔しそうに。


「……ないんだ」


「ないって、そんな」


「思いつかないんだ!」


 あやのは身を竦ませる。


「ずっと、ずっとこのシナリオを考えてたんだ。世界を救う冒険譚。プレイヤーが叙事詩の英雄になれるような物語を。大きな力を手に入れて、女王の命を受けて危険な旅をして、黒騎士の思惑に嵌ってピンチに陥るところまでは出来上がった……でも、その先がどうしても思いつかないんだ。そもそも虚ろってなんなのか、どうしてバックランドを蝕むのか、どうやったら打ち払うことが出来るのか。いくら考えても、答えが浮かばないんだ」


 辰巳は泣き出しそうなほど声を震わせ、恥じ入るように肩を縮こまらせている。


「だからもう、このキャンペーンはこれ以上続けられないんだ」


「ど、どうしてですか! それなら私、待ちますから! 古湊先輩がシナリオの続きを完成させるまで、いくらでも待ちます! だから……」


「無理だよ。何日とか何週間とかじゃない。去年からずっと、未完成のままなんだから」


「去年から、って……」


「本当は、卒業する先輩たちに披露しようと思って作ってたキャンペーンなんだ。でも結局、間に合わなかった」


 どうして、どうして? 疑問符が、あやのの頭の中を飛び交っていく。


「募集をかけてたじゃないですか、異世界に旅立つ冒険者を募集って」


「苦肉の策だよ。もしかしたら、実際にシナリオを遊んでみたら、なにか思いつくかもしれないって。今回の話は、高千穂さんと話してて思いついたくらいだし、行けそうな気がしてたんだ。でも、そこまでだった」


 やめてください。どうしてそんな自嘲するみたいに笑うんですか。これで終わりなんて、言わないでください。私にもなにかが出来る世界を教えてくれたのは、あなたなのに。


「笑っちゃうよね。高千穂さんに魔法使いみたいだなんて言われて、すっかりいい気になってた。僕は先輩たちを送り出すことも、後輩を迎えることも満足にできないっていうのに。ごめんね高千穂さん、せっかく楽しんでくれていたのに、がっかりさせるような結末で。僕にも先輩たちみたいな、わくわくするようなシナリオを作れる才能があったらよかったのに」


 わくわくしました。私は今も、古湊先輩を魔法使いみたいだと思っています。だからどうか、その先は言わないでください。


「この物語はこれでおしまいなんだ。きっとバックランドは、このまま虚ろの呪いに飲み込まれていく。僕にはもうこれ以上、なにもできないよ」


 辰巳は、指でついてマスタースクリーンを倒す。それが、ゲームの終わりを告げる合図だった。

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