第17話

 出発のときは速やかに訪れる。


 城を後にし、修道会の管理する難民地区に身を寄せていたレイリアたちに合流すると、村人たちはあやのの新たな装いに歓声を上げ、その門出を祝した。新たな竜騎士の存在は、難民たちの間で噂になっており、その晩は大いなる母を信奉する修道士たちや、耳聡い市民たちも集まっての、盛大な宴が執り行われたのだった。


 聖堂前の広場では、ヘリオスフィアのかき鳴らすリュートが響き、持ち寄られた食事を、この日ばかりは誰もが後も先も考えずに腹に詰め込み、相手構わず杯を飲み交わす。あやのはといえば、集まった人々から代わる代わる握手を求められ、護衛のように遮るレイリアがいなければ、一晩中もみくちゃにされていたかもしれない。


 そのレイリアとは、夜半にこっそりと聖堂を抜け出し、二人でゆっくり話をした。女王との会合や、旅の先行きについて。これからの王都での暮らしについて。


 驚いたのは、レイリアが王国軍に志願するつもりだったことだ。当然のごとく村人たちには反対されたが、いつか金剛館の館に招かれ得る人間になることを志す彼女が、言われて大人しくしていられるはずもない。あやのも、わざわざ危険に身を投じようとするレイリアを案じはしたものの、自身がその最たる道を進もうとしているだけに、引き留めることはできない。出来るのは無事を祈り、改めて再会を誓い合うことだけだった。


 翌朝。まだ陽も上り切る前の薄暗がりの中、あやのはカザムダリアの城門をくぐる。レイリアやロクセンの村人、修道士たちに見送られながら、跨る鹿毛馬を街道へと進ませてゆく。


 鹿毛馬は、軍団長からの贈り物だ。カザムダリアの厩舎で最も駿足で、体力があり、賢い馬を与えられたのだ。あやのがグラーネと名付けた馬は、鞍袋や学生鞄に詰められた餞別の品をものともせず、軽快に石畳を蹴って進んでゆく。街道を一路東へと向けて。


「それで、どうしてヘリオスフィアさんも一緒なんですか」


 あやのは目を細め、隣で栗毛の馬を駆るヘリオスフィアを睨む。


「俺だって、リンデンに向かうなんて無謀な旅、したくなんかないね。けど、君みたいな子供を一人で死地に送り出すのも、寝覚めが悪いからな」


「だからって……危険な旅なんですよ。戦いになったらヘリオスフィアさんを守れるかどうか」


「心配するな、魔物から身を隠す術は心得ているさ。そもそも俺が同行するのは、アルフレートからのご氏名でもあるんだぞ。君は案内役もなしでリンデンまでたどり着けるのか?」


 そう言われてしまえば、あやのには言い返せる言葉がない。


「道案内してくださることは感謝してます。でも気を付けてくださいね、本当に」


「言われずとも。とはいえ、変わり果てた古巣を見るのが怖いってのも、否定はできないけど」


 肩を震わせるヘリオスフィアの姿に、あやのは思い出す。彼はリンデンの学院を知っているのだ。


「リンデンってどんなところだったんですか?」


「そりゃあなんと言っても、美しい都だった。カザムダリアももちろん立派な街だが、こと景観に関してはリンデンの右に出る場所は存在しない。色とりどりの瓦屋根を被る小洒落た家々が並び、市内を網羅する運河をゴンドラが行き来していた。暮らしているのも知と美を識る人たちばかりで、バックランドの流行はリンデンから生まれるとはよく言ったものさ。中でもエルケンバルト大学院の壮麗で嫌味のない意匠は、リンデンの在り方を表していたものだ」


 饒舌に語るヘリオスフィアの口振りは、彼のリンデンへの思い入れと、同時に失われたものの大きさに彩られていた。


「すてきな場所だったんですね」


「そしてすてきな人々がいた。精霊術科で教鞭を取っていたティオニアンナや、呪術科のアケビア。一番手に負えなかったのはブランドンだ。あの跳ねっ返りめ、俺の言うことなんてひとつも聞きやしなかった。けれど、あの『暗闇の日』、突如として湧き出てきた魔物たちが、すべてを飲み込んでしまった」


 暗闇の日。初めは黒騎士の影と共に、噂に囁かれるだけだった虚ろの呪いが、魔物の大襲撃という形でリンデンを飲み込んだ忌まわしき日を、彼らはそう呼んでいる。あの日からバックランドに、明けない夜が訪れたのだと。


 だんだんあやのも理解し始めていた。辰巳は、バックランドはまだ世界を救う主人公が現れていない世界だと話していた。だが実際は違う。そうなり得る英雄たちはいたのだ。彼らはかつてこの世界に存在し、そして戦乱や呪いに倒れていった。その空白に送り込まれたのが、自分なのだと。


「ひとつ気になっていたんですが、もしかしてヘリオスフィアさんは、先生だったんですか?」


「少し講義を持っていただけだ、そんな大したものじゃない。ま、教えるのは好きだったがね」


「やっぱり、アルフレートさんが教え子だって、そういうことだったんですね」


「アイツは、俺の見た中じゃ一番の出世頭だよ」


「けれど、どうして先生から、吟遊詩人になったんですか?」


 ヘリオスフィアは顔を背けた。


「関係ないだろう、そんな話」


 答える声にはいら立ちが混じっている。


「えっと、じゃあ紫水晶の書についてもご存じですか?」


 話題を変えようと訊ねると、ヘリオスフィアは一転して得意げに頷いてみせる。


「もちろん。学院の開祖エルケンバルトが、その書をもとに学院の基盤を作ったという禁断の魔導書のことだ。知ってるか? エルケンバルトも竜騎士だったんだ」


「そうなんですか? じゃあ、私の先輩ってことですね」


「俗な言い方をせずに、先達者と呼ぶべきだな。ともかく彼の時代、バックランドには恐るべき魔力と知識を持ったグルーグウェンという竜がいた。魔法の探究者だったグルーグウェンは、その道を究めるためには周囲にどんな被害がもたらされようとお構いなしの、はた迷惑なやつだったそうだ。そこでエルケンバルトは、武ではなく知でその竜を打ち負かす。そのとき祝福として彼にもたらされたのが、竜の持っていたあらゆる知識を収めた紫水晶の書ってことだ。なんでも魔導書は、グルーグウェンの皮で装丁されているらしい。それを別にしても、大学院の図書館には世界中の膨大な量の書物が所蔵されている。俺も開館時間いっぱいまで調べ物をしては、司書のじいさんに追い出されていたもんだ」


「そのエルケンバルトさんは今は……?」


「数百年前、学院を開いたのちにその図書館で姿を消したそうだ」


 ひとつに縛られない竜騎士の在り方に感心して頷く一方、あやのは肩にかかる重荷も感じていた。リンデンにもやはり、竜の存在が関わっている。バックランドにおいて竜は、様々な形で人間に影響を及ぼす、高次でありながら身近な存在だ。その祝福を受けた竜騎士にかけられる期待の大きさも、昨夜の宴席で嫌というほど実感している。


 物語の主人公たちは、この重さに耐えながら戦っていたんだ。私も今、それを背負っているんだ。あやのはそう考えて自分を奮い立たせながら、グラーネの手綱を握り、ヘリオスフィアと共に東へと進んで行った。





 テーブルに広げられた草原を貫く街道を、剣士の少女と吟遊詩人のフィギュアが並んで進んでいる。


 卓上の小さな異世界を眺めながら、あやのは熱く息を吐きだす。また新しい冒険が始まる。虚ろの正体を掴むという、明確な使命を背負って。


「少し休憩にしようか」


 辰巳がマスタースクリーンを伏せながら顔を上げる。


「はい!」


 頷きながら、あやのの目線はまだテーブル上に釘付けのままだった。あやのの目線を追って、辰巳は苦笑する。目線の先では、旅路に就いた二人の姿を、遠くからグロームデインが……銀色の竜のフィギュアが見守っている。


「これ、気になる?」


「え、あ、その……持ってみてもいいですか?」


「どうぞ」


 手渡されたフィギュアは、手のひらにずっしりと重たい。一枚ずつ精緻に彫り込まれた鱗は、金属質な光沢で白銀に輝いている。大地を踏みしめる足には尖った爪が、開いた口の中には鋭い牙が並んでいるが、目つきはどこか穏やかで理知的だ。


「気に入った?」


 竜に魅入られたあやのは、かけられた声にはっと顔を上げる。微笑ましそうな辰巳と眼が逢い、あやのの頬はじわりと熱を帯びた。


「は、はい。それに驚きました、まさかドラゴンがバックランドの王様だったなんて」


「でしょ? 実は僕も、先輩にここで遊ばせてもらったときにはじめて知ったんだ。ずっと女王も人間だと思い込んでたから、突然そのドラゴンのフィギュアが出てきたときはひっくり返りそうになった」


「じゃあ私、まんまと古湊先輩と同じ体験をさせられてた、ってわけですね」


 まあね。笑う辰巳の表情に懐旧が浮かんで、隠れた。


「高千穂さん、なにか飲み物とか用意してる?」


「あ、そういえばなにも持ってきていませんでした」


 TRPGは喋りっぱなしのゲームだ。飲み物なしでは喉も嗄れる。あやのは辰巳に言われ、喉も乾いていれば、小腹も空いていることを思い出した。バックランドでいくら飲み食いしても、当然現実の腹が膨れることはない。


「一回出て、コンビニに行こうか」


「テーブルを離れてしまっても大丈夫なんですか?」


「手荷物は残さないようにすれば、借りてる席は確保してもらえるから平気だよ」


 それならばと、荷物をまとめて辰巳と共に席を立つ。辰巳が店員に中座を告げると、店員は小さな金属製フィギュアを組み立てながら顔も上げずに手を振った。


 路地から大通りに出て、最初に目に付いたコンビニに入る。


 普段は買い食いも寄り道もしないあやのは、土曜の午後に家に帰らずに遊びに出た上にコンビニに立ち寄っていることに緊張感を覚えながら、気分はむしろ昂揚していた。まるで、これから危険な冒険に出かけるために、疲れと傷を癒すポーションを見繕いに来ているような心地だ。


「どれにしようかな、と」


 スナック菓子を選びに行った辰巳と離れ、あやのは指先を唇に当てながら、陳列棚に並んだ清涼飲料を流し見る。魔法薬っぽさがあるのは瓶のエナジードリンクだろうか。けれど炭酸は苦手だ。かといってスポーツドリンクというのも、異世界の冒険のお供にはいささか味気ない。


 後ろから声をかけられたのは、あやのがバックランドでも飲めそうなものをと、紅茶に手を伸ばしたときだった。


「あやの?」


「え? あ、麻由香ちゃん?」


 聞き覚えのある声に振り返ったあやのの後ろには、麻由香がいた。会計を終えたところだろうか。彼女も学生服のまま、ビニール袋を手にしている。


「こんなところでどうしたんですか?」


「別に、買い物帰りに寄っただけだけど……あやのの方こそどうしたの、コンビニなんて珍しいじゃん」


 麻由香に訝しげな目線を向けられ、あやのはもじもじと手をこね合わせる。麻由香は、あやのが滅多なことではコンビニに寄らないことを良く知っていた。


「はい、それなんですけど、実は」


「今日はなんか用事があるって言ってなかった?」


「あ、はい、えっと……麻由香ちゃん?」


 なぜだろうか。今日の麻由香はやけに不機嫌そうに見える。ただ辰巳に、学校の先輩にゲームショップを紹介してもらっていただけだ。そう説明すればいいだけのはずなのに、麻由香の鋭い目線があやのの言葉を濁らせた。


「高千穂さん、決まった? もしよければ僕がまとめて会計する、けど……」


 棚の向こうから顔を出した辰巳が目を丸くする。噤まれた口に辰巳の気まずさが浮かんでいる。あやのはほんの少しだけ安堵して辰巳に駆け寄った。


「古湊先輩」


「こみなと……ああ、この人が」


 あやのは辰巳と麻由香の顔を見比べた。辰巳の方が先輩だ。


「ごめん、邪魔したかな」


「いえ、そんなこと! 古湊先輩、こちら私の中学からの同級生の、黛麻由香ちゃんです。麻由香ちゃん、こちらロールプレイ研究部の古湊辰巳先輩です。今日は古湊先輩に、ゲームショップを紹介してもらってたんです」


 あやのが紹介したところで、麻由香はしかめ面のままだ。口元を固く引き絞り、値踏みするような目で辰巳を見回している。あやのの中で急速に不安が芽吹いた。麻由香は、初対面の先輩に対してこんな態度を取るような人じゃなかったはずなのに。辰巳がやり辛そうに後頭部を掻いてもお構いなしだ。


「その、はじめまして黛さん。二年の古湊です。高千穂さんとはゲームでが縁で知り合って……」


 あろうことか麻由香は、辰巳の言葉を手のひらで遮った。


「だいたいあやのから聞いてますから結構です。別に興味もありませんので」


「え、ああ、ごめん……?」


「ちょ、ちょっと、麻由香ちゃん!」


 冷たく向けられた麻由香の背中に、あやのは目を剥いた。どうしてそんなことを言うのだろう。


「麻由香ちゃん、本当にどうしちゃったんですか?」


「帰るだけ。二人の邪魔したら悪いでしょ」


「そうではなくて……麻由香ちゃん!」


 自動ドアが閉まる。唖然としたまま取り残された二人に背を向けて、麻由香はさっさと姿を消してしまう。一秒たりともこの場にいたくないというかのように。立ち尽くすあやのと辰巳を、店員が煩わしそうに一瞥して通り過ぎる。


「僕、なにか気に障ることしたかな」


 もごもごとした辰巳の言葉に、あやのは声を詰まらせた。そんなはずない。麻由香があんな態度を取るなんて、きっとただ事じゃない。


「ごめんなさい古湊先輩! 私は麻由香ちゃんを追いかけます。先に戻ってもらってもいいですか?」


「うん、わかった。慌てないでね。もし戻れなさそうだったら連絡くれればいいから」


 手を振る辰巳に頭を下げ、あやのは入店客とぶつかりそうになりながらコンビニを飛び出す。どっちに向かったのだろう。通りの左右に視線を巡らせても麻由香の姿は見えない。帰るだけだと、彼女はそう言っていた。だったら駅の方へ向かうはずだ。走り出す。すぐに足がもつれた。通行人とぶつかりそうになっても、上手く避けられない。歯がゆい思いをしながら走る。バックランドでなら、獣に追われながら森の中を駆け抜け、喧嘩の間に割って入ることだってできたのに。


 ようやく麻由香の背中を見つけたのは、駅前のロータリーに入ってからだった。


「麻由香ちゃん!」


 呼び止めても止まらない背中に手を伸ばし、腕を掴んで麻由香はようやく足を止めて振り向く。酷く煩わしそうな表情で。


「……なに?」


「なに、じゃありません! 麻由香ちゃん、なにかあったんですか? 今日の麻由香ちゃん、絶対おかしいです」


「おかしくなんてない。あやのこそなにひとりで来てるの。大事なデート、すっぽかしたらダメじゃない」


「な、あ……!」あやのの頬が沸き上がる。「デ、デートじゃありません! ただ私は、ショップに連れて行ってもらっただけで!」


「どっちでもいいけど」


 灯った熱を、麻由香の深いため息が吹き消した。


「大事な約束なんでしょ。だったら私になんか構ってないで、さっさとなんとか先輩のところに戻ったらいいじゃない」


 どうして。頭の中で疑問符が躍る。どうしてそんな言い方をするのだろう。私なんか、なんて。あやのに、麻由香以上の友達なんていないのに。


「私は、麻由香ちゃんが心配なんです。もしなにかあったなら、力になりたいんです。いつも麻由香ちゃんが私のことを助けてくれるみたいに」


 それだけなのに。


「なにそれ、私のせいってこと?」


「違いますそうじゃなくて」


「違わない。悲観的で失礼な同級生なんか無視したらいいでしょ、夢を叶えてくれる人との約束の方が、ずっと大事なんだから」


「あ」


 あやのは、ようやく理解した。


 麻由香が怒っているのは、自分に対してだ。他の誰でもない、自分が麻由香を怒らせていたんだ。もう何日も、麻由香とゆっくり話していない。映画を一緒に観て、そうしたらTRPGも、一緒に遊んでみようって約束したのに。


「……ごめんなさい」


「なにが」


「今日は映画、一緒に行けなくって。あの、明日は、ダメですよね。でも来週は絶対予定空けますから、だから一緒に」


「なにそれ」


 麻由香は自分の腕をきつく握りしめた。爪のあとが残りそうなほどにきつく。


「バカにしてるの?」


「え?」


「言っておくけど私、そんなことで怒ってなんてないから。ただ」


 顔が背けられる。


「がっかりしてるだけ。あやのの夢って、そんなお手軽に叶うものだったんだって」


 頭が凍る。背筋が震え、胸が不規則に強く脈打つ。麻由香の言っていることがわからない。わかりたくない。


「どういう、意味ですか、それ」


「冒険がしたい主人公になりたい、っていつも言ってたくせに、私が何度誘ってもなしのつぶてだったもんね」


「だってそれは、私には演技なんか」


「そうだよね。演技の稽古とか、発声練習なんて面倒なこと、する必要なかったんだから。ごっこ遊びの中で主人公になれれば、それで満足なんでしょ。むしろ、今まで無理に誘ってごめんね」


 握りしめた拳が痛い。手のひらに爪が食い込んでいる。噛みしめる唇が痺れてくる。血は出ない。そんな力はなかった。だがもっと大きなものが傷ついていた。


「なんで、そんなこと言うんですか」


「事実でしょ。あやのは主人公になりたいんじゃなくて、主人公になった自分を妄想してたいだけじゃん」


 言葉は、冷たく鋭い刃だった。


「もういい? そっちも忙しいんでしょ、妄想の中の異世界を救わなきゃいけないんだから」


 なにか言わないと。なにを。頭が働かない。なにも出てこない。


「だって、私には、なにもない」


 言葉は、傷口から溢れる鮮血だった。


「頭もよくないし、身体だって強くない。人前に立つのだって、恥ずかしくて無理です。なんにもできない、やりたいこともわからない。私が出来るのは、物語の世界を思い描くことだけなのに。せめて空想の世界で、なにかが出来る自分に憧れたら、どうしていけないんですか」


 それがすべてだったのに。空想の世界で冒険する以外、自分にはなにもないのに。


「だったら」


 麻由香の言葉は、もう聞こえない。聞きたくない。


「いつまでもそうしてれば? そうやって、ごっこ遊びに逃げて、なにもできないままでいたらいいじゃない」


 聞きたくないのに。


「私は!」


 血の気が引いていたはずの頭が、瞬間的に沸騰した。


「私は、麻由香ちゃんとは違うんです! 演劇部に入って、劇団のオーディションにも受かって、女優さんになりたいって夢を、ちゃんと叶えられる麻由香ちゃんとは。自分がなにをしたいか、ちゃんとわかってる麻由香ちゃんとは」


 足元が滲む。世界が滲む。滲んで歪んだ麻由香の姿を見たくなくて、背を向けた。ずっと信じていたものが滲むのを見ることが怖くて。


「あやの」


 背中にかかった声が震えていたのか、自分が震えていたのかは、もうわからなかった。


「麻由香ちゃんは」


 いつでも隣にいてくれたのに。


「麻由香ちゃんは、私の気持ちなんてわからないんです」


 走り出す。麻由香に追いついたときはもう動かないと思っていた足は、気持ちに急かされるまま身体を前に進ませる。早く、早く。こんなところにいたくない。一刻も早く離れたい。壊れてしまったものを見たくない。


 きっと辰巳も心配している。それに、バックランドを救う使命はまだ途中だ。自分が何者かになれる世界に少しでも早く戻りたくて、あやのは走った。

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