第18話

 赤く腫らした目で戻った土曜日は、そのままゲームを再開できるはずもななかった。止む無く解散したあやのと辰巳は、週が明けた月曜の放課後、再び図書室の書庫で顔を合わせた。


 麻由香とはあれきり、一言も口を利いていない。教室で互いの顔を見ても、無言ですれ違うだけだった。面と向かい合ってしまったらなにを口走ってしまうか、あやのは自信が持てない。自分が怒っているのか哀しんでいるのかも、もうわからない。


 今はただ、バックランドを救う使命に没頭したかった。


「あのさ、高千穂さん、やっぱり今日は止めておかない?」


 だから辰巳にそう言われたとき、その目をきょとんと見返した。肩から力が抜け落ちる。


「……どうしてですか?」


「いや、その」


 目は逸らされ、辰巳はもごもごと口籠りながら答える。


「高千穂さん、あんまり調子よくなさそうだよ?」


「私なら大丈夫ですよ」


「けど」


 どうしてそんなことを言うのだろう。確かに気持ちは落ち込んでいるが、それでも救わなければならない世界があるのに。


「この間、友達となにかあったんだよね。心配事があるとセッションにも集中できないかもしれないし、それに」


「平気です」


 最後まで聞かず、鞄からダイスを取り出す。キャラクターシートを取り出す。筆記用具も。必要なものはすべて揃っている。


「土曜日のことは……なんでもありません。だからお願いします」


 私が主人公でいられる世界に、連れて行ってください。


 辰巳は俯き、口の中でなにかを呟き、幾分悩んだ末にようやく顔を上げた。机上に落とされたままの視線だけは交わらなかった。


「そこまで言うなら。でも、無理はしないでね」


「はい」





 朗らかな陽気に照らされながら歩を進め、宿場町で宿を取って身体を休めながらの快調な旅ができたのは、最初の二日までだった。


 三日目の昼に街道の辻を過ぎた頃、最初に空の色が変わり始めた。


 まだ日も高いというのに、空は徐々に赤みがかり、夕刻を前にして、澱んだ赤紫に変じている。空気と共に地面が渇き、緑の下草も枝葉を揺らす木々も、捻じれてしみの浮かんだ奇怪な姿に取って代わる。視界のそこかしこに、黒い靄となって蔓延る虚ろの呪いが目に付いた。打ち捨てられた廃村を通ることは、避けざるを得ない。遠目にも、光る眼を持つなにものかの影が、村の中を徘徊しているのが見えたからだ。果たしてそれらが、かつて野生動物だったのか、残された家畜たちだったのか、あるいは村人の誰だったのかは、考えないようにした。


 呪いの浮かんでいない場所を選んで野宿し、魔物の徘徊する危険な場所を迂回しながら進んだ末、いよいよリンデンに辿り着いたのは、おそらく五日目のことだ。正確な時間はわからない。リンデンに近づけば近づくほど、澱んだ空には昼と夜の区別もなくなっていったのだ。スマートフォンも、もう充電がなくなっている。


「……酷いです」


 そうして辿り着いた街に、ヘリオスフィアの語った情緒あふれる学術都市の姿は、もはやどこにも残ってはいなかった。


 街の入り口でグラーネの足を止め、あやのは憂鬱な声を漏らす。立ち並ぶ家々は呪いが黴のようにこびりつき、住民たちの代わりに跋扈しているのは、歪んだ形をした魔物たちだ。人間に近い姿のものから、獣のような姿のものまで形はそれぞれだが、みな明確な意志もなく、ただ立ち尽くしているか、ふらふらと当て所なく行き来している。真っ当な生き物としての在り方を失っているのだろう。亡羊とした魔物たちが生者を見つけたときにどう豹変するのかは、考えたくもない。


 あらゆる汚濁を刷り込んだような街の景観は、廃墟よりもずっと悍ましいものだった。


「こんなの、学術に対する酷い侮辱だ。俺は色んな言葉を学んできたが、こんな仕打ちを罵る言葉はどこの世界にだって存在しない」


 溢れ出るものを堪えたヘリオスフィアの言葉に、馬たちも落ち着きなく頭を振って蹄を鳴らす。彼らも女王の祝福を受けた品を身に付けていなければ、今頃ひとたまりもなく呪いに侵食されていただろう。竜騎士であるあやのでさえ、長居すればどうなるかわかったものではない。とにかく目的の魔導書を手に入れて、一刻も早くこの場から離れなくては。


「ヘリオスフィアさん、大学院へはどう行けばいいんですか?」


「どう進むか次第だな。大通りを突っ切って向かうのが一番手っ取り早いが、いかんせん魔物が多い。大騒ぎになるのは間違いない。裏通りを進めば目立つのは避けられるけれど、ブケファロスたちは置いて行く必要がある。馬に乗ったまま隠密行動なんて現実的じゃないからな」


 ブケファロスと名付けられたヘリオスフィアの馬が、名前の雄々しさとは裏腹に、不安げに小さく嘶く。


 できれば目立つことは避けたい。虚ろに沈んだリンデンには、果たしてどんな魔物がいるのかも定かではない。だがグラーネたちをここに残していくことも気が咎める。グラーネたちもグロームデインの祝福を受けた護符を付けてはいるが、万が一にも魔物と出会ってしまったら。


 なによりも、自分には竜騎士として振るえる力があるのだと、それを確かめたかった。この世界でなら、自分にもできることがあると。


「……突破しましょう。グラーネたちが無事でいられる保証はありませんし、狭い路地で囲まれたらそれこそ手の施しようがなくなります」


「本気で言ってるのか? 学院も魔物だらけだったらどうする」


「それは、そのとき考えます」


「無謀すぎる。命がいくつあっても足りないぞ」


「そんなの、この任務を請けたときからわかっていたことじゃないですか。とにかく行くんです!」


 ヘリオスフィアは肩を竦め、帽子を脱いで鞄に仕舞う。


「意外と後先考えないところがあるな、アヤノは」


「じゃなかったら、竜騎士になんてなってませんから」


 背の鞘から長剣を引き抜き、握りを確かめる。鞍の鐙にしっかりと足をかけ、鎧の留め紐を締めなおす。ヘリオスフィアは背負ったリュートの革ひもを引き絞り、両の手に唾を付けて手綱を握りしめた。


「魔物は私が退けますから、離れないでくださいね」


 あやのは大きく息を吸い込み、深々と吐き出す。呪われた街を睨む。


「アヤノ」


「どうかしましたか」


「こっちの台詞だ。本当に大丈夫か? 調子が良くないなら、今日は無理しないで……」


「無理なんてしてません。行きましょう。あんな魔物たち、蹴散らしてみせますから」


 グラーネに拍車をかける。


 鹿毛の駿馬は棹立ちになり大きく嘶くと、力いっぱいに地面を蹴り、放たれた矢のごとくリンデンの街並みへ向けて猛進していく。吟遊詩人の駆るブケファロスも、全力でその後ろに追従する。吹き付ける風に流されたかのように、呪いに澱んだ風景が飛び退り、穢れた家々が迫りくる。


 街路を彷徨していた魔物たちは、隠すつもりもなく響き渡る蹄の音にすぐさま振り返る。土埃を上げて突き進む二人の姿を認めた魔物は、人型と四つ脚とに関わりなく、一斉に牙と爪を剥いて闖入者へ向け殺到する。騎乗者たちを引き裂かんと、咆哮と呪詛を上げる悍ましい壁を成す。


 魔物たちに対して、グラーネもブケファロスも、優秀な軍馬であった。唯人が竦みあがる呪いに、果敢に肉薄していく。あやのは馬上で身を伏せる。先頭の獣が牙を立てようとしたその刹那、軍馬たちは地面をひと際強く蹴る。魔物たちは上を見上げた。鹿毛と栗毛が、呪詛の壁を飛び越えていく。


「そのまま直進だ、アヤノ!」


「はい!」


 大通りを駆け抜けながら剣を振るう。右から追いすがろうとする魔獣を切り裂き、左の屋根の上から飛びかかろうとした魔人を貫く。右を払い、左を薙いで矢継ぎ早に飛びかかってくる魔物たちを切り捨て、二人きりの騎兵隊は風をも追い抜かんと学術都市を疾駆する。


「うわあ!」


 ヘリオスフィアの悲鳴に、咄嗟にグラーネの速度を押さえる。横合いからブケファロスへ体当たりをしているのは、呪われた巨大なイノシシだ。あやのは、馬にも並ぶ巨体の魔物に、迷わずに刃を叩きつける。だが硬い。傷をものともせず、苛立たしげに間に割り込んできたグラーネに、反り返った牙を振るおうとする。


 だったら。


 あやのは正面を見据え、牙が振るわれる前にイノシシにグラーネの身体をぶつける。イノシシも負けじと押し返してくる。力は相手の方が上だ。あやのはグラーネを退かせた。イノシシも追従してくる。そして、通りの中央に建てられた記念碑に激突して視界から消えた。記念碑には『後ろを見て学び、前を見て進め』と刻まれていた。


 市街地を進めば進むほど、魔物たちの猛攻は激しさを増していく。熾烈な攻撃はあやのの身体を掠めもした。グロームデインから授かった鎧がなければ、手ひどく傷を負っていたことだろう。「あれだ!」ヘリオスフィアが身を伏せて獣の爪をやり過ごしながら指差す先に、城のような魔術学院の学舎が見えてきた。大運河に架かる橋を渡れば、もう大学院の門は目の前だ。


「きゃあ!」


 横合いから飛び出してきた人型の魔物が、あやのに掴みかかり馬上から引きずり落さんとする。即座に剣を突き立て振り切ったが、魔物は十分すぎるほど仕事を果たしていた。


「アヤノ、大丈夫か!」「だ、大丈夫です! そのまま進んでください!」


 切れた頬から伝う血を拭い、虚勢で叫び返しながら、内心で臍を噛む。グラーネはバランスを崩され、進路は川沿いへ続く下道に逸れた。上の道へは戻れない。引き返せもしない。回り道をしている間に、ヘリオスフィアとブケファロスは魔物たちに引き裂かれてしまう。川幅が十五メートルはあろうかという運河が刻一刻と迫る。


 出来るのは、相棒を信じることだけだ。


「行けますよね……グラーネ」


 鹿毛馬は鼻を鳴らして地面を蹴り、川に挑むように速度を上げる。上から飛びかかろうとする魔物たちを置き去りにしながら、川岸へと驀進する。無様に飛び込んでくる獲物を今か今かと待ち受ける、空の色を映して赤紫に澱んだ水面へ向かって。どうするつもりだ。頭上からかかる言葉にも答えず、あやのはグラーネの首筋に顔を埋めるほどに身を伏せる。


 グラーネは跳んだ。岸壁を踏み切り、川面へ向かって。そしてもう一度。川面から伸びる長い係留ポストの頂を蹴り、橋の欄干を飛び越える。ヘリオスフィアに牙を剥こうとしていた魔物を踏みつぶし、グラーネは何事もなかったかのようにブケファロスと並走する。目を瞠るヘリオスフィアに、あやのは『ただいまです』と口だけ動かした。


 大学院の門が近づく。固く閉ざされた門と、立ち塞がろうとする魔物たちに「退いてください!」と≪竜の咆哮≫をぶつけ、敷地内へと駆けこんでいく。


 高く伸びる尖塔が建ち並び、カザムダリアの王城よりもいっそ豪奢に見えるエルケンバルト大学院にあって、図書館は神殿のように荘厳な建物だった。門柱の間に飛び込み、蹄で大扉を蹴破る。あやのは躍り込んだホールでグラーネに急制動をかけ、鞍から飛び降りる。無理やり蹴り破った扉を気休めに閉じると、長剣を構えて息を整えた。ネズミの一匹たりとも通すまいと意気込んで。


 だが、どれほど待ち構えても、壊れた扉は沈黙を守っている。魔物たちは入ってくるどころか、建物に近づいてくる様子さえしない。いや、魔物だけではない。緊張に深く吐き出した息を吸い込んで、あやのは気が付いた。


「ここ、全然虚ろの気配がしませんね」


 東へ進むにつれて強まり、リンデンでは気を抜けば体調を崩しそうなほどに強まっていた肌を貫くような不快感が、この建物に入った途端に鳴りを潜めている。図書館のホールは静まり返り、むしろ清涼な空気が流れてさえいる。


「ああ、そういうことか!」


 ブケファロスの背を降りながら、吟遊詩人が素っ頓狂な声を上げる。


「言っただろう、この図書館にはありとあらゆる魔導書が所蔵されているって。魔導書ってやつは、それ自体が強い魔力を有しているものだって多い。夥しい数の魔導書が一か所に集められ、それぞれが持つ魔力が干渉しあった結果、図書館には一種の斥力場が出来上がってるって話だった。ここではどんな魔法も使うことが出来ないってことだ」


「だから呪いも寄せ付けない、ってことですか」


 空の受付があるホールを見渡しながら、あやのは首筋に手を当てる。確かに虚ろの気配はしないが、なにか別の力が働いている気配を感じる。


「でも、待ってください。それなら、もしかしてここに逃げ込んで生き残っている人もいるんじゃ」


「どうだろうな……言った通りここじゃあ、どんな魔法も使えない。いくら魔法使いや魔術師だって、飲まず食わずで何年も生き延びたりはできないはずだ。暗闇の日にここで難を逃れていたものがいたとしても、もうとっくに逃げ出しているだろう」


 落ちかけた気持ちを、頭を振って持ち上げる。そもそもリンデンへは、誰かを救助しに来たわけではない。魔導書の捜索に注力できるならば、それに越したことはないのだ。


「ともかく、図書館に虚ろの影響がないのは朗報ですよね! 一刻も早く紫水晶の書を見つけ出して、カザムダリアに帰りましょう!」


「問題はそれだ」


 苦い顔で呻くヘリオスフィアの言葉の意味を、奥の扉を潜ったあやのはすぐに理解することとなる。

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