第15話

 聳え立つ城壁は、これまでに見たどんな壁よりも重厚で、足下の濠は、落ちたら二度と這い上がれないよう深く掘り込まれ、跳ね橋のたもとを守る衛兵は不機嫌そうなしかめ面で、断じて何者をも通すまいという使命感を滲ませている。王都カザムダリアは、あらゆる敵を寄せ付けまいとする城塞都市である。その威圧感は、跳ね橋へと続く街道を進めば進むほど強まっていくようだった。


 とはいえその圧力にも人間は慣れてくるもので、途上で足を止めていればいるだけ、壮観な街の出で立ちも景色の一部に溶け込んでいく。当初はその威容に気圧されていたあやのも、今は城壁にはためく、黒地に銀の竜の紋章が刺繍された垂れ幕を眺めて、首を傾げるばかりだった。紋章にどこか見覚えがある気がしたが、どこでだっただろうか。


「長いねえ」


 隣で馬車の御者台に腰を下ろしていたレイリアのぼやきに、あやのも視線を下げる。


「長いですね」


 目に映るのは、長蛇の列だ。あやのを含めたロクセンの村人たちから、衛兵の立つカザムダリアの城門まで、ざっと二百人はいようかという行列が形成されている。中には屋号の描かれた荷馬車に乗った行商人を思わせる身なりの者もいるが、大半は家畜を連れていたり、馬車や荷車を牽いて家財を運ぶ農民らしき出で立ちをしている。


 王都が難民の受け入れをしているという話は誤りではなかったようだ。行列は村人たちに安心と、そして不安と陰鬱さももたらした。これほどの難民が本当にみな受け入れてもらえるのだろうか。これほどの人々が、虚ろの災禍を逃れようと住む家を捨てて逃げて来たのか。


 同じ光景にあやのは、胸中に募る焦燥感を感じ取る。彼らのために一刻も早く使命の道を進みたいというのに、最後尾についてからもう一時間ばかりが経とうとする列は、一向に進む気配を見せない。


「ヘリオスフィアさんも戻ってきませんね」


 あやのは腰を浮かし行列の先に目を凝らすが、吟遊詩人の姿は見当たらない。通行証を持っているというヘリオスフィアは、ロクセンの人々について知人に口利きしてもらえないかと、さっさと隊列を離れて先行してしまっていた。相手が誰かはわからないが、話はそう簡単に進んではいないようだ。


「あれ……あそこ、どうしたんでしょうか」


 諦めて御者台に腰を下ろそうとしたあやのはしかし、眉を顰めて前方を睨みつけた。列の中ほどで人々がざわめいている。あまり穏当な様子ではない。


「ほんとだ、どうしたんだろう」


 レイリアも身を乗り出して顔をしかめる。どう控えめに見ても諍いが起きているようにしか思えない。ましてや渦中の一方はどこかの難民で、そのもう一方が剣や鎧で武装した男たちともなれば。


「私、ちょっと見てきます」


「わたしも!」


 あやのは立ち上がり、傍らに立てかけていた剣を、レイリアから送られた片手半剣を斜めに背にかけ、革ひもを締める。レイリアと共に御者台を下りると、騒ぎのもとへと一目散に駆け出した。


 対立はロクセンの村人たちのずっと前方で起きている。険悪に向かい合っているのは、合わせて十人ほどの男たちだ。鍬や鋤を手にした農民たちと睨み合い、使い込まれた革鎧を着込んだ兵士たちが一触即発の雰囲気を醸し出している。統一感のない鎧に古びた馬の紋章を入れた兵士たちは、見たところ食い詰め傭兵か、場所が違えば野盗の一味にすら見えたかもしれない。


「あの、なにがあったんですか?」


 遠巻きに見ていた難民に声をかけると、難民は小声で囁きながら首を振る。


「ああ……近づかない方がいいよお嬢さんたち。後ろにいた傭兵たちが、突然前に行かせろって騒ぎ始めたんだ」


「どけって言ってるだろ! ジジイ!」


 轟いた怒声に、あやのもレイリアも肩を跳ね上げる。


「いいか? 俺はお前らのために言ってやってるんだぞ。俺たちが早く王国軍に力を貸せば、それだけ早く虚ろとおさらばできるんだ。わかったら今すぐに道をあけろ」


「関係あるもんか! わしらは貴様らよりずっと前から並んどるんだ。女子供もゆっくり休ませてやらにゃならん。だいたい、貴様らのようなならず者が集まったところで、王国軍の飯炊き係にだって届くもんか!」


「言わせておけば……!」


 傭兵が鞘から抜いた剣を振りかぶり、農夫が両手で持った鍬を構え、あやのが駆け出す。三つのことが同時に起こり、そしてもっとも速く動いたのはあやのだった。


 騒ぎを見ていた誰もが、聞こえるのは農夫の悲鳴だと思っていた。実際に響いたのは、鋼と鋼がぶつかる硬い金属音だった。


「なん……」


「そこまでです、どちらも武器を収めてください」


 その場の誰一人として、喧騒のただなかに突如割り込んだ少女の動きを捉えることは出来なかった。


 傭兵の剣を、背の鞘から拳ひとつ分ばかり引き抜いた剣で受け止め、農夫の鍬の柄を握って押さえ込みながら、なるべく低い声を作ってあやのは告げる。どうかこれで双方引き下がってくれればと願いながら。


「な、なんだお前! ガキが口を出すんじゃねえ!」「お前もこの無法者どもの仲間か!」


 だが男たちは、引き際を知らなかった。だからあやのは怒った。なるべく声を押さえながら。


「いい加減にしてください!」


 爆音に大気と鼓膜を揺すぶられた。男たちも周りの難民たちも皆、耳を塞ぎ頭を抱える。うめき声の重奏が立ち昇る中で、唯一無事だったのは、あらかじめ耳を塞いでいたレイリアだけだ。


「誰もが呪いに脅かされているときに、どうして人間同士で諍い合うんですか! 傭兵の皆さんの敵は虚ろの魔物でしょう! こんなところで難民の方たちをいじめて、いったいどんな利益があるんです! あなたたちもです! わざわざ言葉で煽らないでください! 傭兵さんたちの態度に不満があるなら衛兵さんたちに言えばいいじゃないですか! せっかくここまでやってきたのに、王都の門を前にして大怪我したらどうするんですか!」


 捲し立てられたあやのの怒声に言い返そうとするものは、誰もいない。朦朧とする頭を抱えてたたらを踏む彼らに、あやのの声が届いていたかは怪しいところではあったが。


 だからそこに近づいてきた蹄の音に振り返れたのも、あやのとレイリアだけだった。


「おい、なんの騒ぎだ!」


 騎乗者は、磨き抜かれた銀の鎧に身を包んだ騎士だ。城壁の垂れ幕と同じ、黒地に銀の竜の紋章を帯びている。騎兵は呻く男たちと、闖入者に狼狽えるあやのの姿を認めると、なぜだか眉を顰め、妙に苦々しい表情を見せる。


「まさか、この娘がそうなのですか?」


「そういうことさ。どうだ、俺の言ったことは正しかっただろう」


 さらに後ろからやはり馬に乗って現れたのは、打って変わって得意げな顔をするヘリオスフィアの姿だった。





 湧き上がる感情に押し出され、馬上の人となったあやのの口から感嘆に声が漏れる。


 跳ね橋を渡り、頑丈な鋼鉄の柵を備えたまるでトンネルのように厚い城門を抜けると、現れたのはまさしく本に描かれていたような中世の大都市だった。


 街路樹や軒先の植え込みが繁々と緑を揺らす、灰白色の石畳を敷いた開けた大通り。整然と並ぶ白い壁の家々は、赤や橙色のとんがり屋根を揃って被り、青い空を指す煙突たちが雲を真似て饒舌に煙を吐き出している。街並みは山肌に沿って段々に積み重なっていき、頂点たる玉座からそれらを睥睨するのは、黒い雄峰を背負った厳めしい女王の居城だ。


 街は、あやのがこの世界で最初に訪れたロザムンドの廃墟よりも、ずっとずっと色鮮やかだった。そしてなにより。


 自分を乗せ、石畳の街路をゆっくりと進む鹿毛馬の蹄の音を聞きながら、あやのは落ち着きなく辺りを見回す。金属の塊が歩くような音に振り返ると、槍を携えた衛兵たちが追い抜いていく。犬を引き連れて走り回る子供が笑いながら前を横切り、大きな籠を抱えた婦人がぶつくさと愚痴をこぼしながらすれ違う。炉端で張り上げられるのは露店の店主の客引きの声で、街角の酒場から漏れ聞こえるのはジョッキやグラスを打ち付ける音。足音、水音、洗濯物のはためく音。そこかしこから人々の生活の音が、ざわめきが聞こえ、街の息遣いが聞き取れる。


 外郭から王城の間を埋めるカザムダリアの城下町は、廃墟にはあり得なかった、あやのがバックランドを訪れて初めて出会う賑わいで満たされている。


 だがそれよりもあやのは、どこか落ち着かない気持ちを隠し切れなかった。飛び交う歓声にどことなく居心地の悪さを覚えるのだ。理由はすぐに分かった。行列に並んでいた農民や傭兵たちと同じだ。


「みんな、どこかピリピリしてますね」


「東から迫る虚ろの噂は絶えず、日ごとに難民も数を増している。誰もが怯えているのだ」


 並んで馬を進ませる王国軍軍団長アルフレートの返事に、あやのは表情を曇らせる。これほど堅牢な壁に囲まれた街に暮らしていても、やはり恐怖は拭えないのだ。あるいは壁に囲まれ、外の世界の様子が見ないからなのかもしれない。目を出した不吉な噂話は、人々の不安を糧に、瞬く間に恐怖の大樹に育っていく。


「けれど、すぐに君の噂も広がるぞ。この混迷の時代に現れた、希望の竜騎士としてな」


 二人乗りの鞍であやのの前に座るヘリオスフィアが、手綱を握ったまま得意げな顔で振り返る。


「それ、言い広めるのってヘリオスフィアさんじゃないですか……」


「とんでもない。噂ってのはひとりでに広がっていくもんだ。俺は話が捻じれないよう、正しい形で伝えるだけさ」


 物は言いようだ。悪びれもしないヘリオスフィアに、あやのはわざと聞こえるようにため息をつく。


「でもまさか、ヘリオスフィアさんが王国軍の隊長さんを連れてくるなんて思っていませんでした」


「酷いな、俺を疑ってたのか?」


「そ、そういうわけじゃありませんけど」


 ヘリオスフィアが連れて戻ってきたアルフレートが王国軍の軍団長だと聞いたとき、レイリアと二人で思わず目を丸くした心の棚に仕舞っておく。


 曰く、吟遊詩人の元教え子だという団長は、厳格そうな見た目に反して融通の利く男だった。バックランド全土に関わる重要人物を連れてきた、というヘリオスフィアの言葉を信じ、あやのと同行してきた事情を聴くという名目でロクセンの村人たちを優先的に城門へと進ませた。


「私とて、陛下の指示がなければお前の言葉など信じはしなかった」


 あまつさえ、女王に謁見させるとして、こうしてあやのを王城まで案内しているのだ。あたかもすべて予見していたかのように。


「それにしても、どうして女王さまは私が来ることを知っていたんでしょう」


「あの方には、我々には見えないものが見えるのだ」


 前を見たまま答えるアルフレートの低い声に、あやのは急に不安を覚えて自分の身なりを見下ろした。着ているのは相変わらず学生服に、ボロボロの外套だ。学生の身にあってはもっともフォーマルな格好だが、異世界でも通じるとはとても思えない。


「あ、あの、私こんな格好で大丈夫なんでしょうか。着替えたりしないでも……」


「必要ない。気にされる方ではない」


 アルフレートはやはり前を、街並みの向こうに見える王城だけを見ながら答えた。


「……女王さまって、いったいどんな方なんですか?」


 答えたのはヘリオスフィアだった。


「決まってる。このバックランドで最も美しいお方だ。俺なんかじゃあ、いくら言葉を重ねても言い表せないほどにね」


 大通りを進み、山肌に沿って段々に積み上げられた城下町を、上へ上へと昇り切ったその先。カザムダリアの真の最上層には、城門のように巨大で堅牢な大扉が鎮座している。扉の両脇で揺れる黒地に銀の竜の描かれた紋章を別にすれば、豪奢で美麗とは言い難い、むしろ質実剛健で堅牢さを形にしたような意匠の門扉だ。それこそが、バックランドを治める女王の宮殿である。だがその全容を目にすることは出来なかった。なぜなら宮殿は、山肌をくり抜いたその中に築かれていた。遠目に城に見えていた建物は、入り口の一部に過ぎなかったのだ。あたかも背後に聳え立つ雄峰そのものが、王城であるかのようにさえ見える。


 あやのたちは馬を降ると、アルフレートの先導で大扉へと歩を進める。唾を飲み込み一歩一歩慎重に踏み出しながら、そんな必要はないと解っているのに、扉を守る衛兵たちの様子を伺ってしまう。巨大な門扉を潜るった先の大広間は、やはり華やかさとは一切無縁で、装飾といえば壁や天井を支える四本の柱に施された浮き彫り彫刻くらいなもの。その様は女王の住む城よりも、いっそどこかの神殿だと言われた方が納得できるかもしれない。広間の正面にはまたひとつ大きな扉があり、左右の壁にもそれぞれ扉や通路が続いている。


「この奥で陛下がお待ちだ」


 アルフレートは最奥の扉に手をかけ、あやのを招く。当然のように一緒に入ろうとしたヘリオスフィアは、厳格な軍団長によって制される。


「ここからは彼女だけです」


「なぜだ! アヤノを連れてきたのは俺だぞ。俺も陛下に謁見する権利がある!」


 そうしてひとり謁見の間を訪れたあやのは、背後で扉の閉まる音を聞きながら、驚愕に目を見開くこととなった。


 ステンドグラスの嵌め込まれた窓から光の差し込む広々とした室内に、シルクの絨毯が敷かれた埃一つ落ちていない大理石の床。天井から吊るされたシャンデリアに照らされる、王家の紋章と王族の肖像画。従者を侍らせ、ビロードのカーテンの奥で豪奢な玉座に腰かける、煌びやかなドレスと輝く王冠を戴いた麗しき女王陛下。


 あやのが思い描いていた謁見の間は、どれひとつとしてその空間には存在してはいない。


 暗い。扉の向こうに待ち構えていたのは、闇だ。背後の壁に掛けられたロウソクと、地面に立てられた燭台に火が灯されているばかりで、奥へと広がる謁見の間の全容はとてもではないが見通すことができない。扉から続く数段の石段を下ると、ブーツの裏から硬くざらついた感触が返ってくる。階段以外は見える限り床も壁も剥き出しの岩肌で、ぼんやりと照らされた燭台の周りには、牙のような円錐形の鍾乳石があちこちでそそり立っている。あやのは両手で腕をさすって身震いする。謁見の間は湿った冷たい空気で満たされている。どこからか微かに水音が響いてきた。


 まるで……いや、間違いなくそこは、山の中に出来上がった巨大な鍾乳洞そのものだ。


「ど、どういうことですが、ここが謁見の間……?」


 予想もしていなかった光景に狼狽え、なにかの間違いではと辺りを見回してみるが、答えを返してくれるものは誰もいない。だが目に力を籠め、暗闇の先を見通そうとしたとき。


『不躾な真似はおやめなさい、竜の血を享けた娘よ』


 不意に暗がりの奥から響いた凛と透る声に、あやのの心臓は大きく鼓動を打った。驚愕ではない。本能が、全身を駆け巡る血が、身の裡に宿るもうひとつの魂が訴えてくる。頭を垂れろ。跪け。この声の主に逆らってはならない。あやのは衝動に逆らわず、岩舞台に膝をつく。そうしている間にも、鍾乳洞の奥に現れた気配は地響きを立てながら近づいてくる。


 最初に頭が見え始めた。長く伸びた鼻面の奥に潜む青い瞳。流れるような二本の角。均等に鱗の並んだ長い首は、翼と尾を備えた四つ脚のしなやかな身体に繋がっている。ちらりと目線を上げ、思わず眩しさに目を細める。その者は、光り輝いていた。ロウソクの灯りを返すばかりか、その者自身が光を湛えているかのように、眩く輝いているのだ。


 あやのは理解した。城に華美な装飾は不要だ。どれだけ飾り付けたところで、女王の美しさに叶うはずがない。


『よくぞ参られました、竜騎士よ。私はグロームデイン。バックランドを治める王として、お前の前に立っています』


 白銀に輝く竜が、そう告げた。グロームデイン。そう名乗った女王は、かつて出会った竜よりも一回り小さかったが、その流麗さと気品はなにものにも劣ることはない。

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