第9話

 レイリアはあやのの腕を掴み、古い建物のひとつに転がり込む。半ば以上倒壊し、戸口もほとんどが瓦礫で埋まっている廃墟だ。無我夢中で飛び込んだ瓦礫の隙間は、幸いにもアウルベアが通るには狭すぎる。ねじ込まれた前腕から逃れるように、部屋の反対の壁まで後退った。


「ア、アウルベア、名前しか知りませんでしたけど、あんなに凶暴だったんですね」


「ヘリオスフィアの大嘘つき! いるのはせいぜい臆病な栗鼠だけだ、なんて言ってたのに! どうしよう、どうにかして倒さないと」


「倒すって、そんな」


 ひと目見て理解してしまっている。あれはとてもではないが、正面切って戦える相手ではない。アウルベアの身体は、以前襲われた虚ろの魔物よりもずっと大きく、そのくせ動きは同等以上だ。いくらあやのの肉体が強化されていても、≪竜の怒り≫があったとしても、力比べを挑めば無傷では済まないだろう。レイリアも運動神経はよく、足も速いかもしれないが、目に見えて怯えてしまっている。二人で立ち向かったからといって太刀打ちできるわけではない。


 瓦礫の隙間から生えた腕が、辺りを探るように引っ掻くのを見て、口の中にたまった生唾を飲み込む。


「ここには入って来られないみたいですし、諦めるのを待つというのは」


「そんなのダメだよ! だって、早くマンドレイクを持って帰らないと、おばあが」


 おばあが死んじゃう。口に出せなかったレイリアの言葉の続きを、あやのは正確に読み取る。「あ」言葉を飲み込んだ。


 どうして忘れていたのだろう。


 レイリアはこの場所に、ただ珍しい植物を探しに来たわけではない。命の危機にある村の仲間を救うために、身を挺して探索に来ている。例え薬草を見つけたところで、老婆の命が助からなければ、すべてが水の泡になる。


 自分が村人から頼まれた仕事だって同じだ。ただレイリアを見つけて終わりではない。彼女を無事に村長たちのもとへ連れて帰らなければ、なんの意味もないというのに。まさに目の前に迫っているような危険から遠ざけるために、自分は遣わされたというのに。


 なんて酷い思い違いだろう。あやのは痛いほど唇を噛みしめる。はしゃいでいた自分が、どうしようもなく滑稽だ。せめて行動で取り返したいのに、アウルベアと戦って勝てる未来はひとかけらだって見えてこない。


 どんな手を使ってでも、レイリアとマンドレイクを村人たちのもとに送り届けなければならないのに。


 はたと、あやのは顔を上げる。頭の中でなにかが繋がった。どうしてマンドレイクだったのか、という密かな疑問への答えだ。


 だったら。


 あやのは背負っていた学生鞄の中を漁る。不公平な手のようで気は退けたが、使えるものをすべて使わなければ、この窮地を切り抜けることはできない。


「レイリアさん、私がアウルベアを引き付けます」


 耳に指をあてながらそう告げると、レイリアは目を剥いてあやのの肩を掴む。


「ダメだよそんな無茶! アヤノがどんなに腕利きでも、剣一本じゃアウルベアにはかないっこないよ!」


「わかってます。正直、私もすごく怖いです。力比べになったりしたら、絶対敵いそうにありませんし……でも」


「アヤノ、ひとりでなんて行かせないからね。戦うならわたしも一緒に」


「あ、あの、違うんです。私は剣一本で戦うつもりも、ひとりであの子をやっつけようとも思っていません」


 壁の向こうを行き来する足音に目を向ける。どこからか入れないか、どこからか壁を破れないかと探っている姿が目に浮かぶ。だがあやのの目は、その向こうに放り出されている荒縄に向けられていた。


「私がここを出て行って、合図をしたらレイリアさんも出てきてください。そしてたっぷり二十数えてから、さっきの縄を思いっきり引いてほしいんです」


 あやのの意図を正確に理解し、レイリアは今度こそ絶句した。アウルベアに、マンドレイクの悲鳴を聞かせるつもりでいるのだ。


「それこそダメ! だってそんなことしたら、アヤノまで悲鳴に巻き込まれちゃう」


 あやのは首を横に振る。その顔は確信に満ちている。


「大丈夫です、私はマンドレイクの叫びには巻き込まれません」


「どういうこと?」


「成功したら教えますから、今は」


 すぐ後ろにある壁を見上げると、壊れかけの鎧戸を嵌めた窓がある。二人がかりでならば乗り越えられるだろう。レイリアもその視線を追い、瓦礫の隙間の向こうから聞こえる足音を見て、もう一度あやのを見た。歯を食いしばりながら決心し、頷いて見せる。


「わかった。でも、どうやったのか絶対に聞かせてもらうんだからね」


「はい! 必ずお話します」


 あやのが腰に差していた剣の布をほどき、レイリアは窓の下に身構える。窓枠に飛びつくと、レイリアに下から押し上げられ、やっとの思いで鎧戸を開けて窓を飛び越える。足をもつれさせながら駆け出し、いまだ瓦礫の隙間に執着しているアウルベアの前に躍り出た。力一杯に打ち鳴らされる鼓動と、下腹に響く低音を耳の奥に鳴り響かせながら、大きく息を吸い込み剣を振り上げる。


「こ、こっちです! 私が相手ですよ、この……この、フクロウグマさん!」


 きちんと言えていたかどうかはわからない。それでもアウルベアは振り返った。地面に鉤爪を突き立て、のこのこと姿を現した獲物に向けてくちばしを大きく開ける。


 背を向ける暇もなかった。身体のばねを解放したアウルベアは、ひと呼吸で距離を詰めて大上段から鉤爪を叩きつける。咄嗟に頭上に掲げた剣でいなし、回転しながら切りかかる。浅い。毛皮を切り裂かれ、羽根をまき散らしたアウルベアの丸い瞳が怒りに燃える。


 あやのを食われるばかりの獲物ではなく、牙を剥いてくる敵だと認識した獣は、むしろ凶暴性に拍車をかけた。立て続けに振るわれる鉤爪とくちばしの猛攻は、拙い剣捌きでしのごうとするあやのの体力を、瞬く間に削り取っていく。避け損ねた鉤爪の一撃が左腕を切り裂き、聞こえぬ悲鳴が漏れ、視界が明滅する。返す腕に振り払われ、あやのの身体は吹き飛んだ。


 背中を打ち付けながら倒れたあやのを、影が包み込む。朦朧とする視界で見上げた先に、今まさに降りかからんとする暴力があった。地に倒れた獲物にとどめを刺さんと、アウルベアは両腕を振り上げて後ろ脚で立ち上がっている。叩き潰されようと抱き着かれようと、圧し掛かられるだけでも致命傷だ。剣では受けることも、下がって避けることも出来ない。死が、まさに鎌を振り下ろそうとしている。心音がひとつ飛んだ。それでも、アウルベアから目を逸らすことだけはしなかった。


 凍り付いた思考に代わってあやのの身体を前に押し出したのは、生存本能か、あるいはグロスラッハの祝福によって強化された瞬発力だった。地面を転がりながらアウルベアの股下を潜り抜けた直後、背後に叩きつけられた前腕が地面を揺らす。起き上がり振り返りざま、あやのは身体の裡に燻る炎に薪をくべる。≪竜の怒り≫が唸りを上げ、瞬間的にあやのの細腕に竜の力を宿らせる。荒ぶる炎の力と回転力を乗せた剣が、アウルベアに叩きつけられた。鋼鉄の刃は左後ろの脚から尻にかけて深々と傷跡を残す。だが不意に、あやのの手から抵抗が消えた。


「うそっ!」


 思わず目を見開き、握っていた剣を見る。手の中に残っていたのは柄と鍔と、刀身の根元だけだ。だがそれが功を奏した。獣の身体が傾ぐ。足に残された刃が、アウルベアに耐え難い痛みを与えている。獣は羽根めいた前腕でそれを打ち払い、苦悶と憤怒を天に向けて開かれたくちばしから迸らせる。


 いまだ。あやのは残った柄を捨てて駆け出した。振り返り、バランスを崩しながらアウルベアが追いかけてくるのを確認する。


「レイリアさん! お願いします!」


 ありったけの力で叫んだ声が届いているか、確認する暇はない。信じるしかない。信じて走るしかない。


 向かい風に髪がたなびく。地面に引かれた縄を辿って、荒れ果てた砦の石壁の間を駆け抜け、避けるように飛び退っていく木々の中を疾走する。だというのに、まるで進んでいる気がしない。粘質の水の中でもがいているような錯覚。自分の身体が酷く鈍重に感じられる。たった二十秒の時間が、まるで数時間に引き伸ばされているような重圧。足音が聞こえなくてもわかる、背後から浴びせられるアウルベアの殺意が、気持ちばかりを先走らせる。


 藪を踏み越え、飛び出た枝に頬を引っ掻かれ、木立に肩をぶつけながら、最後の一歩を踏み切る。太く鋭い鉤爪が、背後から振り下ろされる。頭の中で数えていた拍数が二十に届く。縄が引かれる。両耳を手で塞ぎ、勢い余ってまた地面に転がる。アウルベアの凶器は、あやのに届かなかった。


 今まさに追いつこうとしていた獣は、振り返ったあやのの目の前で酷く苦しげに身悶えていた。姿の見えない恐ろしい手に脳をかき回されているように、不器用に抱えようとする頭を地面に擦りつけている。くちばしが地面をほじくり返していることさえ、お構いなしだ。


 やがて脱力したアウルベアは、時折痙攣するばかりで、魔法をかけられて暴れまわっていた枯れ葉の山が、元の姿に戻ってしまったかのようだった。


 恐る恐る耳から手を離しても、絶叫は聞こえなかった。視線を巡らせると、楡の木に引っ掛けられた縄の先に、根元から引き抜かれたマンドレイクが吊るされている。太く四つに枝分かれした根は、歪で長さもばらばらだが、確かに乱暴に形取られた人間の姿に見えた。茎に近い場所に不自然に空いた洞が、苦悶の雄叫びを上げる人間の目と口を描いている。迸る悲鳴は幸い聞こえていなかったにもかかわらず、あまりにも不気味な出で立ちに背筋が震えた。不吉そのものを描いたような光景だ。木から吊るす形で縄をかけたのは失敗だったかもしれない。作戦が無事成功した安堵に、あやのはひっそりと後悔を混ぜて息を吐き出した。


 顔を上げたあやのは、砦の方から駆け寄ってきた人影に気付き手を振る。


「こっちです、レイリアさん! ありがとうございます、おかげでアウルベアを倒せました!」


 立ち上がろうとしたが、それは失敗に終わった。傷も打ち身もあちこち痛んだが、なによりもすっかり腰が抜けてしまっていた。駆け寄ってきたレイリアはあやのの傍に膝を付き、手を取り、腕の傷を見ると不安に歪んでいた顔をさらにしかめて、そしてその間ずっとなにかを話しかけてきていたが、あやのにはなにひとつとして聞き取れなかった。


「あ、そ、そうでした。ちょっと待ってくださいね」


 耳に手を当て、収まっていたものを取り外すと、やっと周りの音が聞こえるようになる。木々の囁きも、レイリアの声も。


「なあに、それ?」手のひらに転がった見慣れないものにレイリアは目を瞬かせる。「もしかして耳栓? まさかそれでマンドレイクの声を防いだの?」


「そうなんですけど、これはただの耳栓じゃなくって……ええと、なんて言ったらいいのか。音楽が聞こえる耳栓、ですかね」


 鞄の中に入っていた、スマートフォンと繋がるワイヤレスイヤホン。耳から外してもなお、かすかに音楽が漏れ聞こえている。自分の世界から持ち込んだ、バックランドにはありえない道具。不公平な気もしたが、使えるものすべてを使わなければ倒せなかったのだからと、あやのは自分を納得させるしかなかった。それに。


「すごいすごい! そんな耳栓聞いたことないよ、魔法の道具なの? もう、どうして先に教えてくれなかったの。アウルベア相手じゃなくても使えたのに!」


 はしゃぐレイリアの無邪気な表情は、見返りには十分すぎるほどだ。


「実を言うと、持ってるのを忘れてたんです。すみません、手を貸してもらえますか? まだ足が震えてしまって」


「わかった! っていうか怪我してるじゃん、早く戻って手当てしてもらおう。それにマンドレイクは……うわっ、気持ち悪い!」


 間近で見る不気味なマンドレイクの出で立ちに揃って顔を顰めながら、しかしその発見と、凶暴な獣との激闘を制した達成感を抱き、二人は砦を後にする。


 やがて夜のとばりが森に忍び寄り、アウルベアの身体に黒い影が降りてきた。

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