第10話

 大急ぎで森を出た二人が村の隊列に戻ったのは、あわや陽が沈んで足下さえ見えなくなる、その寸前であった。


 日没間際まで戻らない二人に心を砕いていたヘルマンらは、その帰還を大いに喜び、持ち帰ったマンドレイクに驚嘆した。泡を食った薬師が煎じた薬を与えると、メリンダの呼吸はみるみるうちに穏やかなものになり、レイリアも、ロクセンの村人たちも、もちろん一緒に治療を受けていたあやのも、深々と安堵の息を漏らした。それからレイリアは、最後にやってきて「まったく! とんだ英雄たちだな!」と笑うヘリオスフィアの向う脛を蹴り上げた。


 日没を迎えると、野営の支度を整えた草原に大きな焚火が熾される。不安に気を揉んでいた村人たちは一転、仲間の無事を祝い、新たな同行者を歓迎する笑いに包まれた。


「食料はしこたま持ってきたからね、どんどん食べておくれよ!」


 ニンジンやジャガイモがふんだんに入ったシチューに、塩漬けベーコンに、干した果物。豪勢とは言えなくも、精一杯のもてなしを振舞われ、あやのは恐縮しながら満腹になるまで食べ、唸りを上げていた腹を黙らせる。


 農夫がこっそり馬車に積んでいたという麦酒ばかりは、どれだけ勧められても断らざるを得ない。悪いとは思いつつ、婦人にしこたま怒られている農夫の姿には、笑いを堪えることができなかった。


 夜が深まるにつれ、村人たちは口々に、ロクセンがどんなにいいところだったかを繰り返し語った。高地にあって見晴らしがよく、肥沃な土地には、有り余るほどの実りがあったこと。トマトやキャベツ、中でもカボチャは村のひとつの特産だったこと。来訪者が少なく静かな日々を送っていたが、時折旅人がやってくると、村人総出でもてなしたこと。


 興の乗った村人のひとりが桶をひっくり返し、底を軽快に叩き鳴らしはじめると、吟遊詩人の本領を発揮せんと、ヘリオスフィアがリュートをかき鳴らし、歌声を朗々と響かせる。女たちが火を囲んで踊り出す。男たちが囃し立て、あちこちでジョッキがぶつかり合う。年に一度の収穫祭の夜のように。


「それでわたしが見に行ったら、アウルベアは地面に倒れていたんだよ! でもでも、アヤノだけは無事だったの!」


「すごい、どうして?」


「マンドレイクの声を聞かなかったの?」


「実はアヤノには、マンドレイクの悲鳴から身を守る奥の手があったからなんだ!」


 アウルベアとの死闘の様子を、盗み見ていたらしいレイリアが熱弁すれば、目を輝かせた子供たちに取り囲まれる。イヤホンを貸し、スマートフォンの中に取り込んであった音楽を(もちろん常識的な音量で)聴かせてやると、バックランドで奏でられる牧歌的な調べとはまるで違う音と旋律に、誰もが目を丸くしていた。未知の文化との交流を見ているようで、あやのは、日本で人気のポップスに翻弄される子供たちの姿に、顔を綻ばせた。


 焚火を囲む輪の中に、レイリアの姿がないことに気付いたのは、子供たちからどうにかイヤホンを取り返したときだった。


 不思議に思いながら視線を巡らせるあやのの横に、長身の人影が座り込む。ヘリオスフィアだ。


「まったく、そんな大冒険になるんだったら、俺もついて行けばよかったな。いい歌の題材になったかもしれないのに」


 焚火の周りでは、まだ村人たちが踊っている。ひとしきり演奏し終えて満足したのか、酒精が入ったからか、わずかに潤んだ瞳でリュートを鳴らす吟遊詩人を、あやのは目を細めて睨みつける。


「もう、こっちは本当に大変だったんですからね。もし合流できてなかったら、二人ともどうなってたか」


「アウルベアがこんなところに出るとは、俺も思ってなかったよ。この辺りは生息域じゃないはずなんだ。きっと虚ろの呪いのせいで、動物たちの棲み処まで変化してしまったんだな」


 焚火を睨みながら、ヘリオスフィアは唸るように呟く。声音は真摯で、深刻だった。かと思えば、ぱっと顔をあやのに向け、身を乗り出してくる。


「それより、さっきの音楽はなんだ? 俺はエルケンバルト大学院にいたが、あんなものは聞いたことがない。あれはいったい、どんな楽器で奏でた音楽なんだ。弦楽器に似ているが、俺の知ってるどんなリュートやギタララティーナも、あんな音は出せないはずだ」


 しまった。いつの間にかこの男も、イヤホンから音楽を聴いていたのだ。あやのの住む世界の音楽を。村人たちは疑問を抱かなくても、吟遊詩人の耳は欺けない。


「えっと……すみません、私レイリアさんを探してるんでした!」


「あ、おい!」


 辺りを見回すと、街道に残された荷車や、それを牽く馬の隊列に向かって歩いていく人影が見えた。あやのは慌てて立ち上がり、その背中を追いかける。後ろでヘリオスフィアが叫んでいたが、気付かないふりをした。


 焚火の灯りから離れると、すぐに辺りは、足下さえおぼつかない暗闇に包まれる。唯一の光源が、余計に影を濃くしているかのようだ。荷車に繋がれたままの馬たちが、退屈そうに足下の草を食んでいる。その間をすり抜け、レイリアの姿を探す。馬車に背を預ける人影を見つけ、あやのは足を止めた。


  西の海に船を探そう。

  月明かりと夜風に送られながら。

  母の背を巣立ち、船に揺られ。

  西へと旅立つ君を見送ろう。


 聞こえてきたのは、素朴で、どこか物寂しい歌声だ。草原の焚火から舞い上がった火の粉が、歌声に乗って虚空へと消えていく。どうかその行き着く先に、昇る陽に照らされ、安らぎに満たされた、平穏な世界が待っていますように。そう願う歌声だった。


 空に向かって歌うレイリアの視線は、その向こうまで見通そうとしているようで、あやのも思わず視線を宙に向ける。


 暗く、眩い。見渡す限り、零れ落ちんばかりの星が散りばめられ、眼下のささやかな宴の様子を見守り、瞬いている。月の姿は見えない。どうやら今日は新月らしい。初めて目にする、満天の星空だった。


「あれ、アヤノ?」


 いつの間にか、レイリアが驚いた表情で見つめている。あやのは思わず佇まいを直した。


「す、すみません、お邪魔してしまって」


「ううん、大丈夫だよ! なにかあった?」


「いえ、離れていくのを見かけて、なんとなく追いかけてしまったんです」


 吟遊詩人から逃げる言い訳に使ったことは伏せたまま、表情を窺い歩み寄る。レイリアは、そっか、とまた目線を宙に躍らせる。


「さっきの歌、聞こえてたよね」


「すみません、盗み聞きするつもりはなかったんですが」


 気にしないで。そう首を振るレイリアに、あやのは口を噤んだ。疑問を投げかけることも、顔を正視することも出来ず、隣に並んで横目で表情を盗み見る。あやのが己の好奇心を扱いかねていると、レイリアが先に口を開いた。


「今のはね、ヘリオスフィアに習った、旅立つ人を送り出す唄なんだ」


「旅立つ、人を」


「うん。亡くなった人の魂は西の海を渡って、その果てにある黄金の原に行くんだけど……アヤノのいたところでは違った?」


「ええと……そう、ですね」


 あやのは言葉を濁した。死後の世界に対して、なにか明確な考えを持っているわけではない。ただ、天国や地獄があるなら、物語の世界のように、冒険の舞台になればいいのにと、漠然と想像しているばかりだ。


「あ、でも西へ向かう、というお話は聞いたことがあります」


「じゃあやっぱりおんなじだね!」


 笑顔を輝かせるレイリアに、釣られて笑みを浮かべる。きっと聞くべきだ。自分も荷車に背を預けながら、あやのは恐れず顔を横に向け、レイリアを真っ直ぐに見つめた。


「どなたを想って、唄っていたんですか?」


「わたしの、お兄さんみたいな人!」


 レイリアが顔に浮かべたのは、とっておきの宝物を披露するような笑顔だ。


「すごく強い剣士だったんだよ! その人は旅の末にロクセンで暮らすようになった、用心棒みたいな人だったの。村の近くに危険な獣が出たりしたときに、真っ先に退治に向かう勇敢な剣士。強くて優しくて、みんなには止められたけど、わたしにもこっそり剣を教えてくれてたんだから」


 大事に仕舞っていた秘密を、でもどうしても誰かに自慢したくて仕方がないという顔で、レイリアは語る。その目線が僅かに下を向いた。


「でも、ある日村に虚ろの魔物が現れて……みんなが家の中に隠れてるとき、その人だけは戦いに出た。巨人のような姿をした、恐ろしい魔物を相手に、剣一本で戦って……一晩中続いた戦いの音が止んで、魔物が消えて、残っていたのは、刺し違えて命を落としたあの人だけだった。それからすぐに作物が枯れたり、森で妙な生き物を見るようになって、それでみんな、もう村にはいられないってなったの」


「……すみません、辛いことを聞いてしまって」


 あやのが俯くと、レイリアは慌てて手を振った。


「気にしないで、寂しくなんてないもん! あの人は絶対、金剛槌の館に行ってる。わたしも、きっといつか向かうから」


「金剛槌の館?」


「黄金の原に向かった中でも、栄誉ある戦士の魂が招かれる英霊の住まい! もしかしたら、アヤノなら招待されるかもしれないよ。そうなったら、みんなで再会のお祝いしようね! きっとアヤノも仲良くなれると思うんだ。その人もアヤノみたいに好奇心旺盛で、冒険が好きな人だったから!」


 無邪気な展望を語って笑うレイリアに、あやのは上手く笑い返すことができない。自分にそんな資格があるのだろうか。拭えぬ疑問が頬を引き攣らせる。レイリアはその顔を覗き込み、形のいい眉をひそめた。


「アヤノ、大丈夫? なんだか顔色よくないけど、やっぱり怪我が痛む?」


「へ、平気です。気分が悪いとかじゃないんです、ただ……」


「ただ?」


 レイリアから目を逸らし、隊列の向こうの炎を見つめる。


 小さく見える火の周りを、圧し掛かるような闇が覆っている。夜明けは遠く、頼れるものはどこにもない。あやのの目にその光景は、小さな小さな、いつかき消されてもおかしくない希望を囲んだ人々が、肩を寄せ合って小さく震えているかのように、寄る辺なく、心細い姿に見えていた。


 黒騎士、虚ろの呪いが生み出す魔物。その姿を目の当たりにして、恐ろしさは理解したつもりだった。だが、それらがなにをもたらしているのかを理解したのは、ようやく今このときになってだ。


 自分がマンドレイク採取に胸を高鳴らせていたとき、まともな寝床もない馬車の荷台で、老婦人が熱に臥せっていた。自分が物語の主人公になれると息巻いている世界で、虚ろに脅かされた人々が、大切な人を失い、故郷を追われている。そんな簡単なことに、どうして気付かなかったのだろう。


 己の浅慮が恥ずかしく、レイリアにも、血に乗って身体を巡る赤竜の祝福にも、合わせる顔がない。無鉄砲だが、自分がなんのために行動を起こし、それがどんな結果になり得るのかを正しく理解していたレイリアの方が、よっぽど主人公らしい。


 そんな内心を吐露出来るはずもなく、口から漏れたのは深いため息だけだった。


「少し、食べ過ぎてしまったみたいで」


「そうなの?」


「はい、頂いたシチューが本当においしくって」


 笑って誤魔化そうとするあやのを、レイリアは怪訝そうに眉根を寄せて見つめる。だがあやのが黙っていると、それ以上追及することはなかった。


「ならいいんだけど。あ、そうだ」


 代わりとでも言うように、レイリアは胸にかかっている革帯を解き、背負っていた剣を鞘ごと取り外す。その剣を、不思議に思いながら見ていた眼前に差し出され、あやのは喉から変な音を漏らし狼狽した。


「レイリアさん?」


「アヤノの剣、アウルベアとの戦いで折れちゃったでしょう? だからこの剣、受け取ってほしいんだ。わたしや、おばあを助けてくれたお礼!」


「受け取れませんよそんなの! だって、だってその剣は」


 レイリアが宝物のように触れる手つきを見れば、聞かなくたってわかる。拳二つ分ほどの、黒革を巻いた柄に、十字鍔。長い両刃の刀身を鞘に収めた、片手半剣。片田舎の平和だった、風光明媚な農村の住民が持つには似つかわしくない、実用的で、よく手入れされた長剣。


「いいんだ、わたしが使うにはちょっと重かったの。きっとアヤノの方が、ずっと上手に使えると思う」


「でも」


「それにね!」


 有無を言わさず剣を押し付けられ、思わず受け取ったあやのが顔を上げると、レイリアは心の底から屈託なく笑っていた。


「わたしはちゃんと、あの人から習ったものを持ってるから。この剣は、いま必要とする人の手にあるべきなんだよ。きっとアヤノには必要だって、そんな気がするんだ」


 あやのが挑もうとする道を思えば、武器は欠かせない。だが愛おしげに剣を眺めるレイリアの視線を見れば、簡単に頷くことなど出来るはずもない。


 あやのは、剣の柄に手をかけた。鍔本近くを握りしめ、ひと息で鞘から引き抜く。清流のような涼やかな音を立て、磨き抜かれた刃が姿を現した。あやのはため息をつき、曇りひとつない長剣を目の前に掲げる。柄は吸い付くように手に馴染み、星明りを映す刃は曇りひとつない。


 二度、三度と手首を返しながら振るってみれば、剣は羽根のように軽く、しかし鋼鉄の重みが切っ先まで零れることなく力を伝えている。もう一度眼前に掲げられた剣は、ぶれることなくぴたりと天を指し示した。


「……やっぱり受け取れません。私には、そんな資格はないんです」


「どうしてそんなこと言うの? アヤノより相応しい人なんて、どこにもいないよ!」


 食い入るように刃を見つめながら、しかし頷いて受け取ることは出来ない。レイリアがどうにか受け取ってもらおうと口を開く。


 そして固まった。


 噛み合わなくなった歯の根ががちがちとやかましく音を立て、瞳孔がぎゅっと絞られる。額から玉の汗がにじみ出ている。目の端に涙が浮かぶ。あやのもまったく同じだった。酷い悪寒が背筋を駆け上がり、胃がひっくり返りそうな嫌悪感が込み上げてくる。知っている感覚だ。おぞましいものが近づいてくる。森の向こうから。


 馬たちが蹄を踏み鳴らして嘶きを上げる、家畜たちが狂ったように騒ぎ出す。


「ア、アヤノ、これって」


 疑うまでもない。


「虚ろの魔物……! レイリアさん、戻りましょう!」


「う、うん!」

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