第7話

 再びバックランドを訪れたあやのの冒険は、廃墟の街に見繕った、間に合わせの寝床から始まった。


 日の出とともに、大きく揺ぎ無い温もりに抱かれて眠る夢から目を覚ますと、打って変わった肌寒さに肩が震える。寝巻代わりに身体に巻き付けていた、若草色の綿麻の織物を、間に合わせの外套として羽織る。別の布と革紐で、剣の刀身を包んで腰に括る。グロスラッハの胸に刺さっていた、あの剣を。


 どれもこれも埃っぽさは否めなかったが、旅立ちの装いだと思えば、そう気分は悪いものではない。


 表に出ると、あやのの逃亡劇でますます崩落の進んだ廃墟の街並みも、東から差す光に照らされる巨大な赤竜の骨も、前日に見た最後の光景そのままだ。元の世界から持ち込んだ学生鞄を肩にかけ、朝日を右手に歩み出す。


 廃墟の街から、北へと続く街道を歩きながら、熱の籠った息を漏らす。


 石畳の街道は古びてはいたが、平野をどこまでも、途切れることなく貫いている。右手で陽射しを遮りながら目を凝らせば、街道は遥か彼方で、青く抜けた空と出会い途切れている。気ままにわた雲を浮かべる空の青と、ところどころに木々の群れを繁らせる大地の緑が、世界の上半分と下半分をすっかり占有し、街道の果てで、その領地をぴったりと切り分けているように見えた。


 地平線だ。生まれて初めて目にする世界の境界線を目指し、間に合わせの外套の裾をなびかせながら、足取りも軽くあやのは歩き出した。


 陽射しは明るく、澄んだ空気と肌を撫でるそよ風の中は優しく、旅立ちにはもってこいの陽気だ。外套の下の装いが学校の制服そのままならば、当然履いているのも上履きのままだったが、果ての見えぬほど遠くまで広がる、穏やかな非日常の中を歩く昂揚は、時折石畳の窪みに足を取られる煩わしさを補って余りある。


 足元に落ちた影に顔を上げると、大きく翼を広げた犬鷲が太陽の中を横切り、ぱたぱたと忙しなく地面を叩く音に目を落とすと、脇の草原から顔を出した野兎が、耳をそばだててあやのを見送っている。ブナの林の脇を通れば、よく肥えた土の香りが鼻腔をくすぐり、栗鼠の親子が、頬袋をいっぱいに膨らませて枝の間を駆け抜けていく。


 歩くたびに起こる些細な出来事に視線を巡らせながらの道行は、竜騎士として底上げされた体力を差し引いたとしても、欠片ほどの疲れも感じさせない。たびたび舗装のされていない分かれ道に出くわすこともあったが、あやのはただ真っ直ぐに北へ歩き続けた。それが一番大きな道だったから。


 そうして、どれほど歩いただろうか。小休止に炉端の低い石垣に腰を下ろし、長歩きに向かない靴に傷む足を揉み解すと、ぐう、と腹から唸る声が聞こえる。胃袋の聞き分けのなさに呆れながら、あやのは鞄の中身を漁った。


 財布と学生証、教科書と筆記具、読みかけの文庫本。この世界では使えるはずもないスマートフォンに、ワイヤレスイヤホン。他にはペットボトルの紅茶が一本と、クッキーが二つ。悩んだ末、クッキーを一袋だけ開けて食べた。チョコチップの甘さが舌に広がると、また気力が湧いてくる。


 王都までどれほどの道のりかわからないが、不思議と不安はない。胸に灯る熱のおかげだろうか。


 突き動かされるように立ち上がり、再び歩き始める。道の先に変化が現れたのは、さらに二度の休憩を挟んでからのことだった。


「あれ……?」


 行く手に伸びる街道の上に立つ輪郭が見えた。またぞろ読めもしない道標かと思いかけた。だが影が動いていることに気付くと、すぐにその考えを捨てた。


 人だ。ひとりやふたりではない。幾人もの人影が街道上で行き来している。自然と歩調が早まっていく。


 近づいていくにつれ、彼らのものであろう荷車や、それを牽く馬たち、牛や羊といった家畜の姿も見えてきた。道の半分を占拠していたのは、三十人はいようかという旅隊だった。麻の服を着て忙しなく動き回っている彼らはみな日に焼け、いかにも農民の一行という出で立ちをしている。


 女たちは荷車から食材を持ち出して下ごしらえに勤しみ、子供たちが馬に飼い葉を与えている。街道から外れた平野では、男たちが簡易な天幕を組み立てている。ここで生活しているものたちではない。彼らは野営の準備に奔走している。


 近づいていくあやのの耳に、音色が聞こえてくる。隊列から、草原を渡る風のように、軽やかに弾かれる弦の音が響く。そして歌声も。


 旅人は、夜を恐れた。

 深い闇に目を閉ざされてしまうから。

 旅人は、朝を恐れた。

 強い光に目が眩んでしまうから。

 我が家を探す旅人は、ひとり孤独に涙した。

 星々の導きに気付かないまま。


 隊列の一番後ろ、馬車の荷台で抱えたリュートをつま弾く男が、旋律に乗せてどこか物悲しい歌を口ずさんでいる。くせのある栗色の髪と、同じ色の無精ひげを生やし、浅葱色のジャケットに身を包んだ、壮年の男だ。農民の一行には、いささか似つかわしくない格好をしている。


 様子を伺いながらさらに近寄っても、男の視線はどこか遠くに投げ出されており、あやのに気付く様子もない。


「あの」


 思い切って声をかけると演奏は止んだが、男は遠くを見たまま振り向きもしない。


「あの!」


「いい加減にしてくれ。俺は聞かれたことを教えた、それだけなんだ。相手がどうしようと、責任なんて取れっこないって言ってるだろう」


「え? いえその、違います、聞いてください!」


 もどかしさに拳を振りながらもう一度声を張り上げると、男の目線はようやくあやのを捉えた。


「なんだ、しつこいな……おっと? これは失礼、見覚えのないお嬢さん。どちら様かな?」 


「すみません、通りがかりに。私、高千穂あやのといいます」


「タカチ、ホアヤノ? おかしな響きの名前だ」


 怪訝に眉を顰める男に、口を押える。彼らには日本人の名は馴染みがないのだろう。


「あやので大丈夫です。ただのあやのです」


「それで、その見慣れぬアヤノはなにものだ? 野盗か、遍歴の騎士か、それとも迷子の女の子か?」


 男は目を細め、油断のない目つきであやのを睨む。目線は、腰に差した剣に向けられていた。


「や、野盗なんかじゃありません! 私は」


 あやのは息を吸い込んだ。もう、なにもできない自分ではない、胸に宿る熱と共に授かった肩書を、凛として名乗るために。


「私は竜騎士です!」


 男は起き上がり、丸い目で竜騎士を見つめる。あやのも荒く鼻息を吐きながら見つめ返した。すぐ傍らを、はしゃいだ犬と、それ追いかける少年が駆け抜けていく。


 やがて、吟遊詩人は吹き出した。


「はははははは! こりゃいい、君が竜騎士だって?」


「な、なんで笑うんですか」


「いやあすまない! つまりお嬢さんは、恐ろしくも偉大なる竜を殺し、その力と高潔さを認められた伝説の再来というわけだ。お目にかかれて光栄だ、数百年ぶりに現れた小さな竜騎士よ! それで、お嬢さんが退治したのはどんな蜥蜴かな?」


 目を見開く。すぐに吟遊詩人の態度の意味に気付き、火が噴き出そうなほど、顔が熱くなる。


 どうして忘れていたのだろう。竜を倒し力を認められる人間など、伝説に謳われる存在に決まっている。こんな道端で出会う相手でも、普通だったら自分のような少女がなれるものでもないのだ。


「すみません、忘れてください……私はただの、ただの旅人です」


「いやいや謙遜しないでくれ、小さな竜騎士のお嬢さん。俺は嘘だなんて思っていないよ、伝説はときに綿毛のように風に乗って現れるものだ」


「や、やめてください、お願いですから!」


「わかったわかった、ただの旅人のアヤノ。それで、いったいなんの用なんだ」


「ええと……不躾なことをお聞きするんですが、皆さんどこかへ向かわれる最中なんですか?」


 上目遣いに訊ねると、荷車から降りてきた男はますます胡乱なものを見る目をあやのに向ける。


「決まってるだろう。王都さ」


 待ち望んでいた答えに輝いた顔は、しかし続く言葉にすぐに曇った。


「彼らは生まれた村を捨ててね」


「村を、ですか? どうして……」


「そりゃあもちろんロクセンの、彼らの村の周りにも魔物がうろつくようになったからだ。田舎の農村じゃあ騎兵隊も来てくれやしないし、もう魔物と戦えるような戦士も残っちゃいない。このまま脅かされるのを待つんだったらってんで、王都に向かうことにしたってわけだ。向こうじゃ、難民を受け入れてくれるって言うからね」


「そう、だったんですか」


 それ以上言葉を継げなくなった。虚ろに生まれ育った地を追われ、故郷を捨てざるを得なかった彼らに、助けてほしいなどとどうして言えるのだろうか。


 せめて王都への道のりだけでも聞けないだろうか。「ところで」あやのが考えを巡らせていると、男が声を上げる。


「竜騎士かどうかはさておき、その腰の剣は冗談ってわけじゃないよな。君は剣士ってことでいいのか?」


 目線を追って、あやのは自分の腰に提げている剣を見る。この出で立ちで首を横に振るのもおかしな話だし、実際にこの得物で虚ろの魔物を撃退してもいる。ならば、頷いても嘘ではない。竜騎士を名乗るよりもよっぽど現実的だ。


「そう、ですね。一応は?」


「だったらちょっと、こっちに来てくれないか」


「え? あの、待ってください!」


「おっとすまない、名乗り忘れるとはとんだ失礼を。俺はヘリオスフィア。見ての通り、しがない吟遊詩人だ」


 そう言うことじゃない。呼び止める間もなく、ヘリオスフィアと名乗った吟遊詩人は、踵を返して隊列の奥へと向かってしまう。呆気にとられながら、あやのは慌ててその背中を追いかける。


 忙しなく行き交う村人たちの間を抜けて、吟遊詩人が先導した先は、列の中ほどにある幌馬車だった。「入るぞ、マグヌス」声をかけてヘリオスフィアは無造作に乗り込んでいく。急かすように手招きされ、たじろぎながら幌を潜る。


 明かりを透かす幌の中は、思いのほか明るかったが、漂う空気はお世辞にも和やかなものではない。車内の半分には、綿布をかけた黄色い干し草が敷き詰められている。その上には老婆が横たわり、土気色をした額に脂汗を浮かべ、時折唸りながら身を捩る。ひどい熱に浮かされているのが一目でわかった。傍らに膝をつく老年の男性が、桶の水に浸した手拭いを絞り老婆の額にかけてやるが、どれほどの意味があるものだろうか。


「ばあさんの様子は?」


「ますます酷くなっとるよ。このままじゃあ今夜を越えられるかどうか。それで、今更どうしたんだ。その娘さんは?」


 会釈するあやのの背を、ヘリオスフィアが引っ立てるように押す。「通りがかりだよ。りゅう、いやいや、なんでもない」睨むと、ヘリオスフィアは首を振った。


「あやの、と言います。よろしくお願いします」


「これはどうも、ロクセンの村長をさせていただいております、マグヌスと言います。どうぞごじっこんに」


 あやのは目を丸くして、慌ただしく顔の前で手を振った。突然連れ出されたのが、まさか村の代表者の前だとは。


「そ、村長さんですか? すみません、突然お邪魔してしまって」


「いやいや、かしこまらないでください。村長などと言っても、村を出てしまったわけですから、名ばかりのものですよ」


「村長は村長さ。ロクセンの村を出たとはいえ、集団には統率者が欠かせない。つまり村にいなくても、マグヌスは村長ってことだ。そんなことよりこの娘、見ての通り剣の使い手だ。どうだいマグヌス、このアヤノにレイリアを連れ戻してもらうっていうのは」


「このひねくれものめ、都合よく身代わりを連れてきおって」


 文句を言いながらもマグヌスは、あやのが腰に差した剣に思案顔になる。当のあやのはますます状況が呑み込めず、狼狽えながら二人の顔を見比べた。


「あの、いったいどういうことなんでしょうか」


 マグヌスは、首筋に手を当てながら頭を下げる。


「これは失礼。いえね、見ての通り、村の一員であるメリンダさんが臥せってしまわれましてね。旅の途中で足に負った切り傷から、なにか毒が入ってしまったんでしょう。もう二日は経つというのに、一向に良くなる気配がない」


「それは」痛ましい話に、眉根が寄る。あやのは、熱に苛まれる苦しさをよく知っていた。「どうにかならないんですか?」


「持ち合わせの薬で出来る限りの処置はしたものの、もうこれ以上は打つ手がありませんでして。薬師によれば、マンドレイクという植物の根があれば特効薬を作れるというという話なんですが」


「マンドレイク!」


 あやのの目が輝いた。


「ご存じですか?」


「はい! 根っこが人ような姿をしていて、魔術や錬金術にも使われる植物ですよね! 地面から抜くと根っこが悲鳴を上げて、それを聞いたものは正気を失ってしまうという」


「ええ、まさしくそのマンドレイクですとも。珍しくてなかなか手に入らない上に、集めるのにも危険が伴う代物で、薬師も持ち合わせがありませんでした」


 やはりここは魔法の力が働く世界だ。恐ろしい魔物が闊歩する一方で、人々が用いる薬にも、人知を超えた力を持つ草花が使われている。


 物語の中で息づいていた不思議な存在に思いがけずめぐり合い、あやのの鼓動が早まった。


 マンドレイク。成長すると自分で地面から這い上がり、歩き回りさえするという伝説もある。果たしてどんな姿をしているのだろう。どんな声で叫ぶのだろう。聞いてはいけないと解ってはいても、好奇心に胸がざわつく。いけない。首を横に振る。いまはそれどころではない。


「ええと、お願いしたいことっていうのは」


「これが困った話でして、レイリアという娘がひとりで勝手にマンドレイクを探しに行ってしまったんです」


「ひとりでって、そんな、危ないですよ!」


「まったく無鉄砲な話さ」詩人は手のひらで膝を叩いた。


「あんたが余計な話をするからだろう、まったく」マグヌスは厄介者を見る目でヘリオスフィアを睨む。「レイリアってのは、これがまたお転婆な跳ねっ返りで。気立てはいいんですが、体力と行動力はこのヘリオスフィアなんて比べ物にもなりやしない。そんな子の耳にマンドレイクの話が入って、しかもこの偏屈な吟遊詩人が、この近くにはうってつけの場所があるなんて口走るものだから、みなが気付いたときには飛び出しておりました。気持ちはわかりますが、いくらなんでも危険すぎる。こいつにも追いかけろと言ったのですが」


「ただの古い戦場跡、なにが危険なことがある。だいたい俺は、たまたま道を同じくしているだけの部外者だ。聞かれたことを教えただけで、感謝されこそすれ、あとを追いかけないといけない理由はないだろう。ましてや、血の気ばっかり盛んな向こう見ずの若者なんて、俺が一番嫌いなものなんでね」


「この調子でして」


 さも当然のように一行にいたヘリオスフィアが、実のところ村の一員ではなかったことに驚きながら、あやのは違和感に首を捻る。


 若者たちを英雄譚に憧れさせるのは、それこそが吟遊詩人の仕事ではないだろうか。血気盛んな若者こそ、次の英雄候補だろうに。


 あやのが自己矛盾するヘリオスフィアを訝しむ傍ら、マグヌスは沈痛な面持ちで首を振った。


「大事な仲間を連れ戻していただくよう、お願いしたいのはやまやまなのですが、我々にはあなたにお支払いできるような蓄えがないのです。いかんせん、みな手荷物と日々の食料、あとは家畜たちばかりを連れて村を出てきた次第です。もとより小さな農村でしたから、満足に人を雇えるような金もありはしなかったものですが」


「なに、このお嬢さんなら、報酬の多寡にこだわらず引き受けてくれると思うがね。なにせ高潔なる魂の持ち主だ」「ちょっと!」


 顔を赤くするあやのに、首を傾げるマグヌス。だがいずれにせよ答えは決まっている。そもそも、あやのが今欲しいのは金銭ではない。


「こほん。あの、ぜひ私に、レイリアさんを追いかけさせてください。その代わりと言ってはなんですが……実は私も王都を目指しています。でもお恥ずかしながら、正確な道のりもわからなければ、食べ物さえ持っていなくて。もしよければ道案内と、食料を分けていただけないかな、って」


「それはもちろん、構いませんが」


 マグヌスとヘリオスフィアは、旅の身空に見えたあやのの奇妙な申し出に顔を見合わせるのだった。

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