第二章『愚者の旅路』

第6話

「おはようございます、麻由香ちゃん!」


 廃墟の街での目まぐるしい継承から現実世界に戻った、その翌日。代わり映えしないはずだった朝の光景は、眩いほどの賑々しい色彩に溢れていた。


 けたたましい目覚まし時計も、体調はどうだ昨日は眠れたか忘れ物はないかと神経質な両親も、毎朝通りかかるたびに吠えてくる犬小屋に繋がれたポメラニアンや、通勤ラッシュに揺らされる電車のアナウンスさえもが、なにか堪えきれない喜びと興奮に彩られ、わけもなく自分を祝福しているように感じられる。


 あやのは跳ねる足取りのまま教室に飛び込み、いの一番で親友の机に駆け寄った。どうして誰もが、こんなに楽しそうなのだろうか。昨日の宿題をやり忘れた、と項垂れている同級生まで、なぜだか声が弾んで聞こえてくる。なのに、麻由香はすぐには返事をくれない。


「麻由香ちゃん?」


「……おはよ。ずいぶんご機嫌じゃん、あやの」


 怪訝そうな麻由香に言われ頬に手を当て、ようやくあやのは自分が満面に笑みを浮かべていたことに気が付いた。


「あ、あれ? 私、もしかして笑ってましたか?」


「いまどき、クリスマスの小学生だってそんなに笑わない、ってくらいには」


 いくら麻由香に背を向けて頬を揉んでも、口角が大人しく下がってくれる様子はない。


「それで?」


 声をかけられ、必死で口を横一文字に結んで振り返る。


「どうだったの昨日は。行ったんでしょ? 例の怪しい募集」


「そうなんです、聞いてください!」


 満面の笑みで麻由香の机に身を乗り出した。


「私、異世界で竜騎士になってしまいました! 竜騎士っていうのは、ドラゴンを倒してその力を受け継いだ人のことなんですが、なんと私が降り立った場所に呪いに蝕まれたドラゴンがいて、そのドラゴン、グロスラッハさんが呪いに魂を穢されるのを防ぐには、人間に倒されて竜騎士としての契約を結ぶほかになかったんです」


「待って、待ってあやの」


「ここからが私の頑張ったところなんです。もちろん真正面から戦えるはずなんてないですから、私はどうにか身を隠しながら打開策を考えて考えて、思いついたんですよ! グロスラッハさんの鱗に挟まっていた剣を使えば、もしかしたら……」


「待ってって! あやの……いったいなんの話をしてるの」


 話を佳境で遮られ顔を上げると、麻由香にしては珍しく狼狽し、目に見えて困惑を表情に浮かべている。


「あ」


 自分はなにを話しているのか。昨日の冒険は、まさにあやのが夢見ていた、自分が主人公の物語そのものだった。異世界でドラゴンと出会って、強大な力と責務を背負うことになる。文字通り、そんな空想の物語。


「……っていう、ゲームのお話なんですけど」


「はあ?」


 今度こそ怪訝に眉を顰める麻由香に、あやのは書庫での経験をたどたどしく説明しなおした。


 書庫にいたのはひとりの上級生だったこと。その相手に誘われた、TRPGというゲームのこと。先ほどの経験は、そのゲームの中での物語だったこと。


 しどろもどろな説明が進むにつれて、麻由香の目は細まっていき、話が終わると、つまらなさそうに鼻をひとつ鳴らした。


「やっぱり私の言った通りだった。変なゲームの勧誘だって」


「結果的にはそうだったんですけれど。でも、それだけじゃなくって」


「つまりあやのは、誰だか知らないけど先輩に唆されて、ごっこ遊びしてただけでしょ」


 辰巳に説明を受けたあやの自身が真っ先に抱いた感想で切って捨てられ、あやのは頬を膨らませた。


「違います、ただのごっこ遊びじゃありません。ちゃんと物語があって、ひとつ間違えたらやられちゃうかも、っていう緊張感もあるんです。なんていうか、ゲームとしての駆け引きもある、即興劇みたいな感じです!」


「即興劇、ねえ」


 劇、と聞いた麻由香の目尻が僅かに動くが、表情はいまだ疑わしげなままだ。いくら言葉を重ねても、納得してもらえそうにもない。どう伝えればわかってもらえるのだろう。


 ゲームマスターの語る情景に恐る恐る足を踏み込めば、そこはもう物語の中だった。曇天の淡い光に照らされた廃墟の寂寥感や、目の前に立ち塞がるドラゴンの偉大さ。脈打つ鼓動を聞きながら言葉を交わし、肝を冷やしながら逃げ惑ったあのスペクタクル。続けざまに襲い掛かってきた魔物と戦うため、手に汗を滲ませながら投じたダイスの一振り。


 あれほどまでに胸を熱くした冒険は、とてもごっこ遊びだなんて簡単に言い切れるものではないのに。


「だいたいその先輩だって、信用できる相手なの? そのまま変なサークルに誘われたりしないでしょうね」


「古湊先輩はそんな人じゃありません!」


「それ、一番信用できない台詞だから。だいたいあやのって、人を疑うこと知らないところあるし」


 取り付く島もないままの麻由香に、あやのは唇を噛みしめた。あの書庫で体験した記憶は、伝えようと言葉にしようとする端から、陽炎のように遠ざかっていってしまう。代わりに口から漏れるのは、形にならない声ばかりだ。


「ああ、もう。わかったから唸らない」


「わかってないじゃないですか。さっきもあんな、馬鹿にするような言い方……」


「別に馬鹿にしたりしてない。私にはさっぱりわからないけど、それであやのが楽しめたならいいんじゃないの」


「とっても楽しかったです。でもだからこそ、麻由香ちゃんに変な遊びだって思われたままでいてほしくないんです」


 求めていないときに限ってよく飛び出してくる言葉たちは、必要な時に限って息を潜めてしまう。物語の内容はいくらだって饒舌に語るくせに、味わった感動ひとつ上手く綴れない言葉の不自由さに、あやのは深々と肩を落とす。


「やったこともない遊びを理解しろって言われてもね」


 手のひらを拳でひとつ叩いた。


「そうですよ! やったことないからわからないままなんです。麻由香ちゃんも、一緒に参加してみましょう!」


 これ以上ない思い付きだ。麻由香と一緒に異世界に旅立てたのならば、それは自分ひとりだけの冒険よりもずっと楽しくなる。


 それに辰巳の説明では、本来TRPGという遊びは、複数人のプレイヤーがそれぞれの役割を持って、協力し合いながら困難に挑んでいくことが多いのだという。ならばきちんと説明すれば、辰巳も途中参加を許してくれるのではないだろうか。


 だというのに麻由香は、ちっとも興味を示さない様子でひらひらと手を振ってしまう。


「悪いけどパス」


「え、なんでですか!」


「そりゃ放課後は部活があるし、あやのの楽しみに水差しちゃ悪いし」


「でも、きっと麻由香ちゃんも楽しめると思ったんですけど……」


 口振りは冷たいが、なにかにつけて自分を心配してくれる親友と、また共有できる話題がひとつ増えるかと思ったのに。


「……そこまで言うなら、一回くらいなら付き合ってもいいけど」


「本当ですか?」


 弾かれたように顔を上げる。優しい苦笑いが見えた。


「ただし、そっちが私に付き合うのが先。今度映画観に行くの、付き合って」


「もちろんです、いくらでも行きます!」


 ただしその前に、ひとつ聞いておかなければいけないことがある。


「……今度はどんな筋肉が出てくる映画なんですか」


「言い方が失礼極まりない」


「すみません、どなたが主演なんですか?」


「ベン・アフレック」


「やっぱり筋肉じゃないですか!」


「あとヘンリー・カヴィル」


「二倍だ!」


 あやのは麻由香に頭を叩かれた。二人とも口を開けて笑っていた。

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