第10話

「そっか……それは大変だったね。うちに来る? 琴子もいるし、何日か落ち着くまで」


「いえ……帰ります」


「そっか。なら送るよ」


 清太郎に送られて、美鶴は家へと向かった。


「大丈夫?」


「はい……」


 清太郎にはこれ以上迷惑はかけられないと思っていたのに、家が近づくと美鶴の胸の中にはなにか嫌なものが湧き上がってくるようだった。だが、いずれ帰らないとどうにもならない。逃げてどうにもなるようなものではないと、美鶴は自分自身に言い聞かせる。


「……そこの角まででいいです」


「そっか。じゃあ……」


 清太郎が少し迷った声を出して、口元に手をやった。その時だった。


「ああっ!」


「……兄さん」


 角の先から駆けてきた人物は、勇だった。美鶴と清太郎の姿を見て口をパクパクしてこちらを見ている。


「勇兄さん、どうした……あっ」


 続けて、後からやって来たのは正だった。


「どうしたんですか、兄さんたち」


 美鶴がそう声をかけると、二人はハッとした顔をして美鶴の手を引いた。


「どうもこうも、お前がいきなりいなくなるから……な、正」


「ええ、兄さん。美鶴、お前にひどいことしたってあの婆さんが泣いてるんだよ」


「ええっ!?」


 それが真実なのか美鶴にはにわかに信じがたかったが、とにかく美鶴は急いで兄たちと共に転がるように家に上がる。


「美鶴!」


「父様、お祖母様、大変お騒がせしました」


 すると本当に祖母が目を腫らして仏間で蹲っていた。


 気まずい表情の父と目が合う。美鶴はからからになった喉から声を絞り出した。


「父様、その……」


「ああ、お祖母様は大丈夫だ。少し目眩がしているそうだがね。美鶴こそ大丈夫か……ところで、その人は誰だ」


 父の視線はそのまま美鶴の後方に注がれていた。不思議に思って振り返って、美鶴はぎょっとした。そこには清太郎が曖昧な笑みを浮かべて立っていたのである。


「ああっ!? 清太郎さん? どうしてそこに」


「……どうしてだろうね?」


 そう清太郎は答えて、美鶴の父に視線を返すと、その場に座って手をついた。


「天野清太郎と申します。妹の琴子が女学校で美鶴さんと仲良くさせていただいています」


「……はぁ」


 事情が飲み込めない父は、ぽかんとした顔で清太郎を見ている。


「仕事帰りに、美鶴さんが盛り場で酔漢に絡まれているところに出くわしまして、ここまで送ってきました」


 盛り場、酔漢と聞いて父はぎょっとした顔をした。本当か、と問いかけてくる視線に、美鶴は黙って頷いた。


「失礼しました。それはそれは……ありがとうございます」


 その姿は美鶴からすると意外な姿だった。父は堅物すぎるのか友人がいないのか分からないが、家に人を連れてくることがほとんどなかった。だから、他人に対して娘のお礼を言うなんて想像できなかった。そういうことは今まで全部、祖母がやってきていたのだ。


「後日改めてお礼をさせてください」


 美鶴の父が深々と清太郎に頭を下げた。その次の瞬間、大声を出したのは祖母だった。


「――いけません、その男は美鶴を誑かした男ですよ!」


 見ると、美鶴の祖母は敵意を込めた目で清太郎を睨み付けている。 


 祖母のあんまりな態度に美鶴は清太郎に釈明しようと手を広げて二人の間に立った。


「違うんです。これは何かの……」


「何が違うんですか! 何ですか、この男はは保護者の立場でありながら、その……」


「わーっ、お祖母様!」


 その先を言わせまいと美鶴は祖母をガクガクと揺さぶった。


「美鶴さん、お祖母さん目眩がするんだろ。いけないよ」


「あっ」


 清太郎にそう言われて美鶴は慌てて手を離す。


「お祖母様、ごめんなさい」


「……良いんです。わたくしの育て方が悪かったんです」


「そんな……」


 いつになく弱気な態度の祖母に、美鶴はどきっとした。祖母ももう歳だ。美鶴やその兄をいつまでも世話をやける訳ではない。


「お母様はよくやってますよ。美鶴、済まない。後添いでもとれば良かったんだろうが、どうもそういう気になれなくてね」


「父上……」


「いいかい、美鶴。お祖母様も美鶴が憎い訳ではないのだよ。私の兄弟も男ばかりだったし、この家もそうだ。母上が亡くなって兄弟すらお前にどう接して良いか分からなかった。その中でお祖母様はどこに出しても恥ずかしくない娘にしようとしたんだ。お前は寂しかったかもしれないがね……」


 そうぽつぽつと語る父の姿がなんだか小さく見える。この父に、美鶴はとても苦労をかけてしまったような気がする。


「寂しかったです。……でも母上の代わりなんていりません。お祖母様が……育ててくれたお祖母様がいますから」


 美鶴がそう言うと、祖母はさめざめと泣き出した。


「ごめんなさい、お祖母様」


「こちらこそ、ごめんなさい美鶴」


 父も祖母も、そして兄弟たちもほんの少しのボタンの掛け違いがこの不器用な家族の中で不必要に広がってしまっただけのような気がする。少しだけ家から離れただけなのに、美鶴の目にはそう映っていた。


「……何か飲み込めたみたいだね」


「清太郎さん……ごめんなさい、見苦しいところをお見せして」


 急に恥ずかしくなって美鶴がそう謝ると、清太郎はなんの問題も無い、と手を振って答えた。


「良かったよ。美鶴さんはご家族のことでとても悩んでいたから」


「……はい」


 散々に清太郎に迷惑を掛けてしまった美鶴だったが、彼の笑顔でなんだか救われたような気分になった。


「ありがとうございます」


 玄関先まで家族全員で清太郎を見送りに出た。清太郎は靴を履こうとかがんだ後――急にこちらに振り返った。


「すみません。後日にしようと思ったのですが、今言います」


「清太郎さん、どうしたんですか?」


 清太郎の表情は先ほどと違って、緊張感が漂っていた。美鶴もつられて胸がドキドキしてくる。清太郎はふう、息を吐いて口を開いた。


「あの、僕は美鶴さんと結婚したいと思っています」


「は!?」


 あまりに突拍子のない言葉に、美鶴だけでなく父も祖母も兄たちもひっくり返った声を出した。


「あ……天野さん、今なんと?」


 ようやく聞き返した美鶴の父の声はしわがれていた。


「結婚したいと言いました。女学校を卒業してからでかまいません」


「こんな格好をした娘のどこが……」


「お父上には分からない魅力が娘さんにはあるんですよ」


 一度口に出してしまうと吹っ切れたのか、清太郎はいつもの明るい調子で答えた。


「美鶴さんは嫌かな」


「そんな……嫌な訳ないじゃないですか」


「――だと思った!」


 その二人の様子を家族は驚愕の眼差しで見つめている。


 そんな彼らに、清太郎はお返事がいただけるまで何度でも来ます、と行って帰っていった。


「……変わった人だね」


 嫌みか、それとも素直にそう思ったか、去って行く清太郎の後ろ姿を見ながら、勇がぽつりと呟いた。


 美鶴はなんと答えたらいいかと考えて清太郎の言動を振り返り……こう答えた。


「そうですね。変わってます。私よりよっぽど」


 夜が明けて、美鶴はなんだかふわふわした気分で目覚めた。朝食では家族全員、どこを見て良いのか分からないようなよそよそしい顔をしている。


「いってきまーす」


 そうして久々に向かった学校は、大騒ぎになった。


 下級生たちは美鶴の姿を見て黄色い声を出し、学年問わず誰も彼ももみくちゃになって彼女を取り囲む。おかげで中々前に進まない。


「ちょっと失礼!」


 その人垣を押しのけて前に出てきたのは万喜だった。


 万喜は美鶴の姿を見つけると、ニヤッと笑う。


「美鶴! お帰り!」


「……ああ。ただいま」


 万喜が美鶴に抱きつくと、人垣は自然に割れていった。


「琴子はどうしたんだい」


「あっちよ」


 万喜が指さす方を見ると、琴子が近くに佇んで、つま先を見つめていた。


「琴子ー!」


「……美鶴さん」


 美鶴が呼びかけると、琴子はおずおず美鶴に近づいた。


「あの……ごめんなさい。何か兄が美鶴さんに変なこと言ったみたいで」


「変なこと?」


 そう聞き返すと、琴子はまた顔を伏せて小さな声でぽつんと声を漏らした。


「……結婚したいって」


「ああ。するよ。そうすると琴子は妹になるのかな」


「う、うそ……」


 美鶴が琴子の言葉をするりと肯定すると、彼女はおろおろとして口元を覆った。


「なっなんで、いつの間にそんなことになってるんだべ!」


 そしてそう悲鳴みたいな声で叫ぶと、そのまま琴子は蹲ってしまった。


「あらら……大丈夫? 琴子さーん」


「無理もないよ。琴子、大事なお兄さんを取っちゃってごめんなさい」


「違うべ! そういうことじゃないべ!」


 それから琴子は、美鶴と万喜から一週間三つ葉でみつ豆をおごると言われるまでずっとへそを曲げていた。


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