第9話
翌日から、美鶴は学校を休んでしまった。あの二人に強い態度をとってしまったことが悔やまれて、悶々としているうちに朝が来た。ひどい顔でふらついているので、祖母が医者を呼んだのだが当然ただの寝不足なのでどこも悪いところはない。医者は不眠でしょうとだけ言って薬を置いて帰って行った。
「遊び回っているからですよ」
「……はい」
美鶴は何か言い返す気力もなく薬を飲んで眠った。
その日は眠ってしまえば気も晴れる、と思ったのだが眠れたのは薬を飲んだひとときだけで、翌日も体のだるさが抜けず美鶴はまた再び学校を休んだ。
「わざわざ女学校に行かせているのに何事ですか」
そんな美鶴を祖母は怠けていると言って強く叱った。祖母の頃には女の進学など考えられないことだったから、そう言われても仕方ないと美鶴も思う。
だからと言って、理屈のままに気持ちや体が思うままになるかというとそんなことも無い。
翌日、結局そのまま美鶴は学校に行かずに図書館に向かった。ここならば祖母に見つからず時間を潰せる。静かな空間で美鶴は本を読んで過ごした。
「あっ、美鶴さん」
そうして家への玄関を開けた時だった。見覚えのある小さな影が美鶴を見つけて駆け寄ってくる。
「琴子……」
「どうしたの、美鶴さん。三日もお休みして」
「あの……」
美鶴は琴子の顔をまっすぐに見られずに目を逸らした。
「琴子さん、美鶴にもなにか事情があるのよ。……ごめんなさい美鶴。琴子さんがどうしても心配だって言って。まあ私もなんですけど」
どうやら琴子と万喜は学校を休んでいる美鶴の元にやってきたらしい。
「大丈夫、明日はちゃんと行くから」
「本当ね!?」
「ああ。さぁ、あまり長居すると帰りが遅くなるよ」
美鶴は笑顔を貼り付けて、二人を角まで送った。そして恐る恐る玄関の戸を開ける。
「美鶴さん、これはどういうことですか」
そこには怒りで顔を真っ赤にした祖母が待っていた。
「はい……」
――何かを煮る匂いがする。開いた引き戸の向こう側からは調子外れな笑い声がした。街の雑踏の中に美鶴はひとりぽつんと佇んでいた。
「我慢……したよね……私」
学校に行ってなかったことが発覚した美鶴は、こってりと祖母に叱られた。雨あられのように降り注ぐのを最初はじっと耐えていた。だが、祖母が一端その場を離れ、手にしているものを見た時、美鶴は我慢の限界が来たのだ。
「これはなんです。こんな浮かれたことばかりするのなら女学校を辞めさせて、家の手伝いをしてもらいますよ」
「そ、それを見たのですか!」
祖母の手に合ったのは――美鶴の日記だ。誰にも見せるつもりもなく、赤裸々に清太郎のことも何もかも書いたそれが目の前に投げ捨てられた。
「……最低」
美鶴はその日記をひったくるようにして奪い返すと、そのまま家を飛び出した。
「待ちなさい!」
祖母の引き留める声を振り払うように、美鶴はひたすら走る。出て行けと言ったり待てと言ったり、祖母の考えがまるで分からない。
そしてひたすら人混みを歩いているうちに、美鶴は盛り場を歩いていた。
「どうしよう……」
何も考えずに出てきてしまった。足が疲れたし、お腹がすいた。少しの小銭なら持っているが、こんな飲み屋ばかりの場所でどうしたらいいか分からない。美鶴はぴたりと足を止めた。
「……」
ひとりで少し冷静になって考えてみると、確かに祖母のしたことは最低だ。だが、美鶴のしたことは余計に事態を悪化させただけのような気がする。今日だってこれからどうしたらいいのか分からない。
「馬鹿野郎!」
その時突然、体に衝撃が走り美鶴はよろけた。そこに罵声が降ってくる。
振り向くと赤ら顔のオヤジが美鶴に怒鳴りつけていた。
「どこ見てやがんだ……!」
「すみません」
美鶴が頭を下げると、男は変なものを見る顔でこちらをじっと見つめた。
「……お前、女か」
「そうです」
男のじっとなめ回すような視線が気持ち悪くて、美鶴はその場をさっと離れようとした。だが、男はがっと美鶴の手首を掴む。
「待てよ! よく見ればかわいい顔してんじゃねぇか」
男の下卑た笑顔が近づき、その酒臭い息に美鶴は顔を背ける。
「離して下さい」
「いいじゃねぇか、ちょっと酌くらいしていけよ」
「やめてください!」
美鶴は強く拒絶したが、男は随分と酔っているのだろう。にたにたと笑ってしつこく絡んでくる。
「警察を……」
だが、美鶴がそう口にした途端、男の態度が豹変した。
「なんだお前! 今なんて言った!」
男の手が、美鶴のシャツの襟首を掴む。
「痛い!」
ひょろりとした男の意外な力に、美鶴はぞっとした。しかも周りは取り囲んで見ているばかり。
「誰か……誰か助けてください!」
美鶴は亀のように蹲って、そう必死に叫んだ。
「――大丈夫か!?」
聞き覚えのある声がした。まさかと思って美鶴が恐る恐る顔を上げると、そこには清太郎がいて、男を押さえつけていた。
「なんだおめぇ!」
「済まないね、知り合いなんだ。オジさん、これで飲み直しておいでよ」
清太郎が男の懐に紙幣をねじ込むと、男はにやっとしてその場を離れた。
「ふう……」
「あの、すみません……清太郎さん」
美鶴は信じられない光景に、半信半疑で清太郎に声をかけた。すると、清太郎はスッと手を伸ばし、美鶴のおでこを指で弾いた。
「あ、痛!」
「駄目だろう、こんな時間にこんなところにいちゃあ。どうしたんだい?」
「……はい、あの」
そう、美鶴が答えた途端、腹の虫が鳴った。美鶴は真っ赤になってお腹を押さえる。
「ははは、お腹が空いたか。じゃあどこかで何か食べよう。食べながら話してくれるね? 蕎麦でいいかな」
「なんでもいいです!」
こうして美鶴と清太郎は通りを一本入った小道の屋台の蕎麦屋に行った。
「……すみません。私……家を飛び出しちゃって」
掛け蕎麦を一気にすすり込んだ後、美鶴は箸を置いて清太郎に向き合う。そして、ここ数日学校に行けなかったこと、そして日記を祖母に見られたことを話した。
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