第3話

「それじゃあ、私はここで」


「ではまた学校でね、美鶴さん」


 始終慌ただしかったが、楽しい休日となった。美鶴は琴子と途中の道で別れる。琴子は美鶴が角を曲がるまで、ずっと手を振っていた。


「ただいま帰りました」


 美鶴が家の戸を開いた時である。剣呑な声がいきなり美鶴に降ってきた。


「遅いじゃありませんか、美鶴さん」


 それは美鶴の祖母の声だった。今日も髪に一筋の乱れもなく、襟元もきっちりとして、隙のない佇まいである。


「まだ日も暮れていませんし、さして遅くはありませんよ、お祖母様」


「そういうことではありません」


 では、どういうことなのか、と言いたいのを美鶴はぐっと堪える。だが、祖母の言いたいことは分かっている。若い娘が変にはしゃいだりするのを、この祖母は咎めているのだ。


 別に美鶴は大笑いをしながら帰宅した訳ではないけれど、口にしてない今日の街の華やぎや、楽しい出来事を嗅ぎつけて、浮かれるなと言いたいのだろう。


「休日に学友と外出しただけです」


「美鶴さん、常々申しておりますが、その珍妙な格好で出歩くのをやめなさい。あなたは女なのですよ」


「いいえ、やめません。そうですね、お巡りさんに止められたらやめましょうかね」


 美鶴はあえて威圧するように、祖母の側に一歩近づいた。こうなると、祖母は美鶴を見上げる格好になる。美鶴の背は十を過ぎた頃からするすると伸びて、今では下の兄と同じくらいの丈になっている。


「で、出て行きなさい!」


 祖母が金切り声を出す。ここで感情的になっては思うつぼなのだ。美鶴はもう学習していた。


「……それを決めるのは父様です」


「黙りなさい!」


 さらに顔を真っ赤にして祖母が怒鳴る。だが美鶴は無視して自室へと向かった。


「あなたは武家の娘なのですよ!」


「もう大正の世です」


 やかましく追いかけてくる声を塞ぐように、ぱたりとふすまを閉める。


「……ふう」


 あの人はどうして一日を台無しにするような真似ばかりするのだろう。美鶴は嘆息した。いまだに、ことあれば口にする武家の出をやたら誇りにする祖母が美鶴は苦手だった。


 そこにチクンと胸のひっかかる感じがあるのは、この祖母が美鶴を母親代わりに育てたせいだった。美鶴の母は彼女を産んだ産後の肥立ちが悪く、間もなく亡くなってしまった。


 そこでやんちゃ盛りの兄二人とまとめて育てたのが祖母だった。その躾けは厳しく、折檻なんてしょっちゅうで、食事時なんかは特に箸を持つ手に汗が滲んだものだ。


 おまけに役人の父は仕事ばかりで何を考えているのか、末っ子の美鶴のことなどは目に入らないかのようだったし、そのうちにきっと自分はいらない子なのだと美鶴は思うようになった。


『お前を産んだから母上は死んじゃったんだ』


 美鶴は部屋で膝を抱えて、昔のことを思い出す。いつぞやなにかで喧嘩になって、兄たちにそう責められたことで、美鶴はますます内向的な子供に育っていった。




 ――それをガラリと変えてくれたのは……万喜だった。


「ねぇ、あなた。随分背が高いのね。きっと洋装が似合うわ」


 急に甲高い声で声をかけてきた同級生に、最初は面食らった。その頃、万喜はまだ袴姿で学校に来ていて、明るい雰囲気の生徒ではあったが特別に目立つという訳ではなかった。


「ねぇ、私のうちにこない? うちは百貨店をしていてね。洋服がいっぱいあるの」


「う……うん」


 美鶴がおずおずと頷くと、万喜はコロコロと鈴が鳴るように笑って、美鶴の背中を軽くポンと叩く。


「いやぁね、背中を丸めちゃって。もったいないわ」


 そうして初めて行った万喜の家は、見事な洋館でこれまた驚いた。


 美鶴の家は昔ながらの家で、食事も箱膳で取るくらいだから無理はない。


「はい。紅茶とクッキー。これ頂き物なのだけど、とっても美味しいの」


 万喜はお菓子をつまみながら、ぺちゃくちゃと学校の変な先生のことや、最近買った本のことなんかを話し続けている。これがうちなら黙って食べろと祖母に物差しで手をはたかれるところだ。


「で、どれを着てみたい?」


 それから万喜は自分の服を取りだして、あれこれ着せてくれた。


「あら、よく似合うわ」


「……本当?」


 美鶴はこんな風にして着る物を選んだことがない。衣替えの際に祖母の用意したものをただ着るだけ。色や柄が気に入らなくても、それを口にしたことはなかった。


「ええ、美鶴さん。美鶴でいいかしら?」


「は、はい」


「美鶴はこれも似合うと思うの!」


 そこで万喜が取りだしたのはズボンだった。


「……へ? 男物でしょう?」


「そう。弟のなんだけど。美鶴は足がうんと長いからきっと似合うわ」


 そう言う万喜の目はきらきらと輝いている。美鶴はその視線に、まるで魔法にかけられたようにズボンを穿いた。


「すごい! やっぱりよく似合う!」


 大げさなくらいに喜んで、万喜は手を叩いた。美鶴はしみじみと姿見の中の自分の姿を見つめた。


「美鶴は切れ長の目がとても綺麗だから、これで髪が短ければ大層な美少年に見えるわ」


「そうかな」


 初めて穿いたズボンは締め付けるような感じがなくて、足が自由で歩きやすい。


「……気に入ったみたいね?」


 万喜がいたずらっ子みたいな顔をして微笑んでいる。美鶴はこくんと頷いた。


「じゃあ、それあげるわ」


「えっ、弟さんのじゃないの?」


「あの子、着道楽なの。これは裾がちょっと擦れたからもう嫌だって。だからあげるわ」


 この服の数からして、万喜だって相当な着道楽だと思うが自分のことはよく分からないらしい。


「……そう」


 この気持ちはなんだろうか、と美鶴は再び姿見を見た。別人みたいだ、と思う。こうしていると、美鶴の嫌いな自分とは別の姿があって、なんだか頼もしく見える。


「いただいてもいいかしら」


「ええ」


 こうして美鶴は万喜の弟さんのズボンとシャツを貰って帰った。




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